思わず、ベネットは感嘆の声を上げた。ケイの指先できらめくそれは、大粒でかなり上質なもの。まさかあれが対価なのか―? と期待に胸を高鳴らせたベネットは、しかし次の瞬間、悲鳴を上げることになる。

Siv ! Arto, Kaze no Sasayaki.

ケイが呪文を唱えると同時、その見事なエメラルドに無数のヒビが入ったかと思うと、ざらあっと崩れ、虚空に溶けるように消えてしまったからだ。

ぞわ、と場が異様な気配を孕む。

窓から踊るように風が吹き込む。

そして一同は、羽衣をまとい艶やかに笑う少女の姿を幻視した。

『アイリーン、話はまとまった。明日の朝、8時頃にはマンデルと一緒にサティナへ戻る。マンデルのために馬を一頭用意してもらえるよう、ホランドに頼んでおいてくれ。頼んだ』

一息に言い切ったケイは、

Ekzercu(執行せよ).

くすくすくす、と少女の笑い声。

― Konsentite ―

びゅごう、と風が渦を巻いて去った。

―全てが幻だったかのように、穏やかな午後の空間が戻ってくる。

……ケイ、殿……?

いや、なに。サティナのアイリーンに声を送った

なんでもないことのように、笑って答えるケイ。

あれが……

ベネットは、未だ衝撃から立ち直れなかった。実は、この部屋の面々は、ケイの『声を届ける魔術』を体験したことがある。アイリーンが毒矢に倒れた際、毒の種類を突き止めたケイから、服用させるべき解毒剤をあの魔術を通して指示されたのだ。

だが、まさか―

(―あれほどの宝石を対価とするものだったとは!)

愕然。

ベネットは村長として、普通の村人より遥かに多くの経験・知識を持つが、流石に魔術は埒外だった。

知らなかった。あんな、村では一財産になるような宝石を、いとも容易く触媒として使い捨てるとは。

リリーが魔術の修行を受けている―その意味を、ベネットはまた違った側面からまざまざと見せつけられた気分だった。

そして何より、それを為したケイだ。なぜこうも平然としていられるのか? 惜しくはないのか? あんなに素晴らしい宝石を捧げてしまっても?

……む?

そんなベネットをよそに、ケイは何かに気づいた様子で、そそくさと窓から距離を取る。

―ケイが数歩、窓の日差しから離れると、途端に、部屋の空気が再びぞわりと異様な気配を孕んだ。

ケイの足元の影が、うごめく。

影法師のように壁へと伸びたそれは、ドレスをまとった貴婦人の輪郭を取る。

『―了解。氷の矢は20本。対価はとびきりの矢避けの護符』

影絵の文字を描いた貴婦人は、優雅に一礼して、ふわりと消えた。

解けるようにして、ケイの影が元に戻る。

まだ日が高いのによくやる……

窓の外を見ながら、ケイはニヤリと笑う。

アイリーンが契約する”黄昏の乙女”ケルスティン―影の魔術は、夕方から夜にかけては低燃費だが、日中は消費魔力が激増する特徴がある。

だが。“黒猫”の恩恵に与っているのは、ケイだけではない。

アイリーンもまた着々と成長しているというわけだ―日中に影絵のメッセージを送るくらいなら、どうということはない程度には。

(それにしても、氷の矢が20本、か)

依頼を受けたコウは、ケイたちのために奮発してくれるらしい。『対価はとびきりの矢避けの護符』―代わりに出来の良い風のお守りを寄越せ、ということか。

(この件が片付いたら、とびきり高性能なやつを作ってみるか。持ち主の魔力を消費するタイプでもコウなら平気だろう……)

ふふっ、と穏やかに笑うケイ。

そんな彼を―部屋の面々は、畏怖の念をもって見つめていた。

今しがたの影の精霊。『正義の魔女』―影を操るアイリーンの仕業であることは一目瞭然だ。ケイが声を送ったなら、アイリーンは影絵を返してきた―

サティナ。騎馬を全力で駆けさせても、数時間はかかる遠方の都市。そこにいるアイリーンとの、ほぼリアルタイムでの意思の疎通。

ネットに馴染みがあるケイとアイリーンからすれば、何でもないようなことだったが、この世界の住人にとっては頭をぶん殴られたようなカルチャーショックだった。

仮に伝書鴉(ホーミングクロウ)を飛ばしても、一時間や二時間はかかるだろう。その距離の通信が―まさに一瞬で―

魔術師とは皆、こ(・)う(・)い(・)う(・)も(・)の(・)なのか?

ベネットは目眩がしそうだった。隣でのんきに すげぇ…… とただびっくりしているだけのクローネンが羨ましい。

おっと、今の影の魔術に関しては、他言無用で頼む。一応、あれでも秘奥の類なんだ。他の者に軽々しく話したら呪われるから注意してくれ

影はどこからでも見ているからな、と言いつつ、人差し指を唇に当てて茶目っ気たっぷりにウィンクするケイ。全員が―マンデルさえも―ぎょっとしたように身を仰け反らせた。

も、もちろんです、決して、決してそのようなことは……

冷や汗をかきながらブンブンと首を振るベネット。 頼むよ とケイは苦笑しているが、魔術の秘奥? ならなぜそんなものを軽々しく見せつけてくれたのか。それに呪いだと? なぜ笑っていられる? 何が可笑しいのか? 理解できない―

さて、すまなかった。それで対価の話だったな

再び席について、ケイが話を戻す。

ベネットも気づいた。すっかり忘れていた、報酬の話がまだ済んでいなかったことを。

そ、そうですな……対価……

服の袖で額の汗を拭いながら、交渉に向け考えを巡らせようとするベネット。

ふむ。正直なところ、俺は、どれだけ払えばいいのかわからんのだ。助力を願うマンデルにこちらから値段をつけるのも、無粋な気がしてならないしな

マンデルに微笑みかけながら、ケイは机の上で手を組む。

―なので、そちらに決めていただきたい。何がどれだけ必要だ?

ごくごく自然体で、問うた。

……それは

ベネットは言葉に詰まる。

ケイは、今回、村側に花を持たせるつもりだ。それは以前、気持ちの上で村を見捨てた罪滅ぼしでもあり、マンデルの助力を重要視していることを示すためでもあった。

また、狩りが成功裏に終われば、“森大蜥蜴”の素材で莫大な収入も期待できる。

だからベネットに多少ふっかけられても、全く構わないと考えていたのだ。

―その、圧倒的な『持つ者』の余裕に、ベネットは気圧された。

今の俺の手持ちで渡せるものとなると……

懐に手を入れようとして、革鎧と鎖帷子の存在を思い出したケイは、 すまん、マンデル手伝ってくれ と声をかけ、いそいそと武装を解除し始めた。

まずは革鎧を脱ぎ、椅子に置く。ところどころに傷がついているが、歴戦の風格を漂わせる逸品。

以前、あの革鎧の手入れを頼まれた村の職人が、 “森大蜥蜴”の革らしい! と大興奮していたのを思い出す。当時のベネットは 確かに見事な革鎧だが、流石に話を盛っているのだろう と鼻で笑ったものだ―

艷(・)や(・)か(・)な(・)青(・)緑(・)色(・)の革鎧。

今となっては笑う気にもなれない。

っと、どこにしまったか……

これまた最上級品に近い鎖帷子を脱いで、胸ポケットをごそごそと探るケイ。

とりあえず邪魔な懐中時計を外に出しておく。鎖にぶら下がって無造作に揺れるそれを、ギョッとして凝視するベネット。

えーと、金と、触媒と、……これもアリか

懐から硬貨が詰まった革袋、宝石類を包んだ巾着を取り出し、机に置く。さらに腰のベルトのポーチから、いくつか護符を抜き取った。

こんなところだな。まずはコレを渡しておこう―アンカの婆様は元気か?

布にくるまれた護符を差し出し、唐突にケイが問う。

アンカ―村の呪い師の婆様のことだ。前回の訪問時、ケイとアイリーンが精霊語をレクチャーした結果、精霊に祈願し病魔を退ける簡単な呪術を扱えるようになり、豊作祈願に病気の治療にと大活躍している。

ええ、それはもう、近ごろはむしろ若返ったようで……

そうか。それはよかった、ならこれが使えるな

……それは、なんなんだ?

恐る恐る、といった様子でクローネンが尋ねる。これまで終始圧倒されて黙り込んでいたクローネンだが、好奇心が勝ったらしい。

使い捨ての”突風”の護符だ。呪文を唱えれば、大の男でも吹っ飛ばすような風を、ピンポイントで吹かせられる

―まさかの魔道具。それも攻撃用の。ヒュッと引きつったような呼気を漏らしビビるクローネン。

ああいや、それほど怖がる必要は……あるか。核になってる宝石部分は絶対に傷つけないでくれ。暴発して大変なことになる

だから布でくるんであるわけだが、というケイの説明にマンデルさえ顔をひきつらせる。

それは……その……それが対価ということですかの?

確かに価値は凄そうだが、こんなもん渡されても困る、とばかりにベネット。

いや、これは迷惑料みたいなもんだ。マンデルがいない分、村の戦力が落ちるだろう? 万が一ならず者が村を襲ったら使うといい。強そうなヤツを二、三人吹っ飛ばしてやれば、相手も腰が引けて戦いやすくなる。多少魔力を使うが、アンカの婆様なら問題ないはずだ。あとで挨拶かたがた、起動用の呪文も教えておくよ

タイミングは難しいが矢を逸らすのにも使えるぞ、騎馬の突撃だって工夫すれば止められるぞ、などと、自作魔道具の活用法を生き生きとした様子で語るケイ。

…………

迷惑料―迷惑料とは―そんな言葉がベネットの頭の中でぐるぐる回る。

で、対価の方だが、どっちがいい?

ずい、とベネットの前に、革袋と巾着袋を押し出すケイ。

ベネットは無言で、まず革袋を検めた。―中にぎっしりと、銀貨が詰まっていた。何枚あるか、数える気にもならない。村の収入の何年分だ? 計算しようとするが思考が上滑りするばかりで、頭がうまく働かない。

仕方ないので、巾着袋を調べる。―先ほどケイが使い捨てたような、良質なエメラルドの原石が、お互いが傷つかないように小分けしてごろごろと入っていた。

ちなみに、価値は宝石の方が高いかな

俺としてもそっちを取ってもらった方が助かるかもしれない、とケイ。

えぇ……?

なぜ高い方が助かるのか理解できず、妙な声を上げるクローネン。

確かに、……見事な宝石ではありますが、ワシらには換金の手段が限られておりますからの。倅(ダニー)ならサティナの街でさばけるかもしれませんが、宝石商の宛てとなると……それに、これほどの宝石は経験がありませんし、うまく交渉できるかどうか……それならば現金の方が―

コーンウェル商会を訪ねればいい

ケイはニヤリと笑う。

―アイリーンと俺はコーンウェル商会の専属魔術師でもある。俺からの紹介ともなれば無下には扱われない。どうだ?

コーンウェル商会……専属……

ベネットは今日何度目になるかわからない衝撃を受けた。

娘(キスカ)の手紙から、ケイたちがコーンウェル商会と交流があることは知っていた。だが専属契約まで結んでいることは知らなかったのだ。何分、ケイたちが本格的に魔術師として活動し始めたのはここ1~2ヶ月のことで、最後にキスカの手紙を受け取ったのが数ヶ月前だ。知りようがなかった。

そして、宝石について。

ケイからすれば、この宝石はコーンウェル商会から割引価格で購入したもので、ベネットがコーンウェル商会に売るのであれば、それらは再び魔道具の材料として手元に『戻ってくる』。どこの商会に使われるかわからない現金を渡すより、コーンウェル商会、ひいては自分たちに利益が還元される可能性が高いわけだ。

また、ベネットからすれば、ケイの口利きのもとコーンウェル商会で安全に取引ができる。コーンウェル商会に問い合わせれば医薬品でも嗜好品でも、常識的なものはほとんど揃うだろう。宝石を対価に大量の、かつ良質な物資を得られるのだ。何よりコーンウェル商会とつながりができる。その利益は計り知れない―

可愛い可愛い孫娘(ジェシカ)のことが頭をよぎる。麻痺していた脳がここにきて、バチバチとそろばんを弾き始めた。

……ケイ殿

ベネットは深々と頭を下げた。

こちらの宝石を、対価としていただけませぬか。それと、もしよろしければ一筆したためていただけると、非常に助かるのですが……

ああ、そうだな、何か証拠があった方がいいか。もちろんだとも

鷹揚に頷くケイ。

(なんとも、まぁ……)

合意の握手をしながら、ベネットはもう笑うしかなかった。

半年前―

そう、久々といっても、たった半年前だ。ケイがこの地を訪れたのは。

あのとき、この青年は右も左も分からない、怪しい身元不詳の異邦人だった。

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