そこまで早口で言ってから、ティナは小さくため息をついた。
はぁ。将来、あれが村長になるのかと思うと、気が重い……いっそのこと、ウチのダンナが村長になってくれたらいいのに
ぷすーっ、と息を吐くティナの言葉に、アイリーンの表情が渋いものとなる。
金で買った婚姻。嫌われ者。娼館通い。
アイリーンの中で、ただでさえ印象最悪だったダニーの評価が、さらに下降していく。そして、自分は少なくともあと一日、この村に―村長の家に―留まるという事実が、ずっしりと心にのしかかってきた。
あの、ティナさん
はい?
実は、ここだけの話、
声をひそめたアイリーンは、先ほどの『アレ』を、ティナに打ち明けた。
ええッ!?
ダニーが部屋に居た、というくだりで、目を見開いて顔を青ざめさせたティナは、
だだだ、大丈夫だったんですか!?
多分……。何もされてないと思うけど……
何か、どろどろしたものとか、かけられてませんでした?!
そ、それも多分大丈夫……
うええ、と顔をしかめながら、アイリーンは首を振った。
はぁ~まさかあの豚、客人にまで……?
頭痛を堪えるように、額を押さえたティナ。光彩の開いた瞳で、ゆらりと、台所の肉切り包丁を見やる。
いっそのこと……そうだわ、そうすればクローネンが村長に……
いっ、いや! 個人的には、ただ泊まる家を変えられないかなって……!
打算と欲望の色に瞳を濁らせ始めたティナに、アイリーンは慌てて声を上げた。 いやですねー、冗談ですよー と朗らかな笑みを浮かべるティナだが、冗談なのか本気なのか、なかなか判断に迷うところだった。
と、そのとき、ばたんと音を立てて外への扉が開かれる。
おーいティナ、いるか―って、あれ
草刈り鎌を手に、手拭いで汗を拭きながら家に入ってきたのは、クローネンだった。居間の椅子にちょこんと腰かけるアイリーンに目を止めて、ぱちぱちと瞬きしたクローネンは、
……なんでウチに姫さんが?
あなたぁいいところに! ちょっと聞いてよ、酷いのよ!!
ぷふぁぁっと振り返って目を輝かせたティナが、獲物に食らいつく猟犬のように距離を詰め、ことの顛末を説明する。
―と、いうわけなのよ! あなた、これはチャンスよ!
ティナは鼻息も荒く、
徹底的に糾弾して、アイツを次期村長の座から蹴落としてやりましょう!
…………
頭痛を堪えるように、ぺしっと額を押さえ天を仰いだクローネン。小さく溜息をつき、無言のまま、ティナの額をスコーンッと草刈り鎌の柄で叩いた。
あだぁッ!?
……すまない、姫さん。ちょっと待っててくれ
申し訳なさそうなクローネンは、額を押さえて うごぉぉぉ と呻くティナの腕を掴み、そのままずるずると家の外まで引きずっていく。
あ、うん……
ひとり、残されたアイリーンは、半ば呆然としたまま。
……あ、お湯沸いてる
しゅーしゅーと、鍋の蓋から吹き出る湯気の音だけが、静かに響いていた。
†††
ちょっと、痛いじゃない、何すんのよ!
静かにッ、あんまりでかい声を出すな!
家の外。声を荒げるのは、額を赤くしてお冠のティナに、負けじと彼女を睨みつけるクローネンだ。
頼むから、あんまり騒ぎを大きくしないでくれ……!
なんでよ、千載一遇のチャンスだわ!
チャンス? チャンスだと!
はっ、とクローネンは乾いた笑みを浮かべた。
姫さんはともかくとして、あのケイとかいう男は化け物だ! 下手にことを荒立てて、怒りを買ったら何をされるか分からん!
豚野郎に全部かぶって貰えばいいじゃない、別にアイツが殺されたってわたしは構わないわ
お前な……!
ティナのあんまりな言い様に、思わずクローネンは顔を引きつらせる。
あんなのでも一応、俺の兄貴なんだぞ!
知ってるわよ! わたし、貴方のことは好きだけどあいつは嫌いだわ。大嫌い
ぷい、と顔をそむけるティナ。
幼少期、両親の生業である養豚を手伝っていたティナは、当時ガキ大将だったダニーに幾度となく『豚臭い』とからかわれて泣かされており、今でもそれを相当根に持っている。ただの農民の癖に、水浴びや掃除が潔癖症一歩手前まで習慣化してしまったのも、そのせいだ。
お前が兄貴を嫌ってることは知ってる。だがそれとこれとは話が別だ、兄貴が死んだら誰が村長を継げる!?
……っあなたよ! あなた以外に誰がいるっていうの!?
信じられない、と言わんばかりに頬を紅潮させ、声を裏返らせるティナ。しかし対するクローネンの表情は、げっそりと、どこかうんざりしたように。
―自分には無理だ。
その想いは、どこまでも苦々しい。
クローネンは、自覚しているのだ。自分には、ダニーの代わりは務まらないと。
たしかに、ダニーには人間的な欠点が多い。
まず村の若年層には好かれていないし、女がらみとなると途端に理性を失くす節がある。その上、大飯食らいで、意地汚く、欲深で、守銭奴。そして何かにつけて尊大な態度を取り、それに反感を抱く村人は、実際のところかなり多い。
“自分でも、村長は務まる”
“むしろ、皆に慕われている自分の方が、ダニーよりも村長に相応しい”
そう考えていた時期が、クローネンにもあった。周囲の友人に持ち上げられ、調子に乗っていたのか。あるいはダニーは嫌われているという事実が、背中を押したのか。それとも単純に、ダニーを村長に推し、自分には目もくれない父親(ベネット)への反発心だったのか。いずせによ、クローネンは成人するまで、自分の方がずっと村のまとめ役に向いていると、そう信じて疑っていなかった。
しかし本格的に、村の運営に関わる仕事に触れたとき。
おのずと、悟ってしまった。
片や、幼い頃より、書物や商人たちの話から見聞を広め、ずっと勉学に励んできたダニー。
片や、勉学を放り出し、友人たちと一緒に野山を駆けずり回って遊んでいた、自分。
頭の地力が、知識量が。
余りにも―違いすぎた。
たしかにクローネンには、読み書きや計算の素養がある。怠けて途中で放り出したとはいえ、椅子に無理やり縛り付けられるようにして、ある程度の教養をベネットから叩き込まれていたからだ。
ゆえに税の計算や帳簿の管理など、村長として要求される最低限の業務は、こなすことができる。
しかしそれはあくまで、『最低限』。村の代表として、もっと重要な業務は他にある。
例えば、商人から適正価格で商品を購入したり。
あるいは、村の生産品を適正価格で販売したり。
また、それらをこなすための人脈を開拓したり。
知識も、経験も、咄嗟の機転も、全てが足りないクローネンには、上手く出来ないようなことばかりだった。しかし、そんな煩雑な仕事を、ダニーはまるで商人のように難なくこなす。
それを間近で見せつけられたクローネンは、己の不甲斐なさに、そして兄との決定的な能力差に、ただ、打ちのめされた。
しかも。それをこなした上で、ダニーは金策も忘れていなかった。
行商人たちの話から、あるいは街の片隅でのさり気ない会話から、拾い上げた情報を分析・統合し、市場の傾向や物価の動向を予想する。
そして農作物の作付けを調整したり、価格が高騰しそうな物品を買いしめたり、流行り病を察知してあらかじめ薬を準備したり―そういったダニーの情報処理能力は、クローネンからすればもはや、異次元の領域であった。
“商人の家に生まれていればよかった”
ある日、ダニーがぽつりとこぼした言葉だ。ダニーには確かに、商才がある。それは、ただの田舎村の村長として使い潰すには少々惜しいと、クローネンも心底からそう思えるほどに、素晴らしい才能だ。
仮に、長男でなければ。あるいは、ベネットに教え込まれた、次期村長としての責任感がなければ。
ダニーは商人として独り立ちし、とっくの昔に村を去っていたかもしれない。しかし現実には、彼は彼なりに村のことを思って、タアフの地に留まっている。
タアフの村は、近隣の村に比べて、豊かだ。
質の良い農具に、酒や甘味などの嗜好品。いざという時のためには、様々な種類の薬も揃っているために、急な病気や怪我にも対応でき、村人を死なせずに済むことが多い。
物質的に、精神的に、ゆとりのある生活。しかしこの『豊かさ』は、その殆どがダニーの手によるものであることを、クローネンは知っている。彼が稼ぎだした金が、それらを買うのに充てられているところを、すぐ傍で目の当たりにしてきたからだ。
そしてベネットからダニーへ、代替わりを見守ってきた村の年寄たちも、それを分かっている。ベネットの代よりも、明らかに向上した生活水準。決してベネットが無能であったわけではない。ただ、『金を稼ぐ』という一点において、ダニーがベネットの追随を許さぬ才能を発揮しただけのこと。それらが分かっているだけに、ダニーの尊大な態度を受け入れ、彼が村長となることを支持しているのだ。
それだけの権利が、実績が、ダニーにはあると、認めているから。
……俺には、無理だ
クローネンは、ゆっくりと首を振る。
俺には、兄貴の代わりは務まらない
なんで!? あなたなら出来るわ、わたしも手伝うし、皆もあなたの方が良いって言ってるし―!
そういう問題じゃない
本当に、単純に、能力が足りていないのだ。いくらティナが手伝おうと、皆が協力してくれようと、それは埋めようのない差だった。
あるいは。
皆のまとめ役として、クローネンが形だけの村長として収まり、ダニーが裏方として働く、という形が構築できれば、それは理想的であるのかも知れない。
しかし、それはほぼ確実に実現しないだろうと、クローネンは思う。
なぜなら、ダニーは『村長になるために』、この村に留まっているからだ。幼い頃より次期村長として育てられたダニーは、『自分が村長になる』ということを、半ば当然と受け止めている節がある。それは責任感であり、ある種の諦念だ。その、『当然』という想いのみが、ダニーを村に縛り付けている。
それが無くなれば、果たして、どうなるか。
十中八九、ダニーは村を出るだろう。プライドの高い彼が、冴えない弟の陰で裏方に徹することなど、許容できる筈もないのだから。第一、村にしがみつかずとも、既に構築した人脈と自身の才能で、ダニーは商人として充分に食っていける。
村に残る理由が、見当たらなかった。
そしてダニーが出て行ったあとの村には、ただ頼りないクローネンだけが残される―。
薬も酒も、いずれは無くなる。農具は買い替えなければならない時が来る。
そのとき、新たにそれを調達するだけの金を、クローネンは捻出することができない。タアフの村は、再び近隣の村と同じ生活水準にまで、戻らざるを得なくなるだろう。決して貧しくはないが、豊かでもない。そんな暮らしに。
それは―極力、避けるべきだ。
だから、何度も言ってるだろう。お前が手伝ってくれたところで、どうにもならないんだ!
なんで……なんでそんなこと言うのよ! やってみなければわからないじゃない!
俺には分かるんだ! 俺とお前なんかが一緒に知恵を捻ったところで、兄貴の頭には敵わないんだよ!!
悔しげに顔を歪ませたティナに、クローネンはなんとも言えないもどかしさと、苛立ちを胸に募らせる。
おそらくティナは、自分の夫が、よりにもよって自分が最も嫌いな男に、劣っているのが嫌なのだ。そしてただ劣っているだけではなく、それを本人が認めていることが、どこまでも気に食わないのだろう。だからこうやって癇癪を起こす。
それが―クローネンには、どうしようもなく苛立たしい。
ティナも含めて、村の若い衆の多くは、ダニーの功績を理解できない。理解しようともしない。
尊大な態度。人使いが荒い。肉体労働をしない。
確かにそれらは欠点でもあるが、その上っ面だけに目をやって、中身を全く評価しようとしないのだ。
仮にクローネンが、いかにダニーが有能であるかを説明しても、彼らはただ感情に任せて、すぐさまそれを否定する。曰く、やれば自分たちにもできる。曰く、それほど大したことではない。根拠も経験も知識もなく、ただ感情に任せてそう言い張る。
何処までも幼稚で、救いようがないほどに無知だった。さしものクローネンも、嫌気が差す。
ともすれば、彼らをいつも馬鹿にしている、尊大な兄の心境が理解できてしまう程度には―。
……はぁ。もういい。この話は終わりだ
大きく溜息をついて、ひらひらと手を振ったクローネンは、有無を言わさぬ口調でそう言い切った。
―自分は、裏方に徹する。