互いに経験のなかった者同士、色々と心配していたが、どうやら杞憂であったらしい。半ば拍子抜けした気分で、しかしほっと一安心しながら、ケイは微笑んだ。

髪を結い上げてポニーテールにし、ベッドの上でしなやかに背伸びをするアイリーン。一糸まとわぬ姿、という点を除けば、まさしくいつも通りの彼女だった。

不意に―

目の前のアイリーンも、その存在すらも、こ(・)ち(・)ら(・)に来てからの全てのことは幻ではないか―と、そんな漠然とした不安に駆られた。

実は自分は、今も生命維持槽に浮いたままで、知りもしない少女や健康な身体を夢見ているだけなのではないか、と。

無論、それはただの錯覚だ。

もしそうだったら怖いな、という子供じみた根拠のない恐れ。そういえば幼い頃は、目を覚ませば独りきりになっているのではないか、と不安でなかなか寝付けなかったことを思い出す。

今までどちらかといえば、マイナスを基準に浮き沈みするような人生だった。そのため魂まで染みついた仄暗い考えが、時たま顔を出してしまうらしい。あるいは、それは現実感を失ってしまうほどに、今のケイが幸せである証左なのかも知れないが―。

……うん? どうした、ケイ

一瞬、遠い目をしたケイに、するりとシーツから抜け出したアイリーンが顔を覗き込んでくる。吸い込まれるようなサファイア色の瞳の中に、どこか心配げな光を認めた。

いや、

思わず、すがるようにして手を伸ばし、その肩を抱きとめる。目をぱちくりとさせながらも、アイリーンは何も言わないまま、されるがまま。

……どうしたの?

やがて、腕の中から、ケイを見上げる。

何でもない、と答えようとして、やめた。

急に不安になったんだ。何もかも夢なんじゃないか、って

体を離してそう言うと、眉を下げたアイリーンは、ケイの背中に手を回し逆にその身を引き寄せる。

オレも

こつん、とケイの胸板に額を当てて、くぐもったアイリーンの声。

オレも、たまに不安になるよ

……そっか

再び、抱き締める。感触を確め合うように。

それは、雪山で遭難した旅人たちが、互いの体温を分かち合うのに似ていた。

……ありがとう。もう大丈夫だ

やがて、ケイの方から体を引き離す。少しの名残惜しさと、冷静になって省みる気恥ずかしさと、傍にいてくれる人への感謝と―。それらが綯い交ぜになった末に、選び取ったのは、頬をかきながら視線を逸らすことだった。気まずいときや恥ずかしいとき、斜め上へと目を泳がせるのは、本人も気付いていない癖。

……うん

それを見て取ったアイリーンは、ただ、にこりと微笑んだ。素直なようでそうでもない、そんな彼のことを愛おしく思いながら―

しかし次の瞬間、眉をひそめたかと思うと、 へッきゅ と控え目にくしゃみをする。

おっと、その格好じゃ風邪引くぞ

今日は初夏にしては肌寒い日だ。慌ててシーツを引っ張ってくるケイに、 そうだな と笑うアイリーン。自然と、ふたりだけの世界は霧散してしまったが、しんみりとした空気もまた、消え去っていった。

……ところでアイリーン、今って何時頃なんだ?

さあ?

財布の中身を確認するケイの傍ら、服を着るアイリーンは動きを止めて、小さく首を傾げる。

オレが目を覚ましたときは、鐘が九つくらい鳴ってた。……けどもう1時間は経ってるよなぁ

3時間ごとに鳴らすんじゃないか? この街は

あー。なるほど

木製の戸を開け放ち、太陽の位置を確認するアイリーン。

……11時過ぎってトコか

まあ、そのくらいだろう

麻のシャツに綿のズボン、今日は肌寒いのでその上に革のロングベストを着込み、腰には”竜鱗通し”を収めた弓ケース、というお馴染みの街中スタイルで、ケイは手の中の部屋鍵をピンッと弾いた。

対するアイリーンは”NINJA”の黒装束で足元を固め、チュニックと革のベストといういつもの旅装で決めている。腰にはサティナで新調した短剣を差しており、サーベルや投げナイフなどの武装は、今は部屋の鍵付き木箱(チェスト)の中だ。

よし、顔洗ってから飯にしよう

入念に戸締りを確認し、部屋を出る。

……しかし、はっきり時間が分からないのって、思ったよりストレスだよなぁ

階段を降りながら、ぼやくのはアイリーンだ。特に用事があるわけではないのだが、正確な時刻が知りたいと思ってしまうのは、やはり現代人の性だろうか。

別に時間に追われてるわけではないが、気になるな

うん。時計欲しい……時計……

ぶつぶつと呟くアイリーンに、どうにも苦笑を禁じ得ない。

技術水準が比較的高い DEMONDAL 世界には、当然のように時計が存在する。時計塔のような大型のものに始まり、機械式の懐中時計は勿論のこと、時刻を表示する魔道具までその形態は様々だ。

しかしケイもアイリーンも、ゲーム内では一度たりとも時計を使ったことはなかった。

理由は単純、ゲーム内でいつでも呼び出せるメニュー画面に、常に時刻が表示されていたからだ。現実における時間と、ゲーム内の時間の両方。プレイヤーがアイテムとしての時計を必要とするのは非常に稀で、基本的にロールプレイのためのコスプレ用品か、あるいはNPCに対する贈り物としてのみ機能していた。

そう、機械式にせよ魔術式にせよ、時計は非常に高価だったが、一応それなりに需要もあったのだ。プレイヤーは殆ど必要としない時計を、逆にNPCたちは非常に有難がっており、プレゼントした場合の親密度の上昇は下級のお使い(クエスト)数百回分に匹敵するという。

キャラ育成の手間が省ける、上級者向けのアイテム。重課金戦士にして廃プレイヤーたるケイも度々世話になっていたが、 そうでもなきゃ使わねえだろこんなもん とアンドレイが笑っていたことを思い出し、どうにも皮肉な笑みを抑えられなかった。

時計か……どうにかして自作できないものか

宿屋の中庭、バシャバシャと顔を洗いながら、ケイ。ホランドに頼むにしても、時計を買うとなればかなりの出費を強いられることになる。自作できるのであればそれに越したことはないのだが―と、腰のベルトに引っかけていたタオルで顔を拭きつつ、ちらりとアイリーンに期待の眼差しを向けた。

……難しいな

対して、腕組みをするアイリーンは、渋い顔だ。

魔術式でも、やっぱり厳しいか?

いくつか問題がある。まず、詳しい作り方が分からない。次に、触媒が貴重で手に入り辛い。最後に、仮に作れたとしても、ケルスティンを使役する限り多分夜しか使えない

……うーむ

実際のところ、作り方は術式付与の応用でなんとかなると思う。『こっち』だとケルスティンも融通が効くからガッツリ呪文(スクリプト)組まなくていいし、触媒も運が良ければ見つかるかもしれないな。……でも、

日が暮れたあとしか使えない、ってのは、確かに痛いな

あるいは、夜番の為だけのものと割り切れば、需要はあるかもしれないが。

っつか、シーヴの方がいいんじゃね? 中位精霊だし

呪文の方は大体見当がつくが、風の精霊の時計ってのがイマイチ想像できないんだよな……。それに俺の場合だと、おそらく魔力が足りん

……時計作りで枯死ってのも、笑えない話だな

悟ったような顔のケイに、苦笑するアイリーン。結局、お金を溜めてから何かしらの時計を買った方が早い、という結論に達した。

アイリーンはしばし御手洗いに行くとのことで、先に一階の食堂へ。厨房で仕込みでもしているのだろう、タマネギ系のスープの濃厚な香りが鼻腔をくすぐる。丸テーブルの並ぶそこは、中途半端な時間帯ということもあり、人影もまばらだった。

あら、こんにちは。お食事?

食堂に足を踏み入れると、布巾でテーブルを拭いていた若い女が愛想良く尋ねてきた。昨日ケイたちを出迎えた、小麦色の肌の美人だ。奥のカウンターには、黙々と樽から壺に酒を移しているドワーフっぽい男。どうやら酒場は、主にこの二人で回しているらしい。

ああ。昼食として簡単に食べられる物を二人分、あと水も頼む

簡単に、ね。チーズとハムのパニーニでいいかしら?

うむ。それで

OK、ちょっと待っててね

テーブルに着きながらオーダーすると、ぱちりとウィンクして奥へと引っ込んだ女は、すぐに陶器のピッチャーと木製のゴブレットを手に戻ってくる。

はい、どーぞ

ありがとう

水の注がれたゴブレットを手渡され、礼を言いつつ喉の渇きを癒す。一度杯を空けて、ピッチャーから水を注ぎ足しながら水分補給するケイを見て、むふっと何やら意味深な笑みを浮かべた女は、

昨夜はお楽しみだったみたいね

んぶゥ

ケイは鼻から水を噴き出した。

ばっ、なにをっ

ナニをって、ねえ。ここ床板薄いから

むせるケイをよそに、眼前、テーブルに肘をついた女はずいと体を寄せてくる。

ね、ね、お兄さん。あの金髪の娘とはどんな風に出会ったの? 草原の民と雪原の民のカップルだなんて、なんだかとってもロマンチック

うっとりとした表情、きらきらと好奇心に輝く瞳で顔を覗き込んでくる。しばらく咳き込んで、不意打ちからどうにか立ち直ったケイは、取り敢えず椅子ごと身を引いて距離を取った。

ゲーム時代に関わる話題は、今のところ最も突っ込まれたくない部分のひとつだ。アイリーンと話し合って、早急にそれらの『設定』を構築するべきかも知れないな、などと考えつつ、当座を凌ぐ為に口を開く。

……別に、どうということはない。数年前にとある町の酒場で知り合って、それ以来の仲だ

ふぅ~~~ん

ニマニマと笑いながら指先でテーブルをなぞる動きは、まるで次の一手を考えるチェスのプレイヤーのようだった。

ねぇ、それってどこの酒場?

ここから遥か彼方、遠く離れたところさ

……そう。ところで、雪原の民のお姫様を連れた草原の民の狩人が、南の村で”大熊(グランドゥルス)“を仕留めた、って噂を小耳に挟んだんだけど。何か知らない?

……さあな

耳の早いことで、と思いつつ投げやりに返す。ケイのやる気のなさが伝わったのか、 むっ と表情を曇らせた女は、続いてさらに問いかけようとするが、

ジェイミー、いい加減にせんかッ!

だみ声とともに、スパァンッと小気味よい音が響く。 いびゃッ! と色気もへったくれもない声を上げて、女が飛び上がった。

痛ァッ何すんのよ!

何すんのもクソもあるかッ! 男漁りに精出す暇があるなら仕事をせんかッこのアバズレがッ!

涙目で尻をさする女―『ジェイミー』に対し、いつの間にかカウンターから出てきていたドワーフ風男が、手にしたトレイを振り上げて怒鳴る。どうやらアレで尻をはたいたらしい。

お客さんと親睦を深めてるだけなんですけど!

やかましい! グダグダ抜かすんなら娼館に売り飛ばすぞッ!

ひぇぇごめんなさーい!

口答えを試みるも、ドワーフ風男の剣幕に脱兎の如く逃げ出すジェイミー。スカートをパタパタとはためかせながら、カウンターの奥の厨房へ引っ込んでいく。

ふぅ……

溜息を一つ、今度はぎょろりとケイを見下ろす。すわとばっちりかと顔を引き攣らせるケイであったが、 ほれ とドワーフ風男は左手に持っていた皿を無造作にテーブルに置いただけだった。

皿の上、パニーニの生地の隙間から、蕩けたチーズがはみ出る。

まったく、アイツは……目を離せば無駄話にうつつを抜かしやがる

……なに、客商売にはぴったりじゃないか

確かにその通りだが、愛想が良過ぎてもいけねえや。アイツは器量だけはいいからな。たまに勘違いする野郎が出てくんのさ……この間も一人……勿論ブッ飛ばしたが……

何を思い出しているのか、虚空を睨んで、まるで野犬が威嚇するように歯を剥き出しにして唸る男。

そ、それにしても、娼館に売り飛ばすってのは穏やかじゃないな

おっかない雰囲気に引きながらのケイの言葉に、男は鼻を鳴らした。

ふン。引き取った頃はなァ、まだ小さくて可愛げもあったもんだ。だがここんトコは色気づいてきていけねえ、無駄に身体ばかりデカくなりやがって、まったく……

自分の腰あたりの高さを示しながら、嘆いてみせる。引き取った―と言うからには、血のつながりがあるわけではないのだろう。しかし憎々しげな口調とは裏腹に、その表情は哀愁と優しさが入り混じったようなもので、ケイにはまさしく年頃の娘を持て余す父親のそれに見えた。

……まあいい。ご注文は以上で?

ああ

銅貨8枚

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