沈黙のうちに、吹きつける風の音を聴きながら、ただただ遠くに佇む都市の姿を眺める。ようやく目的地に辿り着いたという安堵と、慣れ始めていた旅の日々が終わってしまう寂しさと、新たな環境への一抹の不安と。二人の顔には、それらが綯(な)い交ぜになった、複雑な表情が浮かんでいた。
……それにしても、アレがウルヴァーンか
しんみりとした空気を振り払うかのように、ケイは口を開く。
ゲームのとは、大違いだな?
そうだな、
それに応えて、アイリーンも小さく笑った。
ゲームの方は村だったし……こっちのと比べたら、犬小屋か何かだなありゃ
違いない
どこかで聞いたような表現に、思わず苦笑する。ゲーム内のウルヴァーンはプレイヤーメイドの要塞村―岩山の上に慎ましやかに築かれた防御拠点で、下手すれば今ケイたちのいる宿場町よりも小規模なものだった。
まさしく、比べるのもおこがましい、ってヤツだ……
笑い飛ばした湿った空気と、ぼんやり蘇る郷愁にも似た想いと。それらを胸に、ケイとアイリーンは静かに、見知らぬ街へと視線を戻す。自然と、惹かれあうようにして、手と手が重なり合った。
…………
それ以上は言葉を交わすこともなく―しかし、自分たちは同じ気持ちを共有していると。確信しながら、その手の温もりを確め合った。
―が。
おーい、ケイ! アイリーン!
背後から投げかけられたハスキーボイスに、慌てて手をほどき、弾かれたように振り返る。
見やれば―こちらに手を振りながら、のしのしと歩いてくるアレクセイ。
その姿は、決闘の際と同じく、完全武装。あるいは、所持品すべてを身に付けた姿、というべきか。肩に担いだ業物の大剣、柄の部分には兜を引っ提げ、ケイにブチ抜かれた円形盾(バックラー)の他、鎧、脛当て、手甲を装備。そして背中には、旅装具がパンパンに詰まった背嚢を背負っている。
良い感じの雰囲気を粉砕され憮然とするケイと、 げっ と嫌そうな声を上げるアイリーン、しかし二人の様子を気にする風もなく、アレクセイは目の前までやってきた。
……もう動けるのか
問いかけるケイの声に、どこか皮肉めいた響きが込められていたのは、仕方のないことかも知れない。決闘でケイに手酷くやられ、まだ半日しか経っていないにも拘わらず、アレクセイはぴんぴんしているようだ。切れていた唇の傷は殆ど治りかけ、下顎の青痣も既にその色を薄くしつつある。“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“に貫通させられた左腕に至っては、包帯こそ巻いてあるものの、まるで痛がる素振りすら見せない。
まあな、傷の治りは早いんだ
左手をくいくいと動かしたアレクセイは、 ふんっ と筋肉に力を込める。が、その瞬間、まっさらだった包帯に、じわりと血の赤色が滲んだ。
おっと、まだ傷は塞がってなかったか
ついうっかり、とでも言わんばかりに、まるで他人事のアレクセイ。ドン引きしたらしいアイリーンが、すっと一歩後ずさる。ケイの皮肉な笑みも少々引き攣っていた。
いくら痛みに強いとはいっても、これは少々異常だろう。ともすれば、比喩的意味ではなく、全く痛みを感じていないような―
『痛覚軽減』、か
ケイの呟いた言葉に、アレクセイはふっと顔を上げる。少しだけ見開かれた両の瞳は、無理やり驚きの表情を打ち消したかのような。
紋章だろう?
違うか、と首を傾げてみせるケイ。決闘の時から見当はつけていたが、この反応を見て確信した。
『痛覚軽減』―アイリーンの刻む『身体軽量化』程ではないが、ほとんど使われていなかったマイナーな紋章の一つだ。
取得条件は比較的緩く、その効果は『痛みを軽減しノックバックや気絶の可能性を減らす』こと。しかし、ゲーム内では些細な傷でも死に直結しており、そもそも痛覚がフィードバックされることもなかったので、負傷を前提とした『痛覚軽減の紋章』は有難味が薄かった。せいぜいが魔術師プレイヤーが、被弾による詠唱失敗の可能性を減らすため、保険としてその身に刻むことがある程度のものだった。ケイも、こうしてアレクセイに出会わなければ、その存在すら忘れていたであろう。
ゲーム内では役に立たなかった『痛覚軽減』だが、翻って現実では、それなりに有用であると言わざるを得ない。ケイ自身、この世界に来てから経験した対人戦闘において、痛みのせいで行動が阻害されたり、判断を誤ったりということは度々あった。怪我の自覚が遅れる、という欠点はあるものの、攻撃力に特化したいのであれば有用な能力だ。ただでさえ勇猛果敢な戦士が痛みに鈍感になれば、果たしてどのような化学反応が起きるのか―
ちなみにアレクセイの場合、その傷の治りの早さを鑑みるに、あとは『身体強化』か、あるいはマイナーな『自然治癒力強化』の紋章を刻んでいる、というのがケイの見立てだ。
……詳しいな。いや、その通りなんだが……どこで知った?
薄く笑みを浮かべるアレクセイだが、その瞳は笑っていない。おや、地雷を踏んだかな、などと軽く思いつつ、ケイは小さく頭を振った。
知り合いの雪原の民の戦士は、お前だけじゃなくてな
へぇ。なんて名前だ?
『アンドレイ』だ
ぴくりと、黙って話を聞いていたアイリーンが、横目でケイを見る。
アンドレイ……アンドレイか。おれの知り合いにはいないな
まあ、昔の話だ。それより何か用事か?
何やら思案顔のアレクセイに、ケイは投げやりに話題を振った。
ああ、そうだった。用事があるのはケイの方なんだが
ぽん、と手を打ったアレクセイは、言葉とは裏腹にアイリーンの方を見やって愛想を振りまきつつ、背負っていた背嚢をどさりと地面に下ろした。
さて、
続いて、大剣と円形盾をケイの足元に放り出し、脛当てや手甲などの装備も順次外していく。背嚢を基礎として、ケイの目の前に積み上げられていく物資の山。
え、お前何を
困惑するケイとアイリーンをよそに、鎧を脱ぎ去ったアレクセイは、いつか湖で見せた恐るべき脱衣速度をもって、あっという間に肌着とサンダルだけの姿になった。そして、最後に右手に握りしめていた財布を、出来あがった山の上に載せる。
―これが、おれの全財産だ!
高らかに宣言し、キリッとケイを真正面から見据えるアレクセイ。
ほぼ裸一貫で腕組みをし、堂々と仁王立ちする姿は、ただでさえ衆目を集めることこの上ない。それが唐突に叫ぼうものなら、周囲の人間に注目するなと言う方が無理だった。駄弁っていた傭兵たちも、通りがかりの住民も、忙しげにしていた商人たちですらも、その手を止めて何事かとこちらを見ている。
……どういうことだ
受け取られよッ!
くっ、と悔しげに顔を歪ませるアレクセイ。
貴殿は……決闘の勝者であるが故にッ!
その言葉に、思わずケイとアイリーンは顔を見合わせた。ふるふる、と無表情で首を振るアイリーン。
いらん
それを受けたケイの答えは、簡潔明瞭だった。ずるっ、と腕組みの体勢からずっこけるアレクセイ。
何故だ!
なぜ、と言われてもな。特に魅力を感じない
困った風に、ケイはぽりぽりと頬をかきながら答える。
確かに、ケイはアレクセイと闘って勝利を収めたが、それは自身の名誉とアイリーンを守るためであった。ケイも若干負傷したが、それに釣り合うほどにはアレクセイを叩きのめしてもいる。ケイにとって、決闘は既に終わったこと―これ以上どうこうしようという気は、あまり起きなかった。
強いて言えば、アレクセイの防具―白羽(ふつう)の矢とはいえ”竜鱗通し”の一撃を弾いた合金の脛当てや手甲は、ケイの現在の防具と比しても魅力的と言えた。だが新品ならば兎も角、アレクセイのお下がりは御免蒙りたい。
迷惑料として金だけを徴収するのも考えたが、それはそれで狭量であるように感じられた。ケイが独りであればまだしも、今はアイリーンがいる。彼女の見ている前で、殊更金に意地汚くなろうという気も、また起きなかった。
まあ、なんだ。気持ちだけ受け取っておこう
し、しかし……それは困る!
にべもない答えのケイに、おろおろと弱った様子のアレクセイ。そこには普段の強気な態度など、見る影もない。それほどまでに断られるのが予想外だったのか、と面白おかしく感じながら、ケイは逆に尋ね返した。
なぜ困るんだ? お前にも悪い話じゃないだろうに
一族の沽券に関わる。決闘の挑戦者が敗北した場合、勝者に全財産を譲るのがしきたりだ。恋慕の為に、自分から決闘を挑んでおきながら負け、その上……な、情けをかけられるなど……!
説明するうちに、アレクセイの頬が紅潮する。最後の言葉は、殆ど絞り出すかのようだった。自分が負けた、という事実もひっくるめて、それを解説させられるのが余程の屈辱なのだろう。
だから……これは、ケジメなんだ。受け取ってくれ
……成る程な
嘆願するようなアレクセイに、ケイは困った様子で兜を脱いだ。
つまり、受け取られなければ、一生の恥ということか
その通りだ
ふむ……。ならば、そうだな、
小さく溜息をついて、物憂げに前髪をかき上げたケイは、表情を真面目なものに切り替える。
―分かった。その申し出、受けよう
えっ、受けるの
ケイの隣で、心底意外そうに目を瞬かせるアイリーン。
おお、受け取ってくれるか!
それをよそに、アレクセイはぱっと顔を輝かせる。しかし同時に、荷物の山を見下ろして、少し寂しげに細められるその水色の瞳を―ケイは見逃さなかった。
ああ。ところで、……受け取ったものをどう処分しようと、それは俺の勝手なんだな?
……。ああ、勿論だ。売るなり使うなり好きにするといい
一瞬の間。しかしアレクセイは、毅然と答えた。 そうか と改めて言質を取ったケイは、重々しく頷き、
―ならば、俺は決闘の勝者として、お前にこの装備一式を譲る
言い放つ。
……え
ケイの台詞に意表を突かれ、ぽかんと間抜けな顔をする周囲の面々。
ふッ―ふざけるな! それじゃ何も変わらないじゃないか!
すぐに、頬を紅潮させたアレクセイが、噛みつかんばかりの勢いで詰め寄るが、ケイがそれに動じることはない。
いや、俺はしかと受け取ったぞ。お前の覚悟と、誇りをな
あくまで真摯なケイの言葉に、毒気を抜かれたアレクセイは、陸に揚げられた魚のようにパクパクと口を動かした。
ケイは、異邦人だ。
無論、雪原の民の慣習などには明るくない。アレクセイがその気になれば、決闘後のやり取りはいくらでも誤魔化せたはず。
しかしそれをせずに、自ら財産の譲渡を申し出たのは、まさしく彼自身が誇りに生きている証だ。例え、それが相容れぬ、理解しがたいものであったとしても、その真っ直ぐさは称賛に値する。
最低限の生活はおろか、命の保証すらないこの世界。それも、知り合いもロクにいない異郷の地で、所持品の全てを投げ出し、他者へと明け渡す覚悟がどれほどのものなのか―
いや、清々しいまでの潔さだとケイは思う。
―感服した。その心意気、全く天晴れと言わざるを得ない。故に、貴殿に敬意を表して、これらの武具を贈りたい
朗々と語られる口上と共に、漆黒の眼光が、揺れる瞳を捉えた。
受け取られよ。誇り高き、雪原の民の戦士―アレクセイ
静かな、それでいてどこか有無を言わせないケイの言葉に、アレクセイは黙って俯いた。ぱし、と顔面を覆い隠した右手のせいで、その表情を窺い知ることはできない。
……しきたりに、従っておけば、
―全部なかったことになるとでも、思っていたのか。
小さな声が、ケイの耳朶にまで届く。恐れるような、わななくような―そんな訥々とした言葉が。
…………はぁぁ~
やがて、長く細く息を吐いたアレクセイは、虚脱したような表情で天を仰いだ。口元を引き結んで天上の何かを睨みつけ、ガリガリと荒っぽく頭を掻き毟る。
……分かった。有難く頂戴する
何かを悟ったように、存外、素直に頷いたアレクセイは、荷物の山から衣服を拾い上げ、黙々と着込み始めた。
それからは、先ほどの場面を逆再生するかのようだ。ズボンを履き、シャツを羽織って板金付きの革鎧を纏い、手甲と脛当てを身につける。放置されていた財布を乱暴にポケットに突っ込み、剣と盾を拾い上げ、背嚢を背負う。
そしてそこには、数分前と、見た目だけは何一つ変わらない、アレクセイの姿があった。
…………
鼻の頭をかきながら、気まずげに目を逸らしたアレクセイは、荒々しい動作で兜をかぶる。そしてそのまま面頬(バイザー)を下ろそうとしたが―動きを止めて、短く息を吐いた。