腰に革帯を着け、鎖を繋ぐフックの調子を確認し、命綱を樹の幹に括り付け―と、ケイたちが黙々と準備を進めていると、ほろ酔い加減の村人たちが騒ぎ始めた。お調子者の雰囲気を漂わせる若者が、鉢を手に見物人たちの間を飛び回っている。何やら話が盛り上がっているようだが、雪原の言葉(ロスキ)なのでケイは理解できない。
……何を話してるんだ? あれ
う~ん……賭けをやってるみたいだな
ケイの問いに、アイリーンが極めて複雑な表情で答えた。
賭け?
オレたちが戻ってこれるかどうか……戻ってこれたとして正気を保ってるかどうか、みたいな……
……ああ
ケイも、アイリーンと似たような表情を浮かべた。娯楽の少ない田舎とは言え、それが賭けとして成立する程度には無謀なことをしようとしているのが、自分たちだ。
よし。それじゃあ二人とも、準備はいいか?
大丈夫だ
問題ないぜ
セルゲイの言葉に、頷くケイとアイリーン。二人とも腰に革帯を巻き、それをニメートルほどの細長い鎖で繋いである。森の中で離れ離れにならないための措置だ。また、ケイのベルトには命綱も括り付けられており、戻る際は文字通りこれが唯一の頼みの綱となる。
魔の森では方向感覚が狂い、方位磁針も使い物にならなくなるという。帰りはシーヴを頼る、という手もあったが、霧の中では魔術も阻害されるため、ただ道を示すだけの術式でも大量の触媒を消費してしまう可能性もある。手持ちの宝石(エメラルド)は少なく、残りの魔除け(タリスマン)は二つのみ。宝石は兎も角、タリスマンは貴重なので浪費は避けたいところ―加えて、魔力の要求量が手持ちの触媒を超えてしまえば、待ち受けているのは枯死だ。いずれにせよ、霧の中では極力魔術を使わない方がいい。
……よし。行こうか
少しばかり神経質に、最後にもう一度、腰にしっかりロープが結びつけられているか確認したケイは、ぺろりと唇を舐めた。傍らのアイリーンも流石に緊張した面持ちだ。互いに目配せして、こくりと頷く。
灰色の壁。
魔の森の『霧』を前に、立つ。
ケイが手をかざすと、かすかに風がそよいだ。オオオォと大気が鳴動し、霧の壁に穴が開く。どよめく周囲の野次馬たち。
う……
が、手を挙げた格好のまま、ケイは顔をしかめて呻いた。
どうした、ケイ?
……シーヴに魔力を吸われた
頼んでもいないのに勝手に術を行使し、それでいてその分の魔力はしっかり徴収していくのがシーヴだ。賢者の住処まで風穴を開けて案内してくれるわけでもなし、入り口だけ開かれても、見物人たちを楽しませる以外に意味はないのだが―おそらく、それこそがシーヴの目的なのだろう。気まぐれでお調子者、それが風の精霊だ。余興で魔力を持っていかれるケイは堪ったものではないが。
……大丈夫か? やめとく?
ケイの魔力の低さは重々承知しているため、心配げなアイリーン。しかしケイはおもむろに いや と首を振った。
平気だ。……なんというか、慣れてきた
『こちら』で初めて魔術を行使した際は、枯死寸前にまで魔力を使ってしまい、反動の吐き気やら何やらで死にかけたものだが、幾度となく経験を積むうちにある程度慣れてきた。流石にシーヴが手加減しているということもあるのだろうが、今しがたの魔術の行使も少し身体がふらついた程度で済んでいる。
でも、万全を期すべきじゃないか? ちょっと休んだ方が……
いやいや、本当に大丈夫だ。もう回復したから
それでも心配そうなアイリーンに、ケイは明るく笑ってみせた。強がっているわけではない。ぺしぺしと頬を叩いて改めて気合を入れ直す。
よし。じゃあアレクセイ、セルゲイ、行ってくる
うむ。新たな伝承の誕生に立ち会えることを光栄に思う
何をどう、気をつければいいのかわかんねーけど……気をつけてな
腕組みして重々しく頷くセルゲイ、そしてケイの腰に括り付けられた命綱をしっかりと握りつつも、少々気弱な笑顔を見せるアレクセイ。
これが合図だからな。返事がなかったらすぐに全力で引っ張るぞ、ケイ
アレクセイはクイクイッと命綱を軽く二度引いてみせた。一応、命綱の末端は、何があっても外れないよう大樹に括り付けてある。安否確認の合図を送るのが、アレクセイの役目だ。
ああ。こうだな
ケイも二度、引っ張り返す。
二人とも、無事に戻ってこいよ
なーに、心配すんなって
今日は命綱の届く範囲で、軽く散歩してくるだけだからな
ひらひらと手を振るアイリーン、にやりと笑ってみせるケイ。
表情を引き締め、霧へと向き直った二人は、そのまま躊躇うことなく灰色の世界へと踏み込んでいく。
二人の背中が、とぷんと霧に呑まれ―見えなくなる。
ただ、そびえ立つ灰色の壁から、ロープが一本。ゆらゆらと揺れながら、奥へ奥へと進んでいく。アレクセイは手元の命綱越しに、二人の歩調を感じ取っていた。
ケイ、アイリーン! どうだ、大丈夫そうかー?
ロープを繰り出しながら、アレクセイは声をかける。
が、霧の奥から返答はなかった。不安に駆られ、くいくいと綱を二度引く。
するとすかさず、くいくいっと合図が返ってきた。どうやら無事らしい。霧の中には声が届かないようだ。
魔の森についての知識が増えたな、などとアレクセイが暢気に考えた、
次の瞬間。
ぶるん、と命綱が大きく揺れ―止まった。
そして不気味なまでに、動かない。
……ケイ? アイリーン?
くいくい、と合図を送るアレクセイ。
…………
返事は―
あれ? 二人とも……ぬおッ!?
突然、ぐんっと手を取られ、アレクセイは困惑の声を上げた。凄まじい勢いでロープが引かれている。まるで暴れ馬の手綱のような―
うわっ!? うおおおおおおッッ!!
綱引きのように身体を倒し、地面に踵を食い込ませてどうにか耐えようとするが、力が拮抗したのはほんの一瞬に過ぎなかった。グゥンと一際強く引っ張られ、身体が宙に浮き上がり、命綱ごと霧の中へ引きずり込まれそうになるアレクセイ。
やめろっ手を離せ!
そこで、セルゲイが体当たりするようにアレクセイを引き剥がした。二人して、もんどり打って森の腐葉土に転がる。ロープは大魚がかかった釣り糸のように、猛烈な勢いで引かれていく。
これは……一体何が!?
わからん!
迂闊に触れれば手が擦り切れてしまいそうな速さ、地面にとぐろを巻く形で放置されていたロープは、あっという間に限界に達する。
バンッ、と乾いた音を立て、張り詰める命綱。大樹に結び付けられた末端がぎりぎりと軋みを上げている。
命綱を引っ張る『何か』は、それで限界を悟ったらしい―
一瞬、綱が緩んだ。
が、一拍置いて、再び猛烈に引っ張られる。
バンッ! バンッ! バンッ! と、執念すら感じさせる乾いた音が、森のほとりに響き渡る。あまりの力に大樹の幹がぐらぐらと揺れ、ロープがみるみるうちに摩耗していく―
あ、ああ……!
アレクセイの、嘆きとも悲鳴ともつかない声も虚しく。
バツンッ! と一際大きな音を立てて、命綱が千切れた。
そして、呑み込まれていく。
命綱が―霧の向こう側へと。
とぷん、と灰色の壁が無感動に揺れ、後には何も残らない。
嘘だろ……おい、ケイ、アイリーン?!
限界まで、霧の壁に近づいて、必死で叫ぶアレクセイ。
ケ―イ!? アイリ―ン!! 返事をしろ―ッッ!
アレクセイは、叫ぶ。
しかし、魔の森は応えない。
ただ、不気味なまでに静まり返っている―
―ん?
視界が霞む。真っ白な霧の世界で、ケイはふと、足を止めた。
どうした、ケイ
緊迫した声で、アイリーン。
……いや。何か、声が聞こえた気がしたんだが
ケイは、耳を澄ませる。
無音。
……そうか? オレは気づかなかったけど
アイリーンは、囁くように。
気のせいかな
ケイは頭上を振り仰いだ。
ぼんやりとした太陽の光。
……アレクセイじゃないか?
そうかもしれない。それで、思い出した。
……そういえば次の合図を送らないと
森に入ってすぐ、そうしたように。
ケイは再び、腰の命綱を軽く二度引っ張る。
―く(・)い(・)く(・)い(・)っ(・)と(・)、合(・)図(・)が(・)返(・)っ(・)て(・)き(・)た(・)。
よし
命綱は、しっかり繋がっている。
もうちょっと、進んでみよう
ああ
アイリーンが、頷く気配。
ケイは”竜鱗通し”を握り締め。
さらに、踏み込んでいく。
果てしない
霧の
世界へ と
54. 霧の中
見渡す限りの、乳白色の世界。
濃いな……
一歩一歩、足元を確かめるようにして進む。ケイは”竜鱗通し”を構えながら、周囲に神経を張り巡らせていた。
頭上から降り注ぐ、ぼんやりとした木漏れ日。森の中は思ったよりも明るいが、視界は著しく悪かった。たゆたう濃霧。立ち枯れたような木々も、その辺に転がる苔むした岩も、全てが白く霞み、背景に溶け込むようにして輪郭を失っていく。
先ほどからケイは、乳白色のヴェールからぬっと姿を現す巨木の影に、ぎょっとさせられてばかりいた。果たして本当に真っ直ぐ歩けているのか、自信がない。
静まり返った霧の森。
ブーツが腐葉土を踏みしめる音と、己の微かな吐息の他は、何も聞こえない。
しっとりとした、湿り気のある空気の流れが、頬を撫でる。
―
ふと、何者かの視線を感じた気がして、ケイは振り返った。
…………
しかし、そこには、何もない。
何があるかもわからない。
ただひたすらに、鷹の目でも見通せない、白く濁った世界が広がっているだけ―
……ケイ? どうかした?
ぴたりと動きを止めたのは、アイリーンだ。にわかに立ち止まったケイに、囁くようにして問う。腰に繋いだ鎖越しに、彼女の動揺が伝わってくるかのようだった。
……いや、なんでもない。気のせいだった
そう答えながら、ケイは腰の命綱を二度引く。
―くいくいっ、と合図が返ってくる。
合図は?
ある
……オレたち、けっこう進んだ?
おそらく。命綱(ロープ)の長さも、そろそろ限界かも知れないな
限界に近づいたときの合図も決めておくべきだった、などと今更のように思うケイ。霧の中に踏み込んで、どれほどの時間が経っただろう―自分たちの時間感覚が、随分と曖昧になっていることに気づく。
……もう、戻った方がいいかな、ケイ
アイリーンは少々心許なさそうな様子だ。しきりに、周囲を見回している。ほとんど何も見えず、何も聞こえないこの場所で、その行為に意味があるのかはわからない。
そうだな、そろそろ引き返すか
うん……それにしても、不気味だけど、なんか思ったより普通な場所だったな
ふわふわと霧をかき混ぜるように手を動かしながら、アイリーン。まるで自分に言い聞かせるかのようだった。
が、確かに、一歩踏み込めば気が狂う、とんでもなく危険な場所だ、と入る前に散々脅かされていたが―実際、ケイたちはまだ正気を保っている。
そうだな―ん?
相槌を打ちかけたケイは、さっと手を挙げて注意を促す。再び、ある種の児戯のように、ぴたりと動きを止めるアイリーン。
…………。どうした?
何か聴こえた
囁くようなやり取り。耳を澄ます。
今度は気のせいではない。森の奥から、微かな音。少しかすれた、何か甲高い『声』のような―
えぇん…… ぇぇん……
はっきりと聞き取ったケイは、目を剥いた。
えぇん…… ぇぇん…… えぇぇん……
……赤、ちゃん?
茫然と呟くアイリーン。
泣き声。
それは赤ん坊の泣き声だった。聞き間違い、あるいは風の音と断ずるには、あまりにも生々しい。年端もいかない乳飲み子の―
―いや、そんなはずはない。
こんな場所に、よりにもよって『魔の森』の奥に赤ん坊が居るはずがない。
……幻聴じゃ、ないよな?
違う。俺にも聴こえる
だから尚更たちが悪い。こんな声を上げる何かが居る、ということだ。
近(・)く(・)に(・)。
……山猫とかかも知れない
発情期の猫は、赤ん坊に似た声を上げることがある。これも、その手の動物の泣き声かも知れない―と言うアイリーンだったが、すぐに口をつぐんだ。
ずる……、ずる……、と。
何かを引きずるような音。重量を感じさせる。石でも詰めた麻袋を引くような。
えぇん…… ずるっ…… えええん…… ずるっ……
何かが、這いずりながら、近づいてくる。
そろそろと足音を立てないよう後退し、大樹の陰に身を潜める。ケイは、“竜鱗通し”に矢をつがえ、構えた。
『―魔の森の近くは、妙な獣が沢山出るんだ』
霧の奥を見通そうと目を細めていると、不意に、アレクセイの言葉が脳裏に蘇る。