が、数歩と走らぬうちに、その脚からふっと力が抜け、顔面から地面に崩れ落ちる。
ズ、ズンッと地面を揺らす音。呻き声を上げながら、もぞもぞともがいた”大熊”はしかし、ごぽりと鮮血を吐き出した。徐々にその動きを弱々しいものにして、やがて完全に動きを止める。
ふむ、
用意していた第三の矢を、矢筒に仕舞いながらケイは呟く。
―どうやら、運良く心臓を破裂させたみたいだぞ
まるで他人事。ぽかんと口を開けていた皆の頭に、その言葉が沁み入っていく。
そして―時間と共に、それが理解へと変わる。
おお……おおおおお!
最初に快哉の叫びを上げたのは、護衛の戦士の一人だった。そして理解の追いついた者から順に、頬を紅潮させて叫び始める。おっかなびっくりで”大熊”の死体に近づくホランド、未だ呆気に取られたままのダグマル、他の村人と抱き合って涙を流すエリドア、 たった一矢で”大熊”を仕留めるなんて、聞いたことがねえぞ! と大興奮のアレクセイ。
ただ、熱狂する面々をよそに、
……オレの出番ねーじゃん
アイリーンは一人、ケイに向けて苦笑いしていた。
†††
その後は、ケイの指示のもと、“大熊”の解体タイムとなった。
ここ一番の脅威は駆逐したものの、村の壁に大穴が開いていることには変わりないので、盛大に篝火を燃やしながらの作業だった。毛皮は極力傷を付けないように剥ぎ取り、魔道具の材料となる目玉をくり抜き、牙や爪も採取しつつ、薬の材料になる一部の内臓を保存する。元が巨体なだけに作業は困難を極めたが、村人と護衛の戦士と商人見習い総出で力を合わせ、何とか無事に終わらせることが出来た。
生ける伝説とも言える”大熊”の素材。特に毛皮は、莫大な利益を生むだろう、というのがホランドの見立てだった。
こんなに状態の良い毛皮があるか! 剥製にしたらとんでもない値がつくぞ……!
ウルヴァーンに着いたら期待していてくれ、とホランドは興奮気味だ。
今回、この”大熊”はケイが独力で仕留めたものなので、そこから生まれる利益はケイが独占する運びとなったが、それに異議を申し立てる者は一人もいなかった。熊の肉を鍋にして焚き火を囲みつつ、商人たちが酒を振るまい、一同は夜遅くまで宴会と洒落こんだ。
そして、宴もたけなわになった頃。
皆に英雄として持ち上げられ、しこたま酒を呑まされたケイは、べろんべろんに酔っ払ってテントの中に寝転がっていた。
あ~、もうダメだ~、呑めない、ぐるぐる回る~
ケイはだらしないなーもうダウンかよ
顔を真っ赤にしてうんうん唸るケイの隣で、こちらも呑み過ぎて少々顔の赤いアイリーンが、くすりと頬をほころばせた。
……いやぁ。それにしてもケイ、よくやったな
う~ん。まさかな~俺も、一撃で倒せるとは思わなかった~。運が良かったな~
にへら、と上機嫌な笑みを浮かべるケイ。酔っ払ってはいるが、その言葉は、紛れもなく本心からのものであった。
あそこでなぁ~、ヤツがトチ狂って威嚇してきたからなぁ、やりやすかった~
あんなおいしいシチュエーション、滅多にないよなぁ
だなぁー、そうじゃなきゃ、心臓なんて狙い撃ちに出来んよ~
最初に放った鏑矢のように、普通に矢を放っただけでは、空中ではたき落とされてしまうだろう。“大熊”には、それが出来るだけの身体能力と反射神経がある。しかし今回の”大熊”はまだ若く、経験が足りていなかった。仮に老練な個体であったならば、飛び道具で攻撃してきたケイを前に、隙を見せつけるような真似はしなかったであろう。
半笑いを顔に張り付けたまま、しばしテントの布地を見つめていたケイだが、不意に 決めた! とアイリーンに向き直る。
なあ、アイリーン。俺、決めたよ
うん? 何をだ?
俺は、狩人になろうと思う!
突然のケイの宣言に、アイリーンは目を瞬かせた。
……っていうと?
今回みたいに、害獣に困っている人たちを助けて回るのさ
どうだ、素敵だろ、と言いながら、ケイは子供のように無邪気に笑う。
―満ち足りた気分だった。
今までの人生を振り返って、ここまで他人に褒められ、感謝されたことがあったであろうか、とケイは酔った頭で考える。
今までは、どちらかというと、ただ生かされているだけの生だった―。
それを後生大事に抱えて、まるで消えかけの蝋燭の火を守るかのように、いつ吹くとも知れぬ突風に怯えながら、ケイは生きてきた。
しかしただ漫然と、平和と安全の中で、それを守るだけで朽ちていく生は、果たして生と呼べるのか。
―それはあるいは、死んでいるのと大して変わらぬのではないか。
それに対して今はどうだ―と、ケイはそんな風に考える。こんなにも充実している。輝いている。世界がきらきらと祝福してくれているかのように。
リスクを抱えて、赤の他人の為に自身の身を危険に晒そう、などと、少し前の自分なら思いもしなかっただろう。だが今は、『命を賭ける』という言葉に、陶然とするような魅力すら感じていた。
みんなに褒められて、感謝されて、生きていけるなんて……素敵じゃないか
承認欲求―という言葉が、脳裏をかすめた。だが、構いやしないと思った。それの何が悪い。どうしていけない―。
うん。いいと思う。本当に、素敵だと思うよ
優しい口調で、アイリーンは肯定した。にこにこと、慈しむような笑みとともに。
ひどく強烈な眠気に襲われながら、ケイは微笑み返した。
だろう? ……だからさ、アイリーンも、……応援してくれ
うん。応援する
……ありがとう
笑みを浮かべたまま、吸い込まれるようにして、ケイは眠りに落ちていった。
ふふっ
愛おしげに、その寝顔を見守るアイリーン。
……おやすみ、ケイ
そっと手を伸ばして、優しく、ケイの頭を撫でた。
†††
とある幌馬車の荷台で、幼い少女は布団にくるまっていた。
ぱちぱち、と篝火の火が弾ける音。少女は手の中で鏡を弄びつつ、幌に炎の明かりを反射させて遊んでいた。
―と、鏡の中に、長衣を羽織った老婆の姿が映り込む。
おや、エッダや。まだ眠ってないのかい?
……おばあちゃん
よっこらせ、と荷馬車に這い上がってくるハイデマリー。鏡をそっと枕元に伏せながら、エッダは小さく寝返りを打った。
ふふ。だめじゃないか、それで遊んじゃあ
優しくたしなめたハイデマリーが、鏡を取り上げて荷台の箱の中に仕舞う。
ホランドに見つかったら怒られるよ
……気を付けるから大丈夫だもん
これこれ
ふてぶてしいエッダに、思わず苦笑するハイデマリー。エッダの隣で布団にくるまって、長い溜息をつく。
……今日は、本当に驚いたねぇ
ねー!
エッダは目をきらきらと輝かせている。
ケイのおにいちゃん、すごかった!
―“大熊”が姿を現したとき、エッダは幌馬車に乗っていた。
こちらに全力で向かってくる化け物の姿に、気絶しそうなほど恐怖した。
だが、そうであるからこそ、“大熊”の前に立ちはだり、たったの一矢で仕留めてしまったケイが英雄のように見えた。
―いや。
間違いなく、エッダにとって、ケイは物語の中の英雄そのものであった。
全くだね。彼は本当に、大した人物だよ……
同じく、命拾いをしたハイデマリーも、口にこそ出していないがエッダと同じ感想を抱いていた。
…………
しばし、沈黙が続く。エッダは興奮した様子で、何度も何度も寝返りを打っていた。
……眠れないのかい?
……うん。どうしても、今日のことかんがえちゃうの
幼い心に、ケイのおにいちゃん、かっこよかったな、という考えが浮かび上がる。
そして次に、アイリーンの笑顔が浮かび、それは儚くも脆く崩れ去った。
……ね、おばあちゃん。何か、お話してよ
お話、ねえ
エッダのリクエストに、ハイデマリーは ふむ としばし考え込んだ。
……そうだね。それじゃあ、『現身の鏡』の伝説を、お話してあげようかね
うつしみのかがみ?
そう。これは不思議な鏡と、とある男の物語さね。……昔々あるところに、一人の男が居た―
ハイデマリーは、語り出す。
その男はとても体が弱くて、いつもベッドに寝てばかりいた。ほとんど動くことも出来なかった彼は、英雄の話が大好きで、竜を倒した騎士や、戦争で活躍した戦士の話を、家族にせがんでばかりいた。
だけどある日、彼の暮らしていた国で本当に戦争が起きて、生活は苦しくなり、家族が彼に構う時間は、だんだんと少なくなっていった。暇を持て余した彼は、仕方なく日がな一日、空想をして楽しんで、いつしか、夢の中で遊ぶようになった。
夢の中では、彼は英雄だった。戦争で活躍する立派な戦士だった。強く、勇敢で、今の自分とは、似ても似つかぬほど逞しい身体。自分はそうであると思い込んで、彼は一日の殆ど全てを、夢の中で過ごしていた―
ハイデマリーの穏やかな語り口に、エッダは小さく眉根を寄せた。
……悲しいね。そのひと
ハイデマリーは、小さく笑う。
……そうだね、そのままだったら、彼はただの悲しい人だった。
でもある日、彼は不思議な夢を見る。一枚の、自分の身の丈ほどもある、大きな鏡。それと向かい合う夢だった。
鏡には、ひとりの勇ましい戦士が映っていた。それを見た彼は、『ああ、これこそが自分だ』と、そう思ったんだよ。その戦士は、日ごろ彼が夢見て、自分自身だと思い込んでいた、空想の姿そのままだった。
そして、その夢から目を覚ました時―彼の身体は、夢にまで見た戦士のものに、本当に変わっていた
ここで、一息つく。
……彼が夢で見たのは、『現身の鏡』。古の時代に天の使いによってもたらされ、そして喪われたという伝説の遺失物。
その鏡は何処までも無垢で、人の魂の姿を映し出すという。彼は、長い長い間、夢を見過ぎたせいで、魂そのものが変わってしまっていたのさ
……だから、自分が思っていたような、英雄になっちゃったの?
そう……『英雄の姿』を、彼は手に入れた。そして、彼は自分が空想していた通りに、まるで英雄のように強かった―。
元気になった彼は、自分が思い描いていたように、意気揚々と戦争に出かけていった。そして名を上げ、武功を上げ、見る見る間に出世していった……
へぇ! それでそれで?
……そして彼は、戦争で死んだ
ハイデマリーの一言に、エッダの笑顔が固まった。
……なんで?
流れ矢に当たって、死んでしまったんだよ。彼は英雄のように強く、英雄のように活躍したが、物語そのままの英雄―主人公では、なかったんだよ。彼はどんなに強くても、一人の人間に過ぎなかった……だから、偶然で、つまらないことで、死んでしまった
…………
やはり人間、身の丈に合った生き方がある、という話だねぇ……
ふぇっふぇ、と声をあげて、ハイデマリーは小さく笑う。対して布団をかぶったエッダは、 むぅ と難しい顔をした。
……ケイのおにいちゃんは、英雄かな
やがて、ぽつりと。
頭上の幌と、篝火の炎に揺れる影を眺めながら、エッダは呟いた。
……どうだろうねぇ
答えたハイデマリーは、
……そうだね。彼は、英雄だよ
そう言って、優しくエッダの頭を撫でた。
少なくともわたしらにとっては、ね……。今日の彼は、本当に勇敢だった。彼なら英雄になれると、わたしはそう思うよ。
さ、エッダや。そろそろ眠りなさい。明日の朝も、早いんだからね
……うん
大人しく目を閉じて、エッダは布団をかぶり直す。
……おやすみ
おやすみなさい
夜は、更けていく―。
†††
翌日、酷い二日酔いに苦しみながらも、隊商は村を出発した。
村人総出で、見送りをされながらの出立だった。少し気恥ずかしく、頭痛を抱えてはいたものの、ケイはそれに快く応えた。
昨日決意したことを、改めて心に強く刻みつけながら―
そこからは、再び拍子抜けするほどに、平和な道のりだった。
特にこれといった獣に遭遇することもなく、一日をかけて、夕方には次の村に到着する。
漏れなくそこでもケイの英雄譚が語られ、巨大な”大熊”の毛皮が披露され、一時は村中の人々がケイの元に集まり、村娘にチヤホヤされるケイにアイリーンが嫉妬し―等々あったものの、おおむね問題なく一日は終わった。
『それ』が起きたのは、翌朝のこと―
早朝、目を覚ましてテントから出たケイを、出迎える青年の姿があった。
アレクセイだ。いつになく真剣な表情。
どうしたのか、と訝しむケイを前に、アレクセイは腰の短剣を抜いた。
きらりと輝く銀色の刃を眼前に掲げ、重々しく口を開く。
―雪原の民の戦士、セルゲイの子、アレクセイ
朗々と、響き渡る低い声、