しばし、ケイとポーションを訝しげに見比べていた黒ひげだったが、何を思ったのか、片手の書類を傍らの簡易机の上に置き、おもむろに瓶のコルク栓を引き抜いた。 あっ と声を上げ、思わず身を乗り出すケイとアイリーン。それをよそに、すんすんと鼻をひくつかせて、その匂いを確かめる。
…………
しばしの逡巡。
おいやめろ、と無意識に呟くケイ、そしてそれを無視するように、黒ひげは瓶を傾けて、クイッと一口。
(おいいぃぃオッサンンンンッッ!!!)
(生命線があああぁぁぁァァッッ!!!)
のおおおおおと声にならない抗議の声、
ブフゥォ何だコレ不味ゥ!?
そして盛大にそれを噴き出した黒ひげが、あまりの不味さに身体を仰け反らせる。その勢いでこぼれそうになり表面張力の限界に挑むポーション、それを見て うわぁ! と悲鳴を上げるケイとアイリーン。
隊長!?
大丈夫ですか!?
それ毒か何かなんじゃ……
いっいや大丈夫だがッ味ッ、味ィッ! オェェッ!
えずいた黒ひげが身体をくの字に曲げ、その手の中の瓶が再び危うい角度に傾く。 あああッ! とさらに悲鳴を上げるアイリーン、 まず蓋閉めろ! と怒鳴りながら貴重な魔法薬を無駄遣いされたことに殺意を覚えるケイ。
……っあー、『良薬は口に苦し』とは言うが、ンふッ、これはまたとんでもない不味さだな
しばらくして口の中が落ち着いたのか、げっそりとした表情の黒ひげは、コルクで瓶に蓋をしつつ頭を振った。未だ怒り冷めやらぬケイは、乱暴にその手から瓶を奪い取り、後生大事に荷物袋に仕舞い込む。一口分無くなってしまったが、ひとまずは無事に返ってきたポーションに、ほっと胸を撫でおろすアイリーン。
……少なくとも、これは麻薬ではないな。何かしらの薬、ってのは本当だろうが……全く、病人だか何だか知らんが、それを飲まされるヤツは相当に不幸だな……まぁいい。
よし、とっとと鑑札の発行済ませるぞ
……いいんすか?
いいんだよ。少し口に含んだだけだが、異様に不味かっただけで、あとは特に異常もなかったしな
若い衛兵の問いかけに、肩をすくめた黒ひげは それに、 と言葉を続ける。
仮に得体の知れない新種の麻薬だったとしても、規則に定められた麻薬(ヤク)の一覧にコレは入っていない。一覧に入っていない以上、俺達にはこれを取り締まる義務はなく、逆に権利もないって寸法だ……。
さて、待たせたな。手続きを終わらせるぞ……ちゃんと金は持ってるんだろうな?
互いに、何処かうんざりしたような雰囲気で、鑑札の発行手続きは始まった。
サスケと他の馬三頭分の税金に鑑札の発行代金、合わせて銅貨45枚を支払い、帳簿にサインをし、さらにしばし待たされてから、ケイたちはようやく一週間有効な鑑札を手に入れる。
ケイたちが手綱を引いて門を潜り抜けたとき、サティナの街に到着してから、すでに二時間半が経過しようとしていた。
†††
夕暮れ。
サティナ市内北東部、商人街の一角で宿を取ったケイたちは、宿屋一階の酒場で席についていた。
結局、宿屋を探している間に、日が暮れてしまった。
宿を取る、と一言で言えば簡単だが、実際に探してみると、これがなかなか難しい。ネックになったのは、やはりケイたちが連れている四頭の馬だ。商人と職人の街だけあって、サティナには至るところに宿屋があったが、清潔さ、治安の良さ、そして余裕のある厩舎、その全てが揃った宿となると、流石に限られていた。
さっさと宿を取り、その後は手紙の配達、次にアイリーンのために防具屋を物色―などと考えていたケイであったが、実際のところそんな余裕はなかった。街中で野宿するわけにもいかず、必死で探し回った結果、少し割高な宿を取る羽目になってしまったが、まあ致し方があるまいとケイは考える。
何はともあれ、無事に宿が取れたことを祝して……
カンパーイっ
向かい合わせのテーブル。いぇーい、と笑顔を浮かべたケイとアイリーンは、なみなみとエールの注がれた木のジョッキをこつんっと打ち鳴らした。
ぐび、ぐびっ、と。
エールを喉に流し込み、ジョッキを置いた二人は、 う~ん と何とも微妙な表情を浮かべる。
冷えてないな……
冷えてねェな……
ぬるい。ぬるいのだ。酒場の空気よりはひんやりとしているが、決して冷たくはない。爽快感皆無の喉越し。
……ま、当たり前か
何を期待してたんだろうな、オレたちは……
小さく肩をすくめるケイ、真顔で遠い目をするアイリーン。この世界には、冷蔵庫など存在しない。せいぜいが、ひんやり涼しめな地下室があるくらいのものだ。
あるいは、熱系統に強い高位の魔術師がいれば話は別かもしれないが―今のケイたちには、望むべくもない。
……ケイの『シーヴ』で何とかならない?
たかがエール冷やすのに幾ら使うつもりだ
若干の期待を込めてこちらを見るアイリーンに、ケイは呆れ顔で首のチェーンをちゃらちゃらと鳴らして見せる。魔術を行使するための触媒、大粒のエメラルドは、今持っている一つで最後だ。そもそも複数あったところで、こんなことに使うのは論外だが。
しかしシーヴで冷やすのはちょっと厳しいぞ、『分子の動きを止めて空気を冷却しろ』なんざ、精霊語(エスペラント)でどう言えばいいのか見当もつかん
う~ん。難しいな……
あと仮に言えたところで、精霊が理解するかどうかは別問題だしな……
たしかに……残念、無理か
そんなことを話していると、ケイたちのテーブルにトレイを抱えた給仕の娘がやってきた。
はい、お待ちどぉ。ソーセージの盛り合わせに三種のチーズ、スープ二人前、あとパンね~
おお~
腹減った!
手際良く、娘が木の器をテーブルの上に並べていく。肉汁を垂らし、香ばしい匂いを漂わせるソーセージに釘付けになるアイリーン、娘がかがんだ際に見える胸の谷間に視線が吸い寄せられるケイ。
ごゆっくりぃ~
ぱちり、とケイにウィンクした娘は、手をひらひらとさせながら厨房の奥へと戻っていった。 さあ、早く食べようぜケイ! と急かすアイリーンに、ふりふりと揺れる娘の尻を眺めていたケイは ああ…… と生返事を返す。
イタダキマス!
ぺし、と合掌したアイリーンが おっ、これウマい! と食べ始めたので、はっと我に返ったケイも、慌ててフォークに手を伸ばした。
それから存分に飲み食いし、満腹になったケイたちは二階の部屋へと引き返す。
部屋は、広めの四人部屋を二人で使う、という贅沢をしていた。ケイたちの泊まる”BlueFish”亭は裕福な庶民向けの宿屋なので、大商人や貴族向けの高級宿とは違い、個室などは存在しない。部屋は二人部屋、四人部屋、大部屋(雑魚寝)の三種類のみだ。
そしてケイたちの場合、二人連れではあるものの、草原の民から奪った武具などの大荷物を抱えていたため、二人部屋だと狭すぎて荷物の置き場所がなく、苦肉の策として運良く空いていた四人部屋を取っていた。
あ~今日は疲れたな~
部屋の中、入って左手のベッドにアイリーンがダイブする。そして、スプリングの利いたマットレスではなかったがために、ドスッと音を立ててモロに衝撃を食らい うっ と痛そうな声を上げた。
ケイはそんなアイリーンに苦笑しながら、手にしていたランプを天井の鎖にぶら下げる。揺れる炎の薄明かりが、仄かに部屋を照らし出した。床や余ったベッドの上に、所狭しと置かれた荷物。雨戸の閉じられた窓、わずかな隙間から、殆ど暗くなった夕焼けの空が見える。外から聴こえてくる、酔っ払いの喧騒に、吟遊詩人の歌声。
腰に付けていた長剣の鞘と”竜鱗通し”を入れていた布製のケースを枕元に置き、ケイも右側のベッドに腰掛けた。
ほっ、と。
強張っていた身体から、硬い芯が抜けていくような。そんな安心感があった。
……ホント、疲れたな
ぽつりと呟いた言葉には、万感の思いがこもっている。今朝、それこそ十数時間前に出発したというのに、タアフの村を出たのがもう随分と前の出来事のように感じられた。
ぅん……
小さく、呻き声を返したアイリーンは、すりすりと枕に顔を擦り寄せて、見るからに眠たそうだ。
もう寝るのか?
ん……ねむい。……シャワー、したいけど、ないし……水浴びも、ちょっと……ここじゃやだ……
あー、そうだなぁ
“BlueFish”亭は石造りの三階建て、上から見ると口の字をしている。真ん中の部分の空き地に井戸とトイレがあり、水浴びならばそこですることになるわけだが、それが四方の客室の窓から丸見えになっているのだ。この世界の住人ならばともかく、まだ『こちら』の環境に慣れていないアイリーンには、少々酷だろう。少なくともケイの知る限り、アイリーンに露出癖はない。
まぁいいや……、とりあえず今は、ねる……
むにゃ、とシーツを手繰り寄せたアイリーンは、眠気に抗うのをやめて本格的な睡眠態勢に入った。エールのあとは専ら、葡萄酒の杯をかぱかぱと空けていたアイリーンだったが、流石のロシア人といえどもほろ酔い気分になってしまったらしい。疲れていたのもあるだろうが、すぐにすやすやと寝息を立て始める。
おーい、アイリーン……。寝ちまったのか?
ケイが声をかけても、全く反応はない。
…………
沈黙。
喧騒から離れた静けさとともに、ゆったりと時間が流れ出す。
ランプの火のか細い灯り。薄暗い部屋の中。
しかしケイの瞳には、アイリーンの姿が鮮やかに浮かび上がる。
寝台に横たわる細い体。シーツに浮かび上がる、しなやかで女性的な腰のライン。その身が羽のように軽く、そして柔らかいことを、抱きとめたことのあるケイは感覚として知っている。ふわりと、花のように蠱惑的な香りが鼻腔をくすぐった。アルコールのせいだろうか、アイリーンの寝顔も、微かに赤らんで見えた。ポニーテールのままほどき忘れた金髪、白く覗くうなじ、白磁のようになめらかな肌。頬にかかる前髪が、唇から洩れる呼気に揺れている。唇。桜色の、艶めかしく、まるで花弁のように可憐な―
……んぅ
むにゃむにゃ、とアイリーンが寝返りを打った。
その頬にかかる金髪を、指で払ってあげようとしていたケイは、はっと我に返ってアイリーンから距離を取る。
そして、まるで誘蛾灯に誘われる羽虫のように、自分が彼女に吸い寄せられていたことに気付いた。
……いかん
ぺし、と額を叩いたケイは、困ったような顔でアイリーンを見下ろす。
『……。無防備すぎんだよ』
ぼそりと、日本語で。溜息をつき、こめかみを押さえたケイは、 アンドレイアンドレイアンドレイアンドレイ…… と呪文のように唱えた。
……よし。寝よう
フッとランプの火を吹き消し、勢いもそのままにベッドに横たわる。もぞもぞと、アイリーンに背を向けて、暗闇の中そっと目を閉じた。
やはり、何だかんだ言って、ケイも疲れていたのだろう。
……ぐぅ
何かに思い悩む暇も、思い悩まされる暇もなく、吸い込まれるようにして深い眠りへと落ちていった。
†††
翌日。
慣れない旅の疲れから、結局昼前まで揃って惰眠を貪っていたケイたちであったが、一日寝て過ごす訳にもいかなかったので、何とか気持ちを奮い立たせ行動を開始した。
一階の酒場で遅めの朝食(ブランチ)を取り、街へ繰り出す。アイリーンの防具や盾を見繕ったり、ミカヅキの遺品の皮を加工する職人を探したりと、やらなければならないことは沢山あるが、まずはベネットに頼まれた手紙の配達を終わらせてしまうことにした。
壁の内側、碁盤目状に区画整理されているサティナの街は、十字に走る大通りを境に、大きく四つの地区に分けられる。
まず、南の正門から入って右手側、真ん中から南東の区画が、貴族や大商人の邸宅が並ぶ高級市街だ。壁際の角の部分には堅固な造りの領主の館があり、また壁の外側にはモルラ川の水を引いて造られた人工湖と、その真ん中にそびえる防御用の塔がある。仮に外敵がサティナを攻撃した場合、この小さな湖と防御塔を攻略しない限りは、領主の館がある南東側を容易く攻めることができないというわけだ。
逆に、正門から入って左手側、南西のエリアは、商店が立ち並ぶ商人街となっている。ありとあらゆる種類の店が開かれており、日々あらゆる商品が捌かれるそこは、サティナの街の中で最も活気に満ち溢れた区画といえよう。