一撃を受けた黒い影が、ぱぁんと弾けた。

キャーキャーと甲高い、どこか楽しそうな悲鳴を上げて―無数の、数え切れないほどの小人の影が飛び散った。

それは蟻の群れのようにも見えた。ただ、蟻とは比べ物にならない速さで、四方八方に散っていく。

ばらばらばら。

またもや、ケイは霧の中にひとり。

……アイリーン?

―俺は何を追いかけていた?

―本物のアイリーンは、どこに居る?

……アイリーンッ!!!

叫ぶ。

アイリ―ンッッ!

声が枯れるほどに。

そして耳を澄ます。目を閉じて、全神経を傾けて。

…………ケーイッ!

今度こそ、聴こえた。

けーい

けーーーーい

けーいけーい

けーーーーい

けいー

けいーけいー

そしてそれを遮るように、あらゆる方向から、声、声、声。

これだ。アイリーンが先ほど困惑していたのは―こ(・)い(・)つ(・)ら(・)の(・)せ(・)い(・)だ(・)。

クソッ舐めやがって!

ケイは胸元から乱暴に魔除け(タリスマン)を引き抜き、さらに腰のポーチから大粒のエメラルドを掴み取った。

Maiden Vento, Siv !

その名を喚ぶ、

Montru al mi la vojon al Aileen !

手に握ったタリスマンとエメラルドが砕け散り、虚空へと消えていく。

うぐぅッ!?

次の瞬間、ケイは膝をついた。凄まじい負荷。まるで肉体そのものを、雑巾のように絞り上げられるかのようだった。魔力が抜き取られていく。

―Kei, venu kun mi.

囁くような、気遣うような、優しげな言葉。風が、慰撫する。霧が渦を巻き、道が示される。ケイはそこに、羽衣を纏った少女の姿を幻視した。

ふらふらと立ち上がり、歩いて行く。

ケーイ! どこだよ、ケーイ!

……俺は、ここだ……!

ぜえぜえと息を荒げながら、それでも答える。

ケイ!? ケーイ!

やがて、風に導かれるようにして、少女の姿が。見慣れた黒衣、片手のサーベル、馬の尾のように跳ねる金色の髪―

―アイリーンだ。

ケイ!? 大丈夫か!? 顔が真っ青だ!

よろよろと力なく、今にも倒れそうな風に歩き、病人のような顔色のケイに、アイリーンもまた血相を変える。

大丈夫だ……ちょっと、魔力を……使いすぎて……

そんな……。でも、良かった……もう会えないかと思った……

ケイを抱き締め、アイリーンがくしゃっと顔を歪めた。

俺もだ……会えて良かった……

アイリーンのぬくもりを感じながら、ケイは思う。

なぜだろう

前にもこんなことが

あった気がする―

二人は、再び腰の革帯を鎖で繋ぎ、しっかりと手を握り合って、歩き始めた。ケイは満足に弓が使えないし、アイリーンは素早く動けない。それでも、離れ離れになるよりは、マシだった。

すまない……俺が鎖を外さなければ、こんなことには……

アイリーンに手を引かれながら、ケイは力なく歩く。魔力を使いすぎた。帰り道がわからないのに、もう当分、魔術が使えない。

二人は、完全に霧の中で迷子になっていた。

いや、あれは仕方ないだろ。……でもさ、ケイ。オレを逃してくれようとしたのは、ありがたいけどさ。もう自分だけを犠牲にしようとするのは、やめてくれよ

ケイを置いて逃げられるわけないだろ、とアイリーンは冗談っぽい口調で言った。

しかし言葉とは裏腹に、繋いだ手に、痛いほどの力がこもる。

……すまん。咄嗟のことでな

……ふふ。嬉しくはあるけどさ。守ってくれてありがとう、ケイ

次からは、気をつけるよ

『次の機会』なんてゴメンだぜ?

はは、そりゃそうだ

軽口を叩きながら、ただ歩いた。あの場に留まるのは、危ないように思えて。

森に入ってから、随分と時間が経っているはずだ。

歩いて、肝を冷やして、戦って、走って。

二人は、疲労と喉の渇きを覚えていた。

だからだろうか―微かな水の音に、敏感に気がついた。

吸い寄せられるようにして、そちらへ向かう。

やがて二人を出迎えたのは、錆びついた鉄の門扉だった。

これは……?

鋭い忍び返しがついた鉄の柵が、左右に果てしなく広がっている。その中央に、門。手を伸ばして触れると、キィィ……と音を立てて、何の抵抗もなく開いた。

門の内側へ、立ち入る。

まるで森に入ったときのように、霧がスッと晴れた。

―いや、よくよく見れば、足元には薄っすらと靄(もや)が立ち込めている。しかし、視界は明瞭だ。空が曇り空のように、ぼやけて見えることだけを除けば。

そして視界がすっきりしたことで、新たに見えた。

門の内側に広がっていたのは、打ち捨てられたような庭。風化した石のタイル、眼前には大きな噴水。庭の荒れように比べて、異様なまでに清涼な水が噴き上がっており、ぱしゃぱしゃと涼やかな音を立てている。

そのさらに先には―巨大な屋敷。

要塞都市ウルヴァーンの、貴族街を思わせるような、豪奢なものだった。

……ここが、まさか

……賢者の、家?

思ったよりずっと立派だな、とケイは素朴な感想を抱いた。

喉が渇いて仕方がなかったが、生水を口にするのは恐ろしかったので、後ろ髪を引かれる想いで噴水は放置。ひとまず先に、屋敷を訪ねることにする。

荒れ果てた庭に囲まれた屋敷。窓には全て、天鵞絨(ビロード)のカーテンがかかっており、中の様子を窺うことはできない。

人の気配は、ないようだったが。

噴水の水音だけが響く静かな空間で、ドアノッカーを叩き鳴らすのは、なんとなく無粋に感じられた。玄関扉を前にケイたちが躊躇っていると、扉の方が、音もなくすぅっと開いた。

うお……

わっ……

屋敷の中を目にして、ケイとアイリーンは驚きの声を上げる。

普通は、この手の屋敷ならエントランスホールが広がっているところだが、そこにあったのは無数の本棚。

それも、本や巻物でびっしりと埋め尽くされたものが、果てしなく広がっている。恐ろしいことに、ケイの視力をもってしても、その限りが見えなかった。外見からして既に巨大な屋敷だったが、その中がさらに広いとはどういうことか―

入りたまえよ

と、茫然とするケイたちに、声がかけられた。

上(・)か(・)ら(・)。

ぎょっとして天井を振り仰ぐと―二階部分の本棚の近くに、赤い人影。『彼』は、何もない空中に腰掛けるようにして、本を開いていた。

『魔の森には、奇抜な赤い衣に身を包んだ賢者が棲んでいる―』

その伝承が、紛れもなく真実であったことを、ケイは理解する。

賢者は、真っ赤な『スーツ』を身に纏っていた。

ケイたちの世界、すなわち地球で見慣れた、かっちりとした仕立てのスーツ。

勿論、『こちら』の世界には存在しないモノ―

やあ、よく来たね、二人とも

ぱたん、と本を閉じた『賢者』は、色白で、細面の若い男だった。

緑色の瞳が、二人を見据える。

歓迎するよ。『アイリーン=ロバチェフスカヤ』―そして、『乃川圭一』くん

名乗ってもいないはずなのに。

赤い賢者は、そう言ってニヤリと嗤った。

55. 賢者

Tili Tili Bom というロシアの子守唄が魔の森のイメージソングです。

怖い歌なので、興味がある方はぜひ検索されてみてください。

二の句が継げないケイたちは、眼前の『賢者』をまじまじと見やった。

何もない空中に、まるで椅子に腰掛けるようにして浮遊する真っ赤なスーツ姿の男。

不健康なまでに痩せぎすで、手足は長く、背は高い。病的なまでに白い肌、長い黒髪は後頭部へぴったりと撫でつけられている。いわゆるオールバックだ。

その細面に捉えどころのない笑みを浮かべた賢者は、ある種の学者のような超然とした雰囲気を身にまとい、まるで観察するように、二人の異邦人を見下ろしていた。深い緑色の瞳に浮かぶ好奇の光。

……なぜ、俺たちの名を?

開口一番、ケイは問うた。

名前だけじゃないさ。君たちが『地球』から来たことも、『DEMONDAL』というVRゲームのプレイヤーであったことも知っているよ

事も無げに答える賢者。動揺するケイたちをよそに、天井近くの本棚へ書物を仕舞った彼は、空中からふわりと床に降り立った。

まあ、立ち話も何だ。喉が渇いているんだろう? お茶はいかがかね

そうして、ケイたちに席を勧める。

いつの間にか、そこには白いテーブルクロスをかけられた丸テーブルと、ティーセットが出現していた。白磁のティーポットにミルク入れ、カップに注がれた紅茶は湯気を立て、ご丁寧にクッキーとサンドイッチまで用意されている。

……マジかよ

アイリーンが茫然と呟いた。ケイもぽかんと口を開いている。呪文(スクリプト)も唱えず、触媒を捧げた様子もなく、気がつけば、それらはそこに在った。まさしく『魔法』としか呼びようのない―『奇跡』。費やされたであろう膨大な魔力、そして本来ならば魔術の行使に必要不可欠な精霊の存在が、一切感知できないことに、二人とも戦慄を禁じ得なかった。

精霊を介さずに事象を改変せしめたということは、つまり―この『賢者』本人が、精霊、あるいはそれに類する存在であるということ。

予想はしていたが、目の当たりにするとやはり衝撃的だった。

さあ二人とも、座りたまえ。お茶会と洒落込もうじゃないか

言うが早いか、そそくさと席につく賢者。ケイとアイリーンは顔を見合わせたが、少なくとも彼からは、悪意らしいものは感じられなかった。喉の渇きも限界に近く、賢者に倣って着席した二人は、ふぅふぅと紅茶に息を吹きかけて飲み始める。

そんな二人の様子に、苦笑したのは賢者だ。

いや、喉が渇いてるところに、熱い飲み物は気が利かなかったかな

そう言って立ち上がった彼は、冷蔵庫の扉を開いた。

―冷蔵庫。

扉にマグネットやメモが貼り付けられた、やけに生活感のある『冷蔵庫』が、いつの間にかそこに在った。

えっ

ガタンッ、と椅子を蹴倒さんばかりの勢いで、アイリーンが立ち上がる。その青い眼は、ケイが見たこともないほど真ん丸に見開かれていた。

えっ、なっ、なんで!? それはっ!?

冷蔵庫が出現したのにはケイも驚いたが、それにしてもアイリーンの取り乱しようは尋常ではない―よくよく見れば、メモに書きつけてあるのは全てキリル文字。

ロシア語だ。

なんで……なんでオレん家の冷蔵庫がここにあるんだよ!?

アイリーンの問いかけは、もはや悲鳴のようだった。

なに、君の記憶から引っ張り出したのさ

ぱちん、とキザにウィンクして賢者。英語で話しているはずだが、ケイはもはや、彼が何を言っているのかよくわからなくなってきた。

風情があるだろう? 冷たい飲み物を出すなら、やはり冷蔵庫からじゃないとね。尤も中身までは、君の家のものには準拠していないが。さてさて、何がいいかな

茫然とするケイたちをよそに、冷蔵庫の中身を物色する賢者。

色々あるよ。ケイはコーラがいいかな、どうやら君はペプシ派のようだ。アイリーンは何を飲みたい? なんならお酒もあるぞ。キンキンに冷えたビールやクワスなんてのは、いかがかね

冷蔵庫から見覚えのある清涼飲料水の瓶や缶が取り出され、次々にテーブルへ並べられていく―

―あなたは、いったい『何』なんだ?

喉の渇きも忘れて、思わず、ケイは問いかけていた。

両手にジュースの瓶を抱えたスーツ姿の男は、そこで我に返ったように目をぱちぱちと瞬かせる。

……そういえば、自己紹介がまだだったね。そうだね、口に出さなければ伝わらないんだった。自(・)分(・)が(・)そ(・)う(・)じ(・)ゃ(・)な(・)い(・)か(・)ら(・)、い(・)つ(・)も(・)気(・)遣(・)い(・)が(・)足(・)り(・)な(・)く(・)な(・)る(・)。僕のことは、そうさな、『オズ』とでも呼びたまえ。魔の森に住まう賢者などと呼ばれているが、僕自身は賢者になんてなったつもりはない。ただの森の居候さ

ケイにコーラを、アイリーンにはビールのような炭酸飲料を供した賢者―『オズ』は、再び椅子に腰掛け、真っ赤なブラッドオレンジジュース入りのグラスを傾けながら優雅に足を組む。

そして、僕が『何』かと問われれば― 悪魔(デーモン) かな

……悪魔?

オウム返しにするケイ。

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