……うむ。めっちゃ痛い。だが目は覚めない。従ってこれは夢ではない。Q.E.D.(証明終了)
しばらく抓って真っ赤になった右頬から手を離し、真面目くさった表情のまま言う。
……。少なくともケ(・)イ(・)の(・)夢ではない、ということが証明されちまったか
呆れ顔でそれを見届けたアイリーンは、 夢オチなら気が楽だったんだがなぁ と残念そうにしながら、腰の帯から投げナイフを一本抜き取った。
おい、ナイフ使うのか?
それを見て、驚きの声を上げたのはケイだ。まるで注射でもするかのような気軽さで、アイリーンは左腕の袖をまくり始めていた。
まあな。オレ、……夢の中で何回か、痛い思いはしたことあるけど、結局最後まで目は覚めなかった。どうせやるなら、これくらいは思い切らないとダメだろ
いやいやいや、だからと言ってナイフはやりすぎだろう、傷が残ったらどうするんだ。力が不安なら俺が抓ってやるぞ? 痛いぞ?
……いや、別にいいよ。遠慮しておく
鬱血して紫色に腫れ始めているケイの右頬を見て、アイリーンは静かに遠慮した。
まあそれに、今更傷なんてな……
小さく呟きながら、左腕の内側に軽くナイフを押し当てようとする。が、
…………
どうした?
そのまま、腕を凝視して、動かなくなってしまった。
いや、……なんでもない
怖気づいた、というわけではないらしい。袖をそっと元に戻したアイリーンは、左手のグローブを外して、躊躇うことなく手の平にナイフの刃を這わせる。
……ッ
……どうだ?
メッチャ痛い。血も出てきた
ぽたり、ぽたりと。
アイリーンの手から、赤い滴が零れ落ちる。
さてさて、困ったぞケイ。これで夢オチの可能性が完全に消えた
まあ、流石に夢じゃあないだろとは、最初から思っていたがな……。というかそれ大丈夫か。お前かなりざっくり切(や)ったんだな
う、うん……正直思ったより切れた。腕やめといて良かったかもしれない
アイリーンの手の平の皮膚は、数センチにわたってぱっくりと切れていた。肉にきれいな切れ目が入り、じわじわと血が滲み出る様子は見るからに痛そうだ。
ちょっと待て、たしか包帯がポーチに……
いや、いい。POT(ポーション)を試してみたい
腰のポシェットに手を伸ばすケイを止めて、アイリーンは岩陰に向かって チッチッチッ と舌を鳴らした。
廃墟の、苔生した石造りの壁。柔らかな地面の上に、二頭の馬が寝転がっていた。
ケイの愛馬『ミカヅキ』と、アイリーンの乗騎『サスケ』だ。
アイリーンの舌打ちの音を聞いて、サスケの方が 呼んだ? と言わんばかりにつぶらな瞳を向けてくる。
アイリーンによると、彼女が草原で目を覚ましたときには、サスケが隣に寝転んでのんびりと草を食んでいたらしい。
気が付けば草原のど真ん中、自分一人と馬一頭。
そんな状態で、ケイの姿も見当たらず、最初はかなり動転したそうだが、そこへミカヅキが颯爽と駆けてきて、ケイが倒れている岩山のそばまで誘導してくれたそうだ。
そういう意味で、ケイもアイリーンもミカヅキに多大な恩があるわけだが、当の本人(?)はクールに決めておりまるで気にする風もない。今もアイリーンには見向きもせずに、もっしゃもっしゃと草を咀嚼していた。
サスケに歩み寄ったアイリーンは、鞍に括り付けたままの革袋から、ハイ・ポーションを一瓶取り出した。
さーて、どうなるかな、っと。ゲームなら、シュワワッと一瞬で治るんだけど……
焚き火に戻ってきて平石の上に座り直し、アイリーンが片手で器用にコルクを抜く。
そぉっと、手の平に向けて瓶を傾ける様を、ケイも興味津々に覗きこんだ。
とろみのある水色の液体が垂れて、傷口に触れる。
その瞬間。
ジュゥゥッ!! と鉄板が肉を焼くような音を立てて、一気に傷口が泡立った。
ヴぉにゃ―ッッ!!!
奇声を上げてアイリーンが飛び上がる。その手から空中に放り出されたポーションは、ケイが咄嗟にキャッチした。ふたがなかったので、少し中身がこぼれてしまったが。
ぁ―ッ! ~~~ッッ!!!
悲鳴を振り絞ったあとは声すら出せず、手を押さえて悶絶するアイリーン。尋常ならざる苦しみっぷりに、 おい、大丈夫か と歩み寄ったケイは、少し逡巡してから、その背中をゆっくりとさすってやった。
ナイフで手を切ったときより、よほど痛そうに見えるのだが、気のせいだろうか。あの傷口の泡立ち方は、オキシドールでの消毒を彷彿とさせた。ケイが知っているゲーム内のポーションは、傷口に振りかけるとシュワワッと爽やかな音がして、傷が治って終わりだったのだが。
時間にして数十秒。
冷や汗を垂らして、ぜえぜえと喘ぐアイリーンの背中をさすりながら、
……落ち着いたか?
……うん
それで、どんな感じだ?
ヤバい。ものすごく痛かった
それは見れば分かる。俺が聞いてるのは傷の方だ
お、おう
恐る恐る、といった風に、アイリーンが手を広げると。
治ってる、……けど
……。傷は、残るんだな……
うん……
傷口は、ふさがってはいたが、新しい皮膚が白い線のようにくっきりと浮き出て見えていた。
ポーションといえば、傷すら残さずに完治、というイメージだったのだが。
その場になんとも、微妙な空気が流れる。
……まあ、まあ。まだ手の平で良かったじゃないか。あんまり目立たないし
そ、そうだな
もう痛くはないんだろ?
ああ。ちょっと肉が張る感じはするけど、問題ない。……やっぱりちょっと深く切りすぎちまったか
左手を握ったり広げたりを繰り返しながら、アイリーンが小さくぼやく。
そんな彼女をよそに、焚き火を挟んだ対面に座り直しながら、ケイは手の中のポーションの瓶を興味深げに観察していた。
……これ、飲んだらどうなるんだろうな
そりゃあ、体力が回復するだろう。……多分
ケイの呟きに、答えるアイリーンの言葉が尻すぼみになる。
…………
おいやめろ、期待のこもった目で見るな!
アイリーン。お前はデキる奴だと、俺は信じている
オレはモルモットじゃねえ!
チッ
『チッ』じゃねえよ! 人体実験はもうごめんだぞ!
はぁ。意気地のねえ野郎だな……
意地はもう張っただろっ次はテメェのターンだ!
膝をぺしぺしと叩きながら、ぷんすか怒るアイリーン。なんだかんだ言いつつも 次はケイが体を張るべき というアイリーンの主張はもっともだったので、毒見(あじみ)はケイが担当する運びとなった。
…………
どうだ?
ポーションを少しだけ口に含み、渋い顔をするケイに、心なしかワクワクした表情でアイリーンが問いかける。
うむ……そうだな。体力が回復してるかどうかは、正直よく分からない。だが、心なしか体が温まって、手足の冷えが幾分か解消された気はする。あと、石の上に座りっぱなしで痛くなってた尻が、楽になった。ひょっとすると、腰痛や肩こりにも効くのかもしれないな
冷え症のジジイのレビューかよ!! そうじゃなくて! いや、それも大事だけど! 味はどうなんだ味は
……昔VRショップで試食したリコリス飴に似てるな。あれから甘み成分を抜いて、ミントとショウガをぶち込んだらこんな風味になるんじゃないか? あとちょっと苦い。それに何故か知らんけど炭酸っぽい、口に入れた瞬間シュワワッてなる。とろみのある炭酸ってどうなんだコレ
聞くからに不味そうだな
ああ。不味い。凄く不味い
しかも舌の奥の方に、エグい後味がずっと残るタイプの不味さだった。渋い顔のまま、ケイはポーションの瓶にふたをはめ直す。
一方のアイリーンは、 お前も試してみるか? とケイが話を振ってこないか、戦々恐々と身構えていたのだが、このポーションはそんな風に茶化す気分にもなれないほど不味かった。
……さて、アイリーン
ポーションの瓶を弄びながら、ケイはおもむろに口を開く。空気の変化を察したアイリーンは、小さくため息をついた。
……楽しい現実逃避(おしゃべり)の時間は、もう終わりか?
ああ。残念だがな。そろそろ真剣に考えないとヤバい
すっかり暗くなってしまった夜空を見上げながら、ケイは真面目な顔を作る。
アイリーン。ついさっき気付いたんだけどな。ここがどこなのかを考える上で、重要な手掛かりになるものを発見した
いつの間に? 何だ、それは
あれだ
アイリーンの問いかけに、ケイは頭上を指し示した。
ハスニール 、 ワードナ 、 ニルダ
空をなぞるように、指を動かしながら、
ドミナ 、 カシナート 、それに イアリシン
それは、何かの名前のようであった。
……何の話だ?
小首を傾げるアイリーン。対するケイの答えは、簡潔だった。
星だよ
遥か彼方、無数に輝く星々に視線を合わせたまま、ケイは答える。
星座が……星の配置が、 DEMONDAL の世界と全く同じなんだ、ここは
ケイの言葉に、思わずアイリーンは夜空を振り仰ぐ。
しかし、満天の星空を眺めても、それはアイリーンにとってただの『星空』に過ぎず、地球のそれとの違いなどさっぱりわからなかった。
マジなのか?
ああ。あの緑色の星が ハスニール 、それを中心に構成されるのが”栄えある名剣”座だ。その隣の赤色の星が ワードナ 、周りを囲むオレンジ色の星々と”神秘の魔除け”座を形作ってる。あの青色の星は ニルダ で、一直線に続く星と共に”守護の御杖”座を―
ああ分かった分かった、もう結構だ。……でもなんでそんなに詳しいんだ、公式のフォーラムでもwikiでも、星座なんて見たことねえぞ
気にしたこともなかったから、見逃しただけかもしれねえけど、と言いながらアイリーンは星空に目を凝らす。
無理もない。隠しクエストで手に入る情報だからな。星座も、その意味も―“占星術”の存在に至っては、知ってる奴は魔術師より少ないだろうな
“占星術”? ってかおい、隠しクエストってなんだ
“ウルヴァーン”から”ダリヤ平原”を抜けて北に行くと、森があるだろう? その奥に小屋で一人暮らししてる婆さんのNPCがいるんだが、ポーションなり薬草なりで腰痛の治療をしてやると、その礼代わりに教えてもらえるんだよ。実は、イベントやら天候やらは、星と連動してるらしくってな。ゲーム内で俺の天気予報が良く当たってたのは、そういうわけだ
なんだって!
たしかに、ケイの天気予報は良く当たっていた、とアイリーンは振り返る。てっきり風向きや雲の様子から予想しているのだろう、と思っていたのだが、まさか星にその秘密があったとは。
薄情だぜケイ! なんでオレにも教えてくれなかったんだよ!
憤るアイリーンに、ケイは心外そうな顔で、
教えようとしたぞ? でもお前が『興味ない』って断ったんだろうが
えっ
思わずアイリーンは固まった。慌ててそのことを思い出そうとするも、ケイに出会ってからの二年間、占星術に関する話題など全く思い当たる節がない。
……マジで? 身に覚えがねえんだけど
一年ぐらい前だったか。“ウルヴァーン”の酒場で俺が『おいアンドレイ、神秘的な星々の法則に興味はないか? 大いなる宇宙の真理がお前を待っているぞ』って言ったら、『興味ない、そういうのは他を当たれ』って……
明らかに誘い方が悪(ワリ)ぃよッ!! 新興宗教の教祖かテメェは!! ああ思い出したさ、あんときか! またぞろお前の分かりづらいボケだと思ってスルーしたんだよッそういうことだったのかチクショウッ!
毒づきながら、アイリーンがガシガシと髪をかきむしる。
はぁ。まあいいや。それで?
……俺は、
ケイは、少しばかり躊躇の色を見せたが、
俺は、ここが DEMONDAL の世界なんじゃないか、と思う
はっきりと、言った。
……そいつはまた、飛躍したな。つまり何か、ここは DEMONDAL にそっくりな、異世界ってわけか?
言い換えれば、そういうことだ
……。最近のANIMEでそういうやつがあった気がするな。ゲームをやってる最中に、ゲームの中の世界にト(・)リ(・)ッ(・)プ(・)しちまう、ってストーリーだ。ケイも観たか?
いや。あいにくと、アニメはあんまり詳しくなくてな
へっ、ロシア人の方が日本人より詳しいってのも、変な話だな。まあ、いい。それでだ、そんなトリップが実際にあるとなると―トリップしちまってるのは、手前の頭の方じゃないか、ってオレは思うわけだ。告知なしに神アップデートが来ていて、リアリティが劇的に向上、同時に起きたシステム障害でログアウトできない……って考えた方が、よほど現実味があるぜ