垂れ下る、赤黒い、ぐしゃぐしゃに崩壊した肉の塊。ところどころに散らばる白い欠片が、折り砕かれた歯と骨であることに、数秒してから気付く。

ラトの、顔から下半分が、消失していた。

口腔から喉の奥にかけてが、丸見えになっている。僅かに、傷だらけになりながらも、残っている舌が蛇のように蠢いていた。 やぁぇ、ぁぁぅ と、ラトが言葉にならない呻き声を上げるたび、だらだらと唾液が糸を引いて垂れていく。

―やつれるはずだ。

老人は思う。こんな、『口』ともいえない口では、ろくに物が食べられるわけがない。旅の糧食として重宝される堅焼きのビスケットなど、もってのほかだ。極限にまで磨り潰した粥ですら、食べるのは厳しいだろう。

……一体、お前たちは何とやり合ったんだ

思わず、といった様子で老人が呟くと、 あぃうあああぁッ!! と叫んだラトのまなじりが釣り上がった。

あぃぅああぁぅああッ! あぃぅ、おおぃぇあぅ、おおぃえああぅッッ!

顔の残った部分を真っ赤にし、だらだらと口腔から唾液を垂らしながら。

おおぃぇあぅゥッッ! ええぁいいッおおぃぇぁっぅおあいぅゥッ!!!

叫びとも悲鳴ともつかぬ声を上げ、ラトが腰からさっと短剣を引き抜いた。びくり、と身体を硬直させた老人だったが、ラトはその短剣をバンッ! と乱暴に、机の上に叩きつけただけだった。

鈍い、くすんだ銀色の刃。こびりついたどす黒い血。ハウンドウルフの血―。

おぇぁ、あぃぅぉえんぁ

……すまん、何が言いたいのか分からん

困惑の表情で、及び腰の老人は首を横に振る。

おぇぁ、あぃぅぉ……あぃぅぉ、あぃぅぉあぃぅおぉぉおおおぉッッ! おおおおぉオオオォぁぃぁぁっォォォッッッ!

バンバンバンと狂ったようにテーブルを叩きながら、ラトは首をめちゃくちゃに振り回し、駄々っ子のようにただ叫ぶ。

おおぃぇあゥッ! おおぃぇあゥッ! おおぃぇ、おおぃぇあぅウッ! おおぃぇあぅウぅぅぅッッッ! おおぃぇあぅ、おおぃぇぁぅッ、おおぃぇあぅウッ! おおぃぇあぅウウウウウウウウぅぅッ!

しばらく叫び続けていたラトだったが、やがてその言葉は勢いを失くし、ただ昏い瞳で床を見つめ、何事かを呟くのみとなった。

老人は、ただそれを、引き攣った顔で眺めていた。

その後、小間使いの少年が連れてきた村の薬師―という名目の、専属の医者に二人を任せ、老人は浮かない顔で自室に引きこもる。

机の前、安楽椅子を揺らしながら、額を押さえて はぁ…… と大きな溜息をついた。

……まったく。モリセット隊は壊滅、ラトランドは気狂い、何が起きたかを知るパヴエルは重体、か

近頃は暇だ、などと思っていたらこれだ。こんな厄介事は御免だ、ともう一度溜息をつきつつ、

まあ、とりあえずの報告はせねばなるまいて……

机の引き出しから、小さな紙切れを一枚取り出した。羽ペンを手に、老人は目を細めながら、紙面に何事かを書きつけていく。

……ふむ

そして羽ペンをインク差しに戻したとき、紙切れにはびっしりと幾何学的な模様が描かれていた。

引き出しからもう一枚、今度は羊皮紙を取り出した老人は、紙切れの内容と羊皮紙の内容を見比べるようにして、念入りに目を通していく。

よし

数度の確認を終えた老人は、ローブの胸ポケットからホイッスルを取り出し、窓の外に向けてそれを吹き鳴らした。

ピィーッという甲高い音が、外の鬱蒼とした森に響き渡る。

やがて、バサバサと羽音を立てて、大きな黒い鴉が森の中から現れた。窓枠にしっかりと止まり、まるで血のような赤い瞳でこちらを見つめる。その右脚には、革製の小さなポーチのようなものが、ベルトで括りつけてあった。

さぁ、仕事の時間だぞ

チッチッチッ、と舌を鳴らしながら、老人は机の上に置いてあったサラミを一切れ手に取り、鴉に食べさせる。鴉が首を振ってそれを飲み込もうとする間に、右脚のポーチの中に紙切れを仕舞った。

これでよし、と。……さて、

んんっ、と咳ばらいをした老人は、鴉の眼前に右手をかざし、

―Al la kastelo.

ぎらり、と赤い瞳を輝かせた鴉は、ばさりとその翼を広げた。

ガァーッ、ガァーッと耳障りな鳴き声を上げながら、空へ向かって羽ばたいていく。それを見守りながら、老人はゆっくりと安楽椅子に座り直した。

気流を捉え、天高く昇った鴉は、二度、三度。

上空を旋回し、その進路を真っ直ぐ南へと取った。

老人の視界の中、高みを羽ばたく鴉は、まるで黒い砂粒のようで。

そのまま見る見る間に、空の果てへと、飛び去っていった。

パヴエルくんです(元気な頃の)。

追記. 2018/09/06

改稿しました。パヴエルくんのヴィジュアルは改稿前の描写に基づいております。

改稿前はオッドアイではありませんでした。

17. Satyna

―では、一週間後にまた鑑札を切り替えるように。次ッ!

大きな声が響き渡り、ぞろぞろと、長い行列が僅かに前へ進む。

あぁ~……。いい加減、待ちくたびれたぜ

全くだ

その列の中ほど、騎乗で隣り合ったケイとアイリーンは、うんざりとした表情で溜息をついた。ケイたちの前後に並ぶ、馬車の手綱を握る商人や馬に跨った傭兵、家畜を連れた農民と思しき人々も、みな同様に待ちくたびれた顔だ。

サティナの街に辿り着いてから、およそ一時間。

草原の民の襲撃の後は、特に何のトラブルにも見舞われなかったケイとアイリーンであったが―サティナで二人を待ち受けていたのは、正門前での長蛇の列、まさかの交通渋滞だった。

城郭都市サティナ。

四方に堅固な石造りの壁を備え、東に雄大なモルラ川を望むこの街は、周辺の村々の租税や生産物が集積する一大交易拠点だ。

モルラ川を介した河川舟運に加え、東西南北の街道が交差するという地形の妙、さらに良質な木材の生産地であることも加わって、職人や商人たちが一堂に会するリレイル地方南部の経済の中心地といえた。

サティナの城郭には、玄関口として四方に大きな市門が設けられている。モルラ川の船着き場専用である東側を除いた、西・南・北の市門が陸からのアクセス経路だ。

サティナから西、タアフの村の方角から来たケイたちは、当然のように西門をくぐろうとしたのだが―そこで、門番から待ったが掛かった。

曰く、家畜や馬の類は、鑑札なしで門を通すことはできないとのこと。ひとまず南の正門に行き、一頭当たりにつき所定の金額を払った上で、鑑札の発行手続きをする必要があるらしい。

要は、家畜及び騎乗生物にかけられる税金だ。

城郭の外には、サティナ北西部のスラム街を除き家屋が存在しない。スラムに馬を預けられるような施設があるはずもなく、かといって外に放置も論外だったので、ケイたちは南の正門に向かわざるを得なかった。

そして目にしたのが件の長蛇の列、というわけだ。

鑑札を手に入れるために、大人しくケイたちも並んだが、かれこれ一時間以上待たされているというのに未だ門まで辿り着けていない。手続きが煩雑なせいもあるのだろうが、税金を払えない者や横入りを試みる者のせいでもトラブルが頻発しており、鑑札の発行が更に遅延している。そこに加えて、一部の特権階級と思しき者たちは、列を無視して優先的に手続きを済ませ門をくぐっていくので、苛立ちは募る一方だった。

しかし、待っていれば、その時はいつか訪れる。

―では、以上の点に気をつけるように。次ッ!

前にいた荷馬車の商人が手続きを終え、とうとう次はケイたちの番だ。

門の下では、短槍を手にした数人の衛兵が、厳しい面持ちで門の前後を固めていた。

衛兵たちの装備は白染めの革鎧で統一されており、胸当てには心臓の上あたりで交差する左寄りの十字が描かれている。その白と黒のコントラストは、どこか日本の警察のパトカーを連想させた。

……お前、草原の民か?

衛兵の一人、この場の責任者らしい年配の黒ひげを蓄えた男が、胡散臭げな視線でケイを見やる。

いや、違う。この顔を見ればわかるだろう

サスケから降りながら、ケイは自分の顔を指差してあっけらかんと答えた。ケイの顔に草原の民の刺青はなく、装備している鎧は羽飾りの類などを排除してあるので、独特の紋様を除けば普通の革鎧とそう大して変わらない。

ふン。随分と多く、草原の民の武具を持っているようだが。これはどうした?

ここに来る途中で襲われてな。返り討ちにして剥ぎ取った

……全部か?

ああ。八人だった

二頭の馬に満載された武具を、じろじろと観察していた黒ひげの衛兵だったが、それらにこびり付いたどす黒い血に目を細め、鼻を鳴らした。

……まあ、いい。お前たち、どこから来た?

タアフの村から

目的は?

手紙の配達を頼まれた。後は買い出しやら何やら……色々だ

腰のポーチから、ベネットに託された封筒を取り出して見せる。

貸してみろ

ケイから封筒を受け取った黒ひげが、封蝋―ケイは知る由もないが、村や街ごとに模様が決まっている―を指で軽く撫で、裏側のベネットのサインを確認した。

ふン、まあ、本物のようだな。最後に軽く所持品を検査するぞ、いいな?

それは確認というよりも、命令だった。数人の若い衛兵が手際良く馬の荷物をチェックする傍ら、ぽんぽんと軽くボディーチェックのようなものも為される。

何のチェックだ、これは?

麻薬だよ。最近サティナ(ウチ)で流行ってんだ、取り締まりを強化しろとのお達しでね

ケイのチェックを終えた黒ひげが、小さく肩をすくめた。

さあ、じっとしてろ!

えぇっ、オレもかよ?!

ケイの隣、若い衛兵がアイリーンににじり寄る。ぎょっとしたアイリーンは、思わずといった様子で壁際に逃げた。

おいッ、逃げるな! 貴様、さては何か隠し持ってるな!?

こんな薄着で何をどこに隠せってんだよ!?

薄手のチュニックをひらひらとさせながら、赤い顔でアイリーン。しかしそれをよそに、手をわきわきとさせた若い衛兵が、じりじりと距離を詰める。目をぱちくりとさせたケイが困り顔で黒ひげの衛兵を見やると、 ふぅン と溜息をついた彼は、

おいニック! そんな鼻の下伸ばして、下心丸出しの顔してたら嫌がられるに決まってンだろうが! 俺のお袋でも嫌がるぞ、今のお前はな!

こつん、と若い衛兵の頭を小突き、その言いように周囲の衛兵たちがどっと笑い声を上げた。

悪いが嬢ちゃん、これも規則でな

ケイに対するそれよりも幾分か柔らかい態度で、黒ひげの衛兵が手際よくアイリーンの全身をチェックしていく。それに対しアイリーンは、ただ人形のように固まっていた。

よぅし、特に変な物は持ってないな

紳士的かつ事務的に、さっさとチェックを終わらせた黒ひげは、ぱんぱんと手を払いながら小さく笑みを浮かべる。

さてと、それじゃあ金勘定といきま―

―隊長! こいつら変なもん持ってます!

馬の荷物を検めていた衛兵が叫んだ。笑みを消し、 はぁ? と声を上げる黒ひげ。アイリーンの乗騎、荷袋から引きずり出されたのは、青い液体の詰まったガラス瓶―高等魔法薬(ハイポーション)だ。ケイとアイリーンが同時に、 あ という顔をする。

お前ら、……何だコレ。本当に『変なモノ』だな

部下の衛兵からガラス瓶を受け取り、軽く振って内容物を確認した黒ひげが、興味深げにとろみのある青い液体を日の光にかざす。明らかに自然界には存在しないタイプの青色、『変なモノ』といえば確かにその通りだが―少々顔を引きつらせたケイは、

それは万能の治療薬だ。それなりに貴重なものだし、丁重に扱って欲しい。あと直射日光は極力避けてくれ、劣化する

……治療薬、ねえ。薬か……

ふン……、と再び胡散臭げな表情に戻り、黒ひげがじろりとケイを見やった。

(素直にポーションだと言ってもいいが……)

ケイは考える。『こちら』の世界では DEMONDAL のゲーム内よりも、ポーションの希少性が更に上がっているらしかった。これは正真正銘ハイポーションであり、ケイにやましいことは何一つとして無いのだが、ここで素直に教えてしまうと、のちのち厄介なことに巻き込まれる気がしてならない。

(……ええい、これは治療薬だ! 俺は嘘は言っていないぞ!)

開き直ったケイは、しっかりと背筋を伸ばし、 そうだ、ただの治療薬だ と断言した。

ふン、そうか……

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