うむ。いくらディートリヒが聡い子だとはいえ、全てを任せるには経験が足りぬ。ここ数年、平和が続いておるが、……今は繊細な時分よ。雪原の民の件もあるし、草原の民に不穏な動きがあるとも聞く
少し、表情を厳しいものとして、クラウゼは執務机の上の報告書を手に取った。
草原の民の本拠地”リッフ”に置いた総督府から、いくつか報告が上がってきている。公国の支配に対して反抗的であった部族が、近頃になって急に大人しくなったらしい。
字面だけ見れば好ましい事態だが、長きに亘(わた)って抵抗を続けてきた輩が、昨日今日で従順になるとは考えにくい。十中八九、何かよからぬ事を企んでいる―というのが、クラウゼとヴァルターの見立てだった。
先の戦役で、ウルヴァーンの組織化された魔術師兵団の前に惨敗を喫した草原の民ではあるが、その機動力と馬上弓による攻撃力は、決して侮れるものではない。例え反乱を起こされたとて、鎮圧はそう難しくないだろうが、同時に油断も許されぬ相手だ、とクラウゼは考える。
……ところで、北の大地はどうなっておる?
報告書を書類の山に戻しながら、問いかけた。口の端を吊り上げ、シニカルな笑みを浮かべたヴァルターは、
相も変わらず、身内で小競り合いを続けているようで
うむ。それは重畳
その、小馬鹿にするような口調に、クラウゼはむしろ上機嫌で頷く。
過去には戦火を交えたこともある公国と北の大地ではあるが、現在、両者の関係はそれなりに良好だ。領土を巡って起きた紛争は、草原の民の介入もあり、北方の街を幾つか分割統治することで決着が付いている。
公国の統治に食い込まれる形になったため、当時のクラウゼとしてはあまり面白くない話であったが、南北で人の行き来が活発化し、結果的には周辺の経済が発展することとなった。ウルヴァーン側は食料品や嗜好品、医薬品などを。北の大地は一部の金属製品や優れた武具などを、それぞれ輸出している。
公国・北の大地の双方にとって、そう悪くはない関係だ。しかし、雪原の民の武力が再び、ウルヴァーンへ向けられることを恐れたクラウゼは、戦争を回避するために幾つかの手を打っておいた。
そのうちの一つが、北の大地の西部で起きている、雪原の民同士の領土紛争だ。
元来、その厳しい冬の環境で有名な北の大地だが、中でも海に面している西部は例外で、比較的温暖で実りも多く、暮らしやすい土地として知られている。
そして―そうであるが故に、争いの種になりやすい。
近年の人口増加に伴い、雪原の民は緩やかな土地不足に陥りつつある。安定的に食料を生産できる、実りの豊かな大地が求められているのだ。しかし、苛酷な北の大地において、そのような土地は、西部の他に存在しない。
そこでクラウゼは、工作員を行商人として多数送り込み、敢えて西部の豊かな部族に安く医薬品などを供給することで、生活水準の格差をさらに助長させ、部族間での対立を煽ることに成功したのだ。
そしてそれは、結果的に『紛争』という形で現れた。
ウルヴァーンの供給した医薬品やその他の技術の影響で、生活環境が改善されたためにもたらされた人口増加だが、それがまた内輪での殺し合いの種となったのだから、まさに皮肉としか言いようがない。しかし、仮にクラウゼが手出しをしていなければ、その圧力の矛先はウルヴァーンに、ひいては公国全体へと向けられていたことだろう。
雪原の民は、優秀な武具に加え、『紋章』という独自の身体強化術を保有する民族だ。今まで、せいぜい小競り合いとでも呼ぶような、小規模な軍事衝突ならば何度もあったが、民族の移動を伴う大規模な侵攻となると、どのような被害が出るかは想像もつかない。
―少なくとも今は、全面戦争は避けたい。
それが、クラウゼの考えだった。現状、公国が必要としているのは、『時』―雪原の民同士が分裂するためにかかる時間だ。元から部族間でのいさかいが絶えず、まとまりがあるとはいえない彼らであったが、それでもひとたび共通の『敵』を定めれば、足並みをそろえる余地はある。
それを、徹底的に、分断しなければならない。
自身も草原の民という不和の種を抱え込んでいる現状、一致団結した雪原の民と事を構えるのは、あまりに危険だ。仮に、公国と北の大地が全面戦争に突入すれば、千載一遇の機会とばかりに草原の民も蜂起するだろう。
流石に、リスクが大き過ぎる。それに見合うほどのリターンがあるのか、と問われれば―
(―たしかに、北の西部は、魅力的ではあるがの)
クラウゼは、視界の果てを流れるアリア川を眺めながら、遥かな大海へと想いを馳せる。
海。そして、外海へとつながる港。これこそ、“要塞都市ウルヴァーン領主”としてのクラウゼの求めるもの。
そしてあるいは、雪原の民との戦争を望む者たちにとって、その主張の根幹を為し得るものだ。
……最近は、主戦派も口喧しくなってきましたからな
クラウゼの思考を読んだのか、独り言のように、ヴァルターは呟く。
……うむ
小さく溜息をつきながら、クラウゼは再び椅子に腰を下ろした。その顔には苦々しい、精神的な疲れの色が浮かぶ。
臣下の中には、北の大地との開戦を声高に主張する者たちがいる。主に、軍閥に属する者や、軍事産業の関係者だ。軍事費(くいぶち)の確保が目的か、あるいは武具などの特需が狙いか―その思惑は様々であろうが、彼らの主張の建前を為すのが、海外への橋頭保の獲得。
即ち、北の大地西部の沿岸地域を手中に収めることだ。
自前の港を確保すれば、ウルヴァーンの地位は盤石のものとなる、と。言ってること自体は尤もなんですがな
……しかし、時期尚早よ
わたくしも陛下とは同じ考えですが……まぁ、近頃キテネが……その、何と申しましょうか、“調子に乗っている”ので、腹に据えかねている者も一定数は居るのでしょう
うぅむ……
嘆かわしい、と言わんばかりのヴァルターに、渋面を作るほかないクラウゼ。
要塞都市ウルヴァーン。
城郭都市サティナ。
鉱山都市ガロン。
港湾都市キテネ。
アクランド連合公国内の巨大都市といえば、以上の四つが挙げられるが、その中でもキテネは公国における唯一の外海への玄関口として、貿易から製塩までを一手に担い、他の都市とは一線を画した絶大な経済力を誇っている。
そう―盟主たるウルヴァーンを差し置いて、最大の経済力を、だ。
元々、軍事力のウルヴァーン、工業力のガロン、そして何事もそつなくこなすサティナ、という風にバランスが取れていたのだが、この問題のややこしいところは、実は公国の盟主は必ずしもウルヴァーンと決まっているわけではない、という一点にある。
アクランド連合公国に名を連ねる貴族たちは、ウルヴァーンの領主に対して絶対的な忠誠を誓っているわけではない。
ただ、強大な軍事力を誇るウルヴァーンが、諸侯に安全を約束することで、主従の契約を結んでいるに過ぎないのだ。
故に、称すること、『アクランド”連合”公国』。その権力は流動的で、ときには酷く曖昧ですらある。
そもそも歴史を紐解けば、ほんの百年ほど前までは、『アクランド連合公国』なる国家は存在していなかったのだ。当時はキテネを主体とした小国で、その中でもウルヴァーンは一地方都市に過ぎなかった。また、現公王たるクラウゼも、その出自を辿っていくと、かつてのキテネの領主の血筋に行きあたる。度重なる政変や異民族との衝突、そしてウルヴァーンの発展を受けて当時の領主が『遷都』し、その結果生まれたのが現在の公国なのだ。
裏を返せば―今後再び、『遷都』が起きる可能性も、ゼロではない。
とはいえ。
港湾都市キテネが絶大な経済力を誇るのも、別に今に始まったことではなく。
ウルヴァーンも、草原の民を支配して、その本拠地の岩塩の採掘権を押さえることで、塩の独占に対抗してみたり。
サティナも独自の税制を採用することで、キテネ経由の商人を牽制し、他の経済圏へのアプローチを積極的に行ったり、と。
良くも悪くも政治には関わり合いにならないガロンを除いて、それぞれいい意味で牽制と調整を繰り返し、これまでは特にこの問題が表面化することはなかった。
しかし。
ここにきて最近、キテネの領主に不穏な―どこか、野心的な影が見え隠れするようになってきた。
あの『噂』の件がなければ、と思わずにはいられませんな……
はぁ、と珍しく愁傷な顔で、ヴァルターは嘆息する。
数ヶ月前のこと。一般民衆の間で、とある噂が流行り出した。
曰く、現公王陛下は体調が優れず、間もなく崩御なさる。
曰く、跡取りのディートリヒ様は若すぎるため、代わってキテネの現領主が、公国の盟主になられる。
―と。
街角で、市場で、あるいは場末の酒場で、まことしやかに囁かれたこの噂は、異様なほどの速度で公国全土に広まった。
その不自然さ、そして単純に不敬であるという理由から、宰相ヴァルター率いる諜報部が出所を探った結果―
港湾都市キテネに行きついたのだ。
勿論、キテネの領主は即座にこれを否定したが、このことが判明した際、ウルヴァーンの貴族たちは、揉めた。
―これは、ウルヴァーンに対するキテネからの挑発である、と。
そう、受け取る者が少なからずいたのは、事実だ。
(……滅多なことは無い、と思いたいがのう)
顎鬚を撫でつけながら、クラウゼは考える。思い浮かべるのは、キテネの領主の顔。
(何を考えていることやら……)
年に数回、顔を合わせているが、彼は代々受け継いできた華やかな商才の割に、寡黙で実直な男という印象だった。しかし、そうであるが故に、時折何を考えているのか、推し量りにくいところがある。
論理的に考えて、実質的な軍事力に劣るキテネが公王の座を狙ったところで、無駄に金がかかるばかりでメリットと言えるメリットはない。また、キテネに『そのつもり』がないということを、クラウゼは半ば直感的に確信していた。
(しかし、そうであるとするならば、他の勢力が噂を流したことになる)
そもそも、クラウゼの体調不良は、一部の貴族にしか知られていない機密事項だ。誰かが思いつきで、ひょいと流せるような代物ではない。となると、公国内の貴族に不和の種をばらまくため、何者かが意図して噂を流した、と考えるのが自然なわけだが―
(―誰が? そして、どのような意図で?)
その正体も謎だが、意図するところも分からない。正直、工作として噂をばら撒くならば、もっと上手いやり様がある。この場合、噂の広まり方―拡散速度があからさま過ぎるため、『工作である』と自分から喧伝しているに等しいのだ。
(誰が、何のために……?)
いくら考えても、ぐるぐると疑問が渦を巻くばかりで、胸の内側にずしりとしたものが積み重なっていくかのようだった。そして、ふいに思い出したかのように、肺の奥から湧き上がってくる、重い咳。
ゴフッ、ゴフッと激しくせき込み、クラウゼは悲観的な考えを振り払うかのように頭を振った。
(まったく、こんなことでは身が持たんな……)
―老いを感じる。口にこそ出さないが、このところは物忘れも激しい。
万が一のことがある、とは自分でも考えたくないし、出来る限り国の行く末を見守りたいとは思うものの、やはり頭がはっきりしているうちに自分は身を引くべきだ、とその思いを新たにする。
(許せディートリヒ……重荷を背負わせることになる)
まだ若い―幼いとすら言っていい、孫の顔を思い浮かべながら、老いた王は溜息をつく。
ひとつ、溜息をついて―暗い考えは、終わらせることにした。
……そう言えば、そろそろ、殿下の御誕生日ですな
それを見計らったかのように、ヴァルターが話題を振ってくる。
早いものよ、あの子ももう十四になるか
祖父の表情、と言うべきか。腕組みをしながらのクラウゼの顔は、この時ばかりは、どこまでも優しげであった。
……盛大に、祝ってやらねばならん
民への披露目も兼ねて、と呟く。
それでしたら、やはり、何か催し物を企画するべきですかな?
……そうよな、今後のことも考えると……
コツコツ、と指先で執務机を叩きながら、クラウゼは考えを巡らせる。
……腕利きの戦士は、いくらいてもいい。武道大会でも開くか?
ちら、とクラウゼが目をやると、ヴァルターは満面の笑みで答えた。
良い考えであられます
では、そのように計らえ
はっ
恭しくヴァルターが頭を下げたところで、扉の外から、足音が聞こえてくる。