物思いに耽るケイの耳元で、ひゅごう、と一陣の風が渦巻く。
ゲームではありえない、リアルな質感が全身を包み込む。
晩秋、草原を渡る風は存外に冷たく、馬上で吹きさらされるケイの肉体(からだ)から、容赦なく熱を奪い去っていく。風除けの皮のマントがなければ体調を崩していたかもしれない。これから冬にかけて、公国はさらに冷え込んでいくそうだ。北の大地に比べるとささやかだが、雪が降ることもあるという。
今や、ケイはこの世界の住人になりつつあった。
この地に根付いて、生きていく―
……狩り、か
ぽつりと呟いた。思いを巡らせていると、否が応でも、考えずにはいられない。
これから自分が、好き好んで死地に突っ込もうとしていることを。
転移直後の日々を思い出す。『安全第一』、『命を大事に』―ケイの行動方針はまさにそれだった。『死にたくない』と思いながら生きていた。現実世界のケイが、願ってやまない理想の生き方―そう信じていた。
だが、それがつまらないことに気づいてしまった。
『生きている』のではなく、ただ『死んでいない』だけだと。
悟ってしまったのだ。
贅沢な話だとは思う。しかし気づいたからには、もう、後戻りできなくなった。
ケイの人生は、ここにきてようやく始まったのだ。『死なずにいる方法』ではなく、『どうやって生きていくか』に目を向けられるようになった。
だからケイは、“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“を狩りに行く。
自分の能力を最大限に発揮し、人々を助けるために。自分はここにいる、生きている、生きていていいのだ、と証明するために。
たとえ命の危険に晒されることになったとしても、ケイは後悔しないつもりだ。死の直前は無様にあがくかもしれないが。ある程度の割り切りはできている。
(……俺だけの命なら、な)
ただ、気がかりがあるとすれば、アイリーンのこと。
彼女を巻き込んでしまうことだ。
……何とも言えないな
苦笑する。これは皮肉な話だった。もしもケイが一人だったら、救援要請を断っていただろう。独力で”森大蜥蜴”を狩るのは不可能だからだ。
だが、『アイリーンがいるならば』―と思ってしまった。
そしておそらく、それはアイリーンも一緒なのだ。彼女も一人っきりだったら救援要請をすげなく断っていたはず。
だが、『ケイがいるならば』―と。
互いが互いを信頼し、結果としてリスクを冒してでも、善をなすと決めてしまったのだ。
本当に皮肉な話だった。アイリーンがいなければ、ケイは昔のケイのまま、『死にたくない』と願うばかりで、こういった行動は決して取らなかっただろう。もしも一人っきりでこの世界に転移していたら、今もまだ、一人寂しく草原をさすらっていたかもしれない―
『助けられる力があるなら、助けるべきだ』
リリーの誘拐事件に際して、アイリーンはそう言った。
その言葉にケイは衝撃を受け、傷つきもしたが、今となってははっきりわかる。
―ケイは憧れたのだ。光り輝くような、アイリーンの人間性に。当時のケイには、少しばかり眩しすぎたけれども。
『今の自分』の核をなすのは、アイリーンなのだと。
改めて強く確信する。
ならば、彼女を危険に晒したくないだの、巻き込んでしまうだの、これ以上うだうだ悩むのは野暮というもの。
それら全てを勘案した上で、やりたいことをやるのが―真の相棒(パートナー)というものだろう。
ただなぁ、マンデルは別なんだよなぁ
と、アイリーンに関して割り切ったはいいが、今度は別の悩みだ。
息が苦しげになってきたサスケの手綱を引き、走るペースを調整しながら、ケイは嘆息した。
アイリーンは、いい。
ただこれから助力を求めようとしているマンデルは、赤の他人だ。
巻き込まれる方はいい迷惑だろう。相手が相手だ。“森大蜥蜴”―ゲーム内で上位プレイヤーが結集してなお、狩りで事故死が起きるような怪物。ケイとアイリーンの全力、それにコウの魔道具も加えて、狩りの勝算は八割といったところか。
マンデルの助力があれば、成功率はさらに高まるはずだ。
ゲームと違って死んだら終わりなので、ベストを尽くすのは間違いない。だが死んだら終わりなのはマンデルも一緒なわけで―。
誠心誠意、事情を話して、断られたら諦めようか……
ぶるるっ
思い悩むケイをよそに、我関せずとばかりに鼻を鳴らしたサスケは、パッカパッカと着実に歩みを進めていた。
タアフ村は、もうすぐそこだ。
†††
休憩を挟みつつ進んでいくと、木立を抜けたあたりで、不意に見覚えのある景色が広がった。
森を切り開いた畑、ぽつぽつと建ち並ぶ平屋の家屋、収穫用の鎌を担いで笑顔の人々。
タアフ村だ。
おおーい!
村人がこちらに気づいたので、敵意がないことを示すように、“竜鱗通し”を握った手を振りながら近づいていく。
ああ……!
あんたは確か、前の……!
ケイのことは忘れていなかったのだろう、村人たちは警戒を解いた。
ケイだ。突然の訪問ですまない、マンデルに会いに来たんだ
馬を降りながらのケイの言葉に、顔を見合わせる村の男たち。
マンデルに? ……今の時間なら、もう森から帰ってきてるんじゃないか
なんなら、家まで案内するが……
ありがとう、助かるよ
以前、村に滞在中、マンデルとは草原に狩りに出かけたこともあったが、彼の家を訪ねたことはなかった。一度、お茶に誘われた記憶はあるが、当時のケイはあまり滞在を楽しめる気分ではなく、断っていたのだ。
サスケとスズカの手綱を引き、男たちに導かれるまま村を突っ切っていく。
途中、興味津々な様子の女たちや子どもたちまでもが、一緒についてきた。皆ケイに声はかけてこない。拒絶はしないが親しげでもない、絶妙な距離感。そのままぞろぞろと列をなしてマンデルの家へ。
―懐かしい顔が見えた。
……ケイじゃないか。久しぶりだな
家の前で、狩りの成果か、大きな鳥の羽根をむしる男が一人。
とび色の髪の毛に、彫りの深い顔立ち、ダンディーなあごひげ。ぴったりとした布の服、皮のベスト、そしてトレードマークの羽根飾りつきの帽子に、使い込まれた短弓(ショートボウ)。
相変わらず表情は変化に乏しいが、目を丸くしているあたり、突然の訪問に驚いているのだろう。
狩人のマンデルだ。こうして直接、顔を合わせるのは武闘大会の祝勝会以来か。実に四ヶ月ぶりの再会だった。
やあ、久しぶりだな
ケイも穏やかに微笑んで答える。
無言で、傍らの桶に貯めてあった水でシャバシャバと手を洗い、マンデルは両腕を広げてケイを迎えた。そのまま、ぽんぽんと背中を叩くように、軽くハグする。
……元気そうで何よりだ
ああ。そういうマンデルも
……どうしてタアフに?
実は、マンデルに話があって……
そこまで言って、ケイは口をつぐんだ。
ざわめく野次馬の村人たちに完全包囲されており、視線が気になったからだ。
……狭い家だが、茶でも飲むか?
くい、と顎で玄関を示し、マンデルが笑う。
今回は―お邪魔することにした。
マンデルの言葉通り、少し手狭な家だった。家としての広さは標準的だがわりかし物が多い。物入れのチェスト、食料保存棚、燻製肉やソーセージの束なんかも天井に吊り下げられている。村人、という括りならかなり余裕のある生活を送っていそうだ。玄関から入ってすぐのリビングの壁には、小さなトロフィーが飾られている。武闘大会射的部門の、入賞者の記念品だ。それがまた懐かしくて、ケイは目を細めた。
そして家の中には、少女が二人いた。豆の皮むきをしていた二人は、突然の訪問客に驚いたようだ。どちらもとび色の髪をしており、一人は十代前半、もう一人はちょっと幼い印象を受けた。
……そういえば、紹介するのは初めてだったか
マンデルはふと、気づいたような顔で、
……娘のマリアと、ソフィアだ
言われてケイも思い出す。マンデルには二人の娘がいたことに。妻は確か、下の娘が産まれたあとに病気で亡くなっていたはずだ。
娘二人は、年上の方がマリアで、幼い方がソフィアらしい。マリアはお姉ちゃんらしいというべきか、気の強そうな雰囲気。逆に妹のソフィアは、甘えん坊で少し気が弱そうな顔をしている。
お父さん、この人って……
……ああ、ケイだよ
マリアの言葉に、マンデルが頷いた。
ケイも、おそらくマリアたちも、なんとなくお互いの顔に見覚えがあった。以前、村に滞在中、何度か遠目にすれ違うくらいのことはあったのだろう。ケイがマンデルの家を訪ねなかったので、面識がなかったが。
軽く互いに自己紹介してから、ケイはリビングのテーブルにつく。
……それで、話というのは
ケイの正面に座ったマンデルが、改めて尋ねてくる。その背後、竈でお湯を沸かしながら、興味深げにチラチラとこちらを窺うマリア。姉の身体の陰に隠れるようにして、じっと見つめてくるソフィア。
マンデルには幸せな家庭があるのだ、と思うと―ずしりと胃のあたりが重くなるような気がした。
実は、マンデルに頼みたいことがあるんだ―
それでも、真剣にケイは話を切り出す。
―“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“狩りを、手伝ってほしい
ケイの言葉に、マンデルは再び目を見開くことになった。
88. 助勢
前回のあらすじ
草原爆走 初村再訪 狩人再会 幸福家庭
言葉を飾らず、ケイは率直に説明した。
今日、とある開拓村から手紙が届いた―
“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“の出現。ヴァーク村の知己からの救援要請。ケイとアイリーンが討伐に向かうこと。こちらの装備、陣容、想定されるリスク。それらを鑑みた上で、マンデルの助けが欲しいこと。
―あっという間に語り終えてしまった。マンデルの娘が茶を淹れようとして、火にかけた鍋の水は、まだ湯気すら立てていない。
まあ、それもそうか、とケイは思った。
・助けを求められた
・怪物を殺しに行く
・力を貸してほしい
要はこれだけなのだ。思っていたより自分は言葉を飾っていたらしい、と気づいたケイは、思わず苦笑しそうになったが、この場面で笑うとあらぬ誤解を与えかねないので、真剣(シリアス)な表情の維持に努めた。
巫山戯(ふざけ)ているわけではない、決して。
だが、苦境に陥ると、人は時として笑いたくなる。不思議なことに。
…………
マンデルは、腕組みしたまま黙って考え込んでいた。
お父さん……
どうするの……?
背後から、娘たちがおずおずと声をかけてくる。動揺、困惑、そして恐れ。父親が危険極まりない冒(・)険(・)に連れ出されようとしている。心配するのも当然だ―娘たちがケイを見る目にも、怯えの色が浮かんでいた。
自分が平和な家庭を乱す疫病神に思えてきて、ケイは罪悪感に苛まれると同時に、断られたらスパッと諦めよう、と改めて決意した。
正直なところ
やがて、マンデルが口を開く。
力になりたいのは、やまやまだ。……しかしおれが、 深部(アビス) の怪物相手に、何かできるとは思わない
見てくれ、と手に取ったのは、使い込まれた短弓(ショートボウ)だ。
おれの相棒だ。……取り回しはいいが大した威力はない。普通の野獣、それこそ猪でも、当たりどころが悪ければ矢が刺さらないような代物(しろもの)だ
ことん、と机の上に置かれる短弓。優美な曲線を描くリムは艷やかな光沢を帯びており、日頃からマンデルが丁寧に、そして愛着をもって手入れしていることが窺い知れた。いい弓だ、とケイは思う。
しかしこのマンデルの口ぶり。 自分では力になれない ―つまりはオブラートに包んだ不承諾(おことわり)だと解釈したケイは、 そうか…… と諦めようとした。
だが
マンデルは言葉を続ける。
そんなこと、ケイは百も承知のはずだ。……おれの短弓では威力が不足していることくらい、わかっているだろう? そ(・)の(・)上(・)で(・)、頼んできた
ずい、とマンデルは身を乗り出す。
おれに、何をさせたいんだ? ……教えてくれ、ケイ
その目にあるのは―面白がるような光。
マンデルは、知っている。
自分は決して英雄の器ではないと。
だが、眼前の青年、ケイは違う。凶悪極まりないイグナーツ盗賊団の一味を単身で撃破し、 深部 の怪物・森の王者”大熊(グランドゥルス)“を一矢で仕留め、武闘大会の射的部門でも文句なしの優勝を果たした英雄だ。さらには風の精霊と契約しており、魔術にも造詣が深い。
そんな傑物が―自分に助太刀を頼みに来た。