しかし、それも一瞬のこと。隊商の面々はすぐに気を取り直して、 そんな筈はない とケイの考えを一笑に付した。
深部(アビス) の獣が、こんな場所に出るわけがない。いくら森を切り拓いたと言っても、ここは街道に近い人里だぞ
疑わしげなエリドアに、ケイは頷きながらも、
確かに、普通はこんな所までは出てこない。しかし基本的に、―これは”大熊”に限った話じゃなく、全ての熊に言えることだが―、連中は獲物への執着心が強いからな。一度食うと決めたら、何処までも追いかけてくる。
御宅らが仕留めた『緑色の獣』は、特徴からして 深部 に棲む”イシュケー”というモンスターだ。肉が美味く内臓は栄養価が高い。おそらく、“大熊”に追われて逃げてきたんだろうな
じゃ、じゃあ……村が襲われたのは、俺たちがイシュケーを殺したから、なのか?
うーむ。いずれにせよ、近くまでやってきていたのは事実だ。遅かれ早かれ、同じ結果にはなった、かも知れないな
そうか……近くにまで来られた時点で、運の尽きだったのか……クソッ
エリドアは眉根を寄せて、悲痛な表情で嘆いている。ケイとしても、同情の念は禁じえないが、少なくともイシュケーが村襲撃の一因となったことは否定のしようがない。
……理屈は分かったが、ケイ。“大熊”ってのは、小山ほどもある巨大なモンスターじゃないのか? 話を聞いた限りだと、今回の奴は小さすぎるように思えるんだが……その、『“大熊”にしては』、という意味でだが
完膚なきまでに粉砕されている村の倉庫を見やりながら、それでも信じきれない様子のダグマル。 小山ほどもある という表現を聞いて、ケイは思わず苦笑した。
“大熊”の成獣は、確かに見上げるほどにデカいが、それでも体長7mは越えないよ。それでも充分デカいっちゃデカいが……ここを襲ったヤツは、大きさからして、まだ巣立ったばかりの若い個体だろう。老練な”大熊”は自分の縄張りから出て来ないし、そもそも獲物を逃がすようなヘマはしないだろうからな。それにさっき、暗赤色の獣の毛を見つけたが、この色も”大熊”特有のものだ
まるで、見たことがあるような言い方だな?
……まあな
半信半疑なダグマルの言葉に対し、ケイは小さく肩をすくめるにとどめた。
兎も角、いずれにせよ相手は一撃で壁をぶっ飛ばすような化け物だ。逃げるにしても戦うにしても、早目に決断することをお勧めする。連中は夕暮れや朝方の、薄暗い時間帯に一番活発に動くからな
ケイが茜色に染まる空を見上げながらそう言うと、皆はいよいよ困った様子で顔を見合わせる。
私は……隊商の責任者として、リスクは極力避けたいのだが、さりとて村の人々を見捨てたくもない
先ほどから、隊商の皆と村人たちとの間で板挟みになっていたホランドが、ぽつりと率直な考えを漏らした。
ケイ、意見を聞かせてくれないか。君はどうしたらいいと思う
そうだな……
しばし、皆の注目を浴びながら、考えを巡らせる。とはいえ、方針は既に決まっていた。アイリーンに目で問いかけると、真剣な顔で頷き返す。
……俺は、戦うことを提案する
当然のように、周囲はざわついた。 危険だ! と騒ぐ商人たちを、ホランドがすかさず手で制して黙らせる。
理由は?
逃げるのが難しい、というよりもむしろ危険だ。熊は鼻が効くし、荷馬車は暗い中だと殆ど身動きが取れないだろう? 夜、それも移動中に”大熊”に襲われるってのも、ぞっとしない話だ。それならばまだ、『来る』と分かっているこの村で迎撃した方がやり易い
う~む……。それは尤もだが
馬を二、三頭、囮として村に置き去りにして、その間に逃げるという手も考えたがな。馬やら馬車やらが犠牲になる上に、これは時間稼ぎにしかならない。人を食らったということは、人の肉の味を憶えたということだ。遅かれ早かれ、腹を空かせれば隊商の匂いを辿って追ってくるだろう。となれば次に被害を受けるのは、北の村か、あるいはユーリアの町か……いずれにせよ、戦いは避けて通れない。他の奴らになすりつけることは出来るかも知れないが
至極あっさりとした口調でえげつないことを言うケイに、アイリーンは苦笑し、ホランドは渋い顔だ。彼としても、村人は見捨てたくないが、隊商の荷馬車を犠牲にするわけにもいかないだろう。さりとて、他の人々になすりつけるのも頂けない。
しかし、戦って勝てる相手か?
今までずっと、集団の隅で黙って話を聞いていたアレクセイが、おもむろに厳しい表情で疑問を呈する。
おれは、東の辺境で何度か『大物』狩りにも参加してきたが、それは大がかりな罠と数十人規模の人手、そしてよく練られた作戦があって初めて成功するものだったぞ。入念な準備を経ても、何人もの犠牲者が出ていたのに、ましてや今回の相手はあの”大熊”だ。現状のおれたちの戦力でロクな準備もなしに、どうにか出来るのか?
出来るぜ
ケイに代わり、アイリーンが答えた。
特に”大熊”は、オレの魔術と相性がいい。そして、ケイの弓は”大熊”の皮を貫通する。時間はかかるかもしれないが、オレたち二人だけでも倒せる相手だ
断定的に、そしてどこか誇らしげに、アイリーン。
その言葉通り、魔術が使える時間帯ならば、“大熊”はアイリーンにとって御しやすい相手といえる。影を操り纏わりつかせることで、一方的に視覚を奪い去れるからだ。あとは盲滅法に暴れる”大熊”を、ケイが遠距離から削り殺せばいい。
例え生命力の強い”大熊”でも、心臓や脳を破壊されれば一撃死もあり得る。暴れている間に村の施設に多少被害が出るかもしれないが、残りの者は遠巻きに見守ってさえいれば、巻きこまれることもないだろう。相手が群れていると魔術の対象が増え、魔力と触媒の都合上そうそう使えないが、この卑怯極まりない戦術は、単体相手ならば殆ど全てのモンスターに有効だ。
しかし、『目潰し』が通用しない敵も、やはり存在する。それが”森大蜥蜴”を含む爬虫類系のモンスターだ。熱感知器官を有する彼らは、元々目が悪いことも相まって、視覚を封じても正確な攻撃を繰り出してくる。
そういった側面から、今回の相手が”森大蜥蜴”ではなく”大熊”だったのは、ある意味で僥倖と言えた。
なるほど、魔術があったか……
どうにかなるかも知れんな……
アイリーンの魔術に絶大な―過剰とすら言える信頼を置いている隊商の面々は、幾らかの希望を見出したようで表情を明るくする。対して、事情を知らぬ村人たちは、大言壮語する金髪の少女とそれに納得する商人たちを見て、むしろ不安の色を濃くしていた。
この娘は何を言ってるんだ? あの化け物をたった二人でだと?
えっへん、と胸を張るアイリーンに、胡散臭げな目を向ける村人たち。
いや、このお嬢さんは、実はこう見えて実は魔術師でな
それも、大規模な麻薬組織を一人で壊滅させた腕利きだぞ
すかさず商人たちが知った顔でフォローを入れるが、それでも怪しむような雰囲気は消えない。
ま、百聞は一見にしかずと言う。お嬢ちゃん、一丁かましてやりな!
先ほどまでの怯えは何処へやら、調子に乗った商人の一人がアイリーンを煽る。一体何をかましてやれというのか。しかしアイリーンもそれに乗っかり、
そうだな。とりあえず、熊野郎の位置でも探ろうか。今どこに居るのかが分かれば、作戦も立てやすいだろ?
そう言って、ケイの手から”大熊”の毛を拝借し、逆の手で胸元から触媒を取り出す。
Mi dedicas al vi tiun katalizilo.
とぷん、と足元の影に、水晶の欠片が呑み込まれる。
Maiden krepusko, Kerstin. Vi sercas la mastro, ekzercu!
ぶるりとアイリーンの影が震え、真っ直ぐな漆黒の線となって森の方へ伸びた。 追跡 の魔術。村人たちは目を丸くして、商人たちはワクワクした様子で、ケイは無表情で、それぞれ見守る―
―って、あれ?
しかし、すぐに人型に戻った影を見て、アイリーンが間抜けな声を上げた。アイリーンの足元で、お手上げのポーズを取って見せた影絵の淑女は、近くの地面に指で字を描く。
『 Antau okuloj 』
浮かび上がった文字に、ケイとアイリーンは同時に顔を引き攣らせた。
なんだ? どうした?
何て書いてあるんだ?
皆の質問に答えるよりも早く。
ズン、と。
森の奥から、重い音。
どうやら、お喋りが過ぎたようだな……
冷静なケイの呟きをよそに、壁の修復をしていた村人たちが、この世の終わりが訪れたかのような顔で村の中に戻ってくる。
ズン、ズンと近づいてくる地響き。そこに、木々の倒れるメキメキという音が混ざる。
……ご本人のお出ましだぜ
はっ、と笑みを浮かべるアイリーン。
森の暗闇から、赤い瞳の化け物が、ぬっと姿を現した。
―デカい。
その場に居合わせた者の思考は、その一言に集約される。
暗赤色の毛皮。首周りの白い斑点模様。盛り上がった肩の筋肉。口から突き出た鋭い牙。一本一本が草刈り鎌ほどもある長い爪。
体長は、優に4mを越えるだろう。若い個体―とケイは言ったが、『森の王者』と称されるに相応しい力強さが、周囲の空間に滲み出ている。
村の手前で立ち止まった”大熊”は、人間たちを睥睨するかのように目を細めた。
そして、グオオオオッと威嚇するかのように、凄まじい声量で、吠える。
空を圧する轟音に、護衛の戦士は震え上がり、商人と村人は腰を抜かし、荷馬車の馬たちが恐慌状態に陥った。
下肢にぐっと力を込めた”大熊”は、さらなる咆哮を上げながら、土煙を巻き上げて村に突撃する。木材で修復されかけていた壁の穴を文字通り木っ端微塵にし、人間たちには目もくれず、目指すは村の奥。並べられた荷馬車と、それに繋がれた馬達。
獣は、腹を空かせていた。
そして昨日喰らった、獲物の味を思い返していた。
―貧弱な二足歩行の猿よりも、肥え太った四足獣を。
なんと素晴らしいことか、今日の狩り場にはご丁寧にも、ずらずらと旨そうな獲物が並べられている。歓喜の咆哮を上げながら、“大熊”は走った。
それに対し、ケイは動く。
ピィッ、と吹き鳴らされた指笛に、近くの小屋の陰にいたサスケがいち早く馳せ参じる。その背に飛び乗りつつ、しばし右手を彷徨わせたケイは、鞍の矢筒から一本の矢を抜き取った。やたらとカラフルな装飾の、ややぼってりとしたデザイン―矢職人モンタン特製の『鏑矢』だ。
一息に引き絞り、打ち放つ。
ピューィピーッピロロロロと賑やかに、“大熊”の鼻先に鏑矢が飛来する。隠すつもりのない一撃、身を刺すような殺気、思わず反応した”大熊”は反射的に前脚で矢をはたき落とした。
折り砕ける鏑矢、しかし獣の足は止まる。胡乱げな赤い視線の先、そこには褐色の馬に跨る弓騎兵。自らの威容に怯えもせず、ただ醒めた目を向けてくる一人と一頭。
その、あまりにも冷静な態度が、森の王者の誇りに傷を付けた。先ほどの鋭い殺気も、あるいは十二分に脅威であったか。彼は、目の前の小さき者を、『敵』であるとはっきり認識した。
改めてケイに向き直り、“大熊”が全身の毛を逆立たせる。後ろ足で立ち上がり、万歳をするかのように両手を天に掲げた。それは、己の身体をさらに大きく見せるための威嚇行動。がぱり、と真っ赤な口腔が開かれ、
―!!!
再び、鼓膜が破れそうな咆哮。幾人かの村人が気を失い、隊商の馬が逃げ出そうと暴れ始める。
しかしそんな中、ただ一頭、サスケだけが”大熊”の目の前で平然としていた。
あるいは、彼はよく知っていたのだ。
自分の背に跨る主人の方が。
吠えるしか能の無い獣より、余程おっかないということを―。
サスケの背で、ケイは弓を引く。そこにつがえられた、青い矢羽の矢。モンタンに特注した、ロングボウ用の『長矢』だ。
“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“の最高の威力を引き出すために、全力で弦を引き絞ったケイは、冷徹な目で”大熊”を睨む。
ぴぃんッ、と冴え渡った空気の中、周囲の者たちは、ケイと”大熊”の間に引き結ばれた一本の線を幻視した。
解き放つ。
銀光が迸る。
真っ直ぐに、しかし”隠密(ステルス)“により一切の殺気を持たぬそれが、“大熊”の左胸に吸い込まれた。
―オオオォォ!?
驚愕とも困惑ともとれる叫びと共に、胸に手を当てた”大熊”が大きくよろめく。そしてそのまま転がるようにして、森の方へと遁走し始めた。