頭上から降り注ぐ陽光のおかげで明るくはあるものの、視界はぼんやりと霞み、見晴らしは非常に悪い。

五メートルほど先から急激に見えづらくなり、十メートル先に至っては殆ど何も見えなかった。乳白色のヴェールからぬっと姿を現す木々の影に、先ほどからケイはぎょっとさせられてばかりいる。

霧を構成する粒子の一粒一粒が、つぶさに見えるような錯覚。

ぼやけた視界のせいで、頭の中までぼんやりしていくような。

そんな、不快な感覚があった。

アンドレイ、着いてきてるか

おう。たまに見失うけどな

……はぐれるなよ?

気をつけるさ。流石に面倒だ

本当に大丈夫か、とケイはすぐ後ろに追随するアンドレイに目をやる。ぱっかぱっかと揺れる馬上、アンドレイはサーベルでぽんぽんと肩を叩きながら、興味深げに周囲を見回していた。

すげえな、この霧。現実(リアル)でもこんなのお目にかかったことねえよ

……お前の御国は、霧はよく出るのか?

あー、……いや。霧はあんまし、どっちかっつーと雪だな

ロシアだよな?

ああ、シベリアだ

シベリアか……寒そうだ

冬は軽く-30℃はいくぜ

そいつは勘弁だな、寒いのは苦手だ

一旦、会話が途切れる。

……やはり魔術か? 自然現象にしては、濃すぎる気がする

そうだなー。けどMob(モンスター)が魔術使っても、敵性意思は発生するだろ? そしたら、お前の第六感(シックスセンス)で感知できるはずだ

となると、脅威度がゼロ設定の、未発見の魔術か……? いや、俺たちの魔術耐性を考えると、この濃さで脅威度ゼロは無いだろう

“幻覚”じゃなくて、実際に霧を発生させてる、って可能性もあるぜ?

……だとしたら、かなり上位の精霊だな。契約できれば儲けモノだが……二人で戦うのは、ぞっとしないな

……攻撃的(アクティブ)Mobじゃないことを祈るぜ

アンドレイがお手上げのポーズを取る。

が、突然、ぎょっとしたように顔を強張らせ、左手で腰の投げナイフを引き抜いた。

……

どうした、アンドレイ

一瞬、アンドレイが発した鋭い殺気を感知し、馬の歩みを止めたケイは弓を構えつつ尋ねる。

投げナイフを左手に、アンドレイは困惑したような顔で、ぽつりと答えた。

……声が聴こえた

……声?

思わず、ケイは眉をひそめる。

『視力強化』の呪印を刻んだ両の瞳ほどではないが、極限までステータスを高めたアバターとして、ケイの耳もかなりの高性能を誇っていた。

しかし、先ほどから、声など聴こえてはいない。

……何だ……何だ、今の……

……落ち着け。なんだか嫌な感じがする

壊れた機械のように、せわしなく視線を彷徨わせるアンドレイ。

その姿に、言い知れぬ不安を覚えたケイは、思わずそう口にして―自分の発言に戸惑った。

“嫌な感じがする―”

何を馬鹿な、と。一笑に付したい気分だった。

確かに DEMONDAL には”第六感(シックスセンス)“という、『悪寒』を発生させるシステムが存在する。だがそれはあくまで、鳥肌が立つような、ゾクゾクとした『感覚』を再現するもの。

断じて、根源的な不安を呼び起こすような―

ヒトの感情に、直接影響を及ぼすようなものでは、ない。

しかし、他でもない今。

ケイは得体の知れない何かが、足元からじりじりと這い上がってくるような―そんな、感覚に襲われていた。

……アンドレイ、俺には何も聴こえない

そんな筈はない! ほら……まただ!

微かに怯えの表情を浮かべたアンドレイが、鋭い声を上げる。

ケイも聴こえるだろ!?

……いや、聴こえないぞ

事実、何も聞こえない。だが、アンドレイはそうではないようだった。

嘘だ! なんでだよッ!!

本当だ、落ち着けっ

なんで聴こえないんだ! ほら、また―

その瞬間。

言葉を続けようとしたアンドレイは、かっと目を見開いて、硬直した。

…………

……アンドレイ?

……誰だッ!!

サーベルを振り上げたアンドレイが、周囲を見回し、叫ぶ。

誰だッ!! 何処にいる?!

アンドレイッ

誰だ?! なんで、なんでッ―

怯えきった顔で、アンドレイは絶叫した。

―なんでオ(・)レ(・)の(・)名(・)前(・)を(・)知(・)っ(・)て(・)い(・)る(・)?!

……は?

何を言っているんだコイツは。と、思わずケイの思考が一瞬停止する。

……。アンドレイ、いい加減に落ち着い―

ぐるんと、アンドレイがこちらに顔を向けた。

その瞬間、ケイの背筋に冷たいものが走る。

ア(・)ン(・)ド(・)レ(・)イ(・)の(・)視(・)線(・)は(・)、ケ(・)イ(・)を(・)素(・)通(・)り(・)し(・)て(・)い(・)た(・)。

明らかに、目の焦点があってない。能面のように表情が抜け落ちた顔は、紙のように白かった。リアルな造形とはいえ、高々ゲームのアバター―にも関わらず、背筋が凍るようなおぞましい何かが、そこにあった。

…………

無言のまま、アンドレイが左手を振り上げる。きらりと光る投げナイフ。

ぶわりと、アンドレイの黒衣が膨れ上がるような錯覚が、

いや、ちょっと待

左腕がブレた。

鋭く刺すような殺気。ケイは慌てて身をかがめた。

ビッ、と空を切り裂いて、ケイの頭を銀色の刃がかすめる。

おいっ、ふざけるなっアンドレイ!!

思わず怒鳴るが、アンドレイは意に介さず、そのままきょどきょどと周囲に視線をやり、

くそっ、何処だ。アイツ、何処に行きやが、あああああ、あ、あ、あ、消え、消え

うわ言のように呟きながら、馬上で寒さに凍えているかのように、己の身を掻き抱く。その体は冬山の遭難者のように、カタカタと細かい震えを起こしていた。

流石に心配がピークに達したケイは、ひらりと鞍から飛び降り、アンドレイに近づこうとした。

が、その瞬間、ぴたりと震えを止めたアンドレイが、再び腰から投げナイフを引き抜く。

来るか、と咄嗟に身構えたが、アンドレイはケイとは明後日の方向を向いて、

そこかッ!

ナイフを投じた。

風切音。

しかし、何もないところへ投げられたナイフは、当然、何者をも捉えない。

乳白色のヴェールに、呑まれて、消える。

普通なら地面に刺さるなり、崖の岩肌に弾かれるなり、何らかの音がするはずだったが、霧の世界は不気味なほどに静かなままだった。

また、また、消えた……

泣きそうな表情で俯いて、アンドレイが小さく呟く。

その表情に憐憫を、そして理解不能な状況に怒りを覚えたケイは、たまらず、腹の底から声を振り絞って、叫んだ。

おいッ、アンドレイッ! しっかりしろ!!

その声に、はっとアンドレイが顔を上げる。

……ケイッ!!

叫び返すアンドレイはしかし、振(・)り(・)返(・)っ(・)た(・)。

―ケイがいる方向とは、真逆に。

ケイ! 何処に行ってたんだ!

心なしか安堵の色が滲む声で、アンドレイがほっと溜息をつく。

全く、ビビらせやがって……

ああそうさ、さっきから変な声がしてたんだ

いや、幻聴じゃねえよ。ホントだって

それよりお前、何処に行ってたんだよ? けっこー怖かったんだぜ?

え? さっきからここにいた? 嘘つけ、絶対いなかっただろ

からからと笑うアンドレイ。

―いや、冗談ではない。

おい……おいっ!! アンドレイ!!!

楽しげに会話するアンドレイに、ケイは全身が総毛立つのを感じた。

お前、誰(・)と話してるんだ!

ふっ、とアンドレイが、こちらを見た。

焦点のあっていない目。

……なあ、今、また声が聴こえなかったか?

彷徨う視線。

なあ、ケイ。…………ケイ?

再び、振り返ったアンドレイが、 あれ? と戸惑いの声を上げる。

おい、今度は何処行ったんだよケイ! 悪ふざけは止めてくれ!

ふざけてんのはお前だ! 俺はここにいる!

……! そっちか!

明後日の方向を向いたアンドレイが、手綱を握り馬の横腹を蹴った。

ヒヒン、と鳴いたアンドレイの馬が、駆け足で走り始める。

ケ―イッ! 待ってくれ―ッ!

違う! それ(・・)は俺じゃないッ! 止まれ、アンドレイ!!

必死で叫ぶ、

アンドレイッッ!!!

少年の後ろ姿が、霧に呑まれた。

蹄の音が遠のいていき―消える。

…………

一人残されたケイは、ただ、呆然と立ちすくんだ。

……。!

数秒、あるいは数十秒。はっと我に返る。

追わなければ、と思った。

正直、気味の悪い、この得体の知れない状況に、ログアウトするなりキャラチェンジするなりしたい気分だったが。

このまま放っておけるほど、アンドレイは付き合いの浅い相手ではなかった。

何かがヤバい、と。ケイは、直感していた。

くそっ、アンドレイの馬鹿野郎

手間かけさせやがって、と毒づきながら、手綱を引いて馬に飛び乗ろうとした。

……?

だが、引いた手綱が全く動かない。首を傾げたケイは、手綱をたどるようにして視線を動かし、馬に目をやる。

……ミカヅキ? どうした

名を呼びながら、異変を感じたケイは愛馬に向き直った。

手綱を握ったまま、乗騎―ミカヅキの顔を見るも、ミカヅキはまるで剥製にでもされてしまったかのように、微動だにしない。

……おーい、ミカヅキ?

ひらひらと、ミカヅキの顔の前で手を振る。普段なら、飼い主であるケイをトレースするように、首なり目なりを動かすはずだ。

が、ミカヅキは真っ直ぐ前を見たまま、全く動かなかった。

……どうなってんだ

バグか? とケイはため息をつく。

やっぱりログアウトしようか、とさえ思った。

なんだかもう、この場をすぐに去ってしまいたい、と。

ぶるるっ

そう思った矢先、まるでエラーを起こしたコンピュータが再起動を果たしたかのように、ミカヅキが鼻を鳴らして首を振った。

おお、戻ったか、良かった

ぶるるっ、ぶるるっ

ほっと一息つくケイをよそに、ミカヅキは鼻を鳴らす。

ぶるるっ、ぶるるっ、ぶるるるるっ

すぐに、何かがおかしい、と気付いた。

ぶるるるるっ、ぶるるるるるるるっ

頭をぶんぶんと振りながら、ミカヅキは鼻を鳴らし続ける。

ぶるるるるるるるるるるるるるるるるる―

終いには、まるで壊れた玩具のように、ブレて見えるほど激しく首を振り回し、そのいななきはまるでエンジン音のようで、

……ミ、ミカヅキ?

恐る恐る、ブレまくる顔に手を伸ばし―

ぴたり、と。

ケイの手が触れる寸前で、ミカヅキはその動きを止めた。

……

ミカヅキの目が、すっとケイを捉え、その口が開き、

ミ” カ” ツ” キ” ィ

ひび割れた低音の声が、

うおっ!?

ぎょっとしたケイは、思わず後ろに飛び退ろうとして、足をもつれさせその場に尻もちをつく。

…………

意味が分からない。唖然としたまま、阿呆のように口をぽかんと開けるばかりで、言葉は何も出なかった。

普通、ペットは喋らない。

当たり前だ。所詮は馬。

人間の声は出ないし、出せない。

出せない、筈だった。

…………

剥製のようなミカヅキの顔が、真正面から、こちらを見つめる。

ガラスのような目の玉が。

じっと、ケイを見つめたまま、動かない。

ぐわんぐわんと、視界が揺れるような。

口の中が、からからに乾いていくような。

そんな錯覚が、ケイを襲った。

……ぶるるっ

どれほどの時間が経ったか。

再び、鼻を鳴らしたミカヅキは、ケイからふっと目を逸らした。

そのまま踵を返し、主人であるケイを置いて、霧の中へと駆け去っていく。

だんだんと遠ざかる蹄の音は、やがて聴こえなくなった。

静寂。

…………

呆気に取られたケイだけが、ひとり残される。

かひゅーっ、と。

ケイの喉が、大きくかすれた音を立てる。

ようやく肺機能が復活したケイは、このとき初めて、己が呼吸を止めていたことに気が付いた。

しばし、尻もちをついたまま、浅い呼吸を繰り返す。

静謐な霧の世界に、ぜえぜえと喘ぐような声が、響いて、吸い込まれて、消えていった。

……落ち着け。……落ち着け、落ち着け……

己に言い聞かせるように、小さく呟きながら。

胡坐をかいて座り直したケイは、胸に手を当てて、ゆっくりと深呼吸をした。

ようやく心臓の動悸が治まったあたりで、ふう、と大きくため息をつき、頭痛をこらえるように眉間を抑える。

黙考すること、数秒。

……。落ちよう

ケイは、この状況から逃れ去ることを選択した。あまりにも、気味が、悪かった。

顔面蒼白のまま、ケイはログアウトするため、思考操作でメニュー画面を呼び出そうとした。

しかし、いつもなら特に意識せず実行していた操作が、上手くいかない。

何度メニューを呼び出しても、出てこなかった。

……なんで出てこないんだよ

ぼそりと、呟く。

まさかこのまま。

ログアウトできずに―。

ふと、そんな考えが脳裏をかすめる。背筋に、ぞっと冷たいものが走った。

誰もいない。

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