『身の丈ほどもある一角の大猪やら、双頭の蛇やら。どいつもこいつも、狂暴で危険なヤツらばかりさ』

やれやれだぜ、と言いながらも笑っていたアレクセイの表情が、曇る。

『……ただ、ソイツらは霧の中の化け物に比べればマシだ』

その透き通るような水色の瞳は、不安げに揺れていた―

『―刃で倒せるだけ、な』

ずるっ、ずるるっ、と重い音。

ケイの瞳は、霧の向こう側に、何か蠢くものを捉えた。

えぇん…… えぇん……

―間違いなく、『声』。すすり泣くような。その姿は、はっきりとは見えない。

しかし、思ったよりも小さな影。

…………

どくん、どくんと心臓の鼓動を意識する。

ええん…… えぇぇえええん…… えぇぇん……

泣き声は、ケイたちの存在には気づいていないようだった。

来たときと同じように、そのままゆっくりと遠ざかっていく。

じりじりと肌が焼け付くような感覚。

やがて、霧の彼方に声が消え、再び静寂が訪れたとき、ケイとアイリーンは盛大に息を吐き出して、樹の幹にもたれかかった。二人とも、知らず知らずのうちに冷や汗をかいている。

結局、ケイが矢を放つことはなかった。

……ケイ。何だよ、アレ

……わからん。……赤ん坊じゃないよな?

赤ちゃんがこんなとこにいるわけないだろ……

……だよな

ケイも、頭ではわかっている。だが―あの影の形は、赤ん坊にしか見えなかった。あの重量感のある音とは裏腹に、抱きかかえられそうなほどに小さくて、儚げな存在に見えた。とても、矢を放つ気にはなれなかったのだ。

尤も、矢を当てたところで『倒せるか』は別問題―あれは、果たして生物だったのだろうか?

ヤバいな、ここ

そうですか? 良い場所だと思いますよ

は?

アイリーンの呟きに、別の誰かが答え、間抜けな声を上げるケイ。

弾かれたように振り返ると、いつの間にか背後に、奇妙なものが立っていた。

それは本当に『奇妙なもの』としか形容しようがない。背丈はケイたちと同じくらいの、一般的な人間サイズ。卵型の胴体に長い手足。ただしその胴体は―いや、そもそも『胴体』と言って良いものか。

全て、顔だった。顔から手足が生えたような姿。

ケイは咄嗟に『鏡の国のアリス』のハンプティ・ダンプティを連想した。卵を擬人化した、ずんぐりむっくりな体型の登場人物―一般に知られているハンプティ・ダンプティとの違いは、体表がざらざらとした岩のような質感をしていることだろう。まさしく、石の卵―その重量を物語るかのように、柔らかな大地にはその小さな両足がめり込んでいる。そしてそれは、眼前のこの奇妙な『もの』が、紛れもなく実在することを示していた。

なっ

いち早く我に返ったケイは、思わず弓を構えそうになったが、寸前で自重する。その胴体(もしくは顔)ではなく、ただ威嚇として、足元に狙いを定めた。『対話可能』な存在であれば、殺すつもりで武器を向けるのはあまりに無礼だと思ったからだ。あるいはそう思わせるだけの穏やかで紳士的な態度を、その『石卵』は貫いている。見れば、アイリーンもケイと同じ考えだったらしく、背中のサーベルに手を伸ばしてはいたが、引き抜いてはいない。

―だが、この存在は本当に『対話可能』なのか?

最初に話しかけてきてから一言も発さない石卵を前に、ケイは嫌な汗が滲んでくるのを感じた。

石卵は、微笑んでいる。

アルカイックスマイル―口の端に浮かぶ無感動な微笑。よくよく見れば、その顔の造形はまるで冗談のようだった。大きな丸い目に、ひしゃげた鼻、しわの寄った、ケイを丸呑みできそうなほど大きな口。全体的に石のような質感を漂わせているが、その瞳だけが妙に生気を感じさせていて、気持ち悪い。絵画からそのまま飛び出してきたかのような非現実感。身じろぎもせず、ただ、じっとそこに立ち尽くす様は悪趣味な石像のようでもある。

ただ―なんだろう。

その瞳を睨み返していると、ケイは無性に不安を掻き立てられるのだ。

石卵は、微笑んでいる。

しかしそれはケイの認識に過ぎない。石卵が浮かべている表情を、『微笑みである』と判別しているのはケイだ。

疑問がある。

穏やかな表情に対して―この瞳の奥にあるものは何だ。

ゆっくりと、ケイは弓を構え直す。

狙いは足元から、石卵の体の中心へ。

もはや無礼だの対話だのという考えは投げ捨てていた。無感動に、じっとこちらを凝視する見開かれた両眼から、ケイはある動物を連想せずにはいられないのだ。

『蛇』

獲物に狙いを定める、肉食の爬虫類―

すっ、と石卵が、瞳だけ横に動かした。

視線を移す。

アイリーンに。

びくんと反応した少女は、サーベルの柄に手をかける。ケイもまた”竜鱗通し”を握る手に力を込め、即座に弦を引けるよう感覚を研ぎ澄ます。

にわかに、恐ろしいほどの緊張がその場を支配した。

“竜鱗通し”を構えるケイも、サーベルを握るアイリーンも、微笑む石卵も、それ以上は動かない。

…………

やがて、石卵がつっと視線を逸らした。まるで興味を失ったかのように。

くるりと背を向ける。

その瞬間、ケイは思わず叫びそうになった。

背面には、無数の人の顔。

一つ一つが、握りこぶし大の『顔』だった。丸みを帯びた石卵の背面を、びっしりと埋め尽くしている。男の顔もあった。女の顔もあった。老いも若きも等しく苦悶の表情を浮かべたそれらは、ケイとアイリーンの姿を認め、一斉に口をぱくぱくと動かす。

まるで助けを求めるように。

小さな口が―無数の『穴』が、蠢く。

うぅッ……

あまりの醜怪さに、顔を青褪めさせたアイリーンが口元を押さえた。ケイの全身が粟立つ。その異質さ、そして何より生理的嫌悪感に。

石卵は、もはや振り返ることもなく、歩み去っていく。

のしのしと足音が遠ざかり、その背が―人々の顔が、霧に包まれて見えなくなる。

ただ、二人の荒い吐息だけが、やけに耳についた。

……何だよ、今の

アイリーンが喘ぐようにして、呟く。

ケイはそれに答えられない。

ただ、矢を放たなくて良かったかも知れない、とだけ思った。

……戻ろう

額の冷や汗を拭いながら、ケイ。その提案に、アイリーンは一も二もなく頷いた。

そのまま命綱を辿って引き返そうとしたところで―しかし二人は足を止める。

おかしなことに気づいた。

ケイたちの命綱。

今までずっと、森のほとりから引っ張ってきたはずのそれが。

上(・)に(・)向(・)か(・)っ(・)て(・)伸(・)び(・)て(・)い(・)る(・)。

呆けたような顔で、ロープの先を視線で辿っていく二人。

立ち込める乳白色の壁の向こう側に、ロープの先端は吸い込まれていき、見えなくなる。ぼやけた霧の果ては、見通すことができなかった。ケイの目をもってしても。

ロープの伸びる方へ、一歩、二歩と歩み寄る。

当然、ロープはゆるんで、たるむ。

するとたるんだ分だけ、しゅるしゅると『向こう』から手繰り寄せられる。

そのままふらふらと、釣られるようにして歩いて行く二人だったが、十歩も行かないうちにケイが立ち止まった。

霧の向こう側に―ぼんやりと、何かが見えてきたのだ。

でかい。

人型―に見える。だが、サイズがおかしい。その背丈は、見上げるほど―少なく見積もっても十メートル近くある。周囲の大木に匹敵する高さ。

そ(・)し(・)て(・)ロ(・)ー(・)プ(・)は(・)そ(・)の(・)人(・)型(・)の(・)手(・)元(・)に(・)伸(・)び(・)て(・)い(・)る(・)。

それは―どことなく、犬の散歩を思わせた。

命綱がリード。

ケイたちが、犬だ。

…………

口の中が、からからに乾いていた。

そのとき、何を思ったかケイは、その巨大な『ヒトガタ』を前にして、くいくいと命綱を引っ張った。

くいくい、と合図が返ってくる。

明らかに、その動きに合わせてヒトガタが揺れていた。

そして、ケイは、とうとう気づく。―今まで、長時間に渡り合図を送っていなかったにもかかわらず、救助のため命綱が引かれなかったことに。

即座に、ナイフを抜いて命綱を切断した。

ぱたっ、と軽い音を立てて地に落ち、たるむ命綱。

しゅるしゅると、ヒトガタがそれを引いていく。手繰って、手繰って、手繰り寄せて―先端に、何もついていないことに気づいた。

―!

その瞬間、周囲に満ちた異様な気配を、なんと形容するべきだろう。

怒声、が適当かもしれない。

だが、森は静かなままだった。

静寂の中に、怒りが満ちている。

眼前のヒトガタが、駄々をこねるように暴れ始める。

あっ、うわっ

逃げるぞッ

上擦った声を上げるアイリーン。その手を引いて、無理やり引き摺るようにしてケイは駆け出した。すぐに我に返り、アイリーンも自ら走り出す。

二人の声と足音に、ヒトガタも気づいたらしい。

―!

無言の怒気を吹き上げるようにして、ズンッ、ズンッと重い足音を立て追いかける。

立ち枯れたような木々を薙ぎ倒し、大地を砕き、それでも止まらない。

ヒトガタの動きは鈍く、お世辞にも機敏な走りとは言えなかった。が、一歩の歩幅が段違いだ、いずれ追いつかれる。アイリーンだけなら逃げられるかもしれないが。

ケイは―

くそっ、アイリーン走れ!

二人の腰をつなぐ鎖を、そのフックを外した。

あっ、ケイ何を!?

突然ヒトガタに向き直ったケイに、アイリーンもまた立ち止まる。

行けっ、俺に構うな!

そう叫ぶケイは、おもむろに”竜鱗通し”を構えた。

青色の矢羽。通常のものより、さらに長い矢をつがえる。

狙うはヒトガタの頭部。

一息に引き絞り、放つ。

カァン!! と快音、見上げるような化け物に、矢が唸りを上げて突き立つ。

―!!

大気が、それそのものが動揺するかのように震えた。両手で頭を抱えたヒトガタが勢いを失い、ふらふらと足元が覚束なくなり―倒れる。

重量物が叩きつけられる衝撃に身構えるケイだったが、しかし、ヒトガタの体躯が地に触れる寸前で、弾(・)け(・)た(・)。

くッ!?

ケイは顔の前で腕を交差させ、姿勢を低く保つ。ぶわりと吹き荒れる風。いや、それはもはや『爆風』だった。あるいはヒトガタの断末魔の叫びか、無音のうちにびりびりと痺れるような、音に近い何かがケイを圧する。纏わりつく霧さえも、一瞬吹き散らされたほどだった。

だが、霧はすぐに戻ってくる。

森は再び静寂に包まれ、しっとりとした空気が辺り一面を覆い尽くす。

未だわんわんと残響すら感じる中、ケイはそれを振り払うように頭を振りながら、立ち上がった。

……無事か? アイリーン?

呼びかける。

……アイリーン?

しかし、返事がない。

慌てて周囲を見回した。だが、あの黒衣の少女は姿は、ない。ケイは霧の中にひとりぼっち、取り残されている。

霧は、ますます濃くなったようだ。もはや数歩先さえも見えない。

白くぼやけた世界で、ケイは一人、狼狽した。

アイリーン? アイリーン!?

声を振り絞って叫ぶ。そして耳を澄ます。

……ケーイ!

やがて、どこからかアイリーンの声が返ってきた。

アイリーン!? どこだ―!?

……ケーイ! どこ―!?

アイリーン!! 俺はここだー!

……ケイ? ケーイ!? なんで!? どこなの!?

アイリーンの声には、困惑の色が滲んでいた。何らかの原因で、方向感覚を失っているのか。

動くな、今そっちに行く―! 待ってろ―!

声のする方へと、ケイは足元を警戒しながら走り出す。

アイリーン!!

……けーい!!

アイリーン、大丈夫か―!?

ケーイ!

アイリーン!!

けーーい! こっちー!

そっちか! アイリーン!

ケ―イ!

アイリーン!

けーい! けーい!!

走って、走って、走って。

なぜだ。

立ち止まる。

アイリーン! 動くな、俺が行くから!

霧の向こう側へ、叫ぶ。ケイがどれだけ走っても、距離が縮まらない。

けーい! こっち、こっちー!

相変わらず、アイリーンの声は聞こえてくる。

アイリーン! 動くなよ! いいか!? 今そっちに行くから!

けいー?

さらに、走った。そして霧の向こう側に、朧気に黒い影。

良かった、ここにいたか!

その背中に、声をかける。

アイリーン、大丈夫、か……

だが、残り数歩の距離まで迫ったところで、足を止めた。

ゆらゆらと揺れる、黒い影。背中を向けているのだと思っていたが、これは―

いや―黒衣ではあっても、これはおかしい。アイリーンの髪はプラチナブロンドだ。こんな黒髪では―いや、肌の色も黒くなんか―

いや、そもそもこれは人間では

けーーーーーいーーーーー

がぱぁっとくちがひらいた

何だお前!?

躊躇いなく、弓を引く。矢をぶち込む。

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