しかし多芸だね君は。いや、私とダグマルの会話が、それとなく分かってるみたいだったから、そうじゃないかとは思っていたんだが
それほど話せるわけじゃない。少しかじってる程度だ
肩をすくめて、控え目に答える。
幼少期より英語を学んでいるケイだが、VR機器の実用化後は、世界中の患者と交流するためその他のヨーロッパ言語も少しかじっていた。具体的にはフランス語、スペイン語、イタリア語が少々、ポルトガル語が最低限の挨拶といくつかの単語を知っている。ロシア語は手が出しづらく結局何も学ばないままだったが、現状、少しはやっておけばよかったと後悔しているのは内緒だ。
よし、これで出来た
ありがとう、完璧だな
小奇麗に飾り付けられた箱を手に、にこにことご満悦のケイ。ケイとはまた違った種類の笑みを浮かべたホランドは、励ますようにケイの背中を小突いた。
まあ、頑張りたまえ。Bonne(幸運を) chance(祈る)!
ハハッ、Merci bien(どうもありがとう)!
苦笑いしながら、箱を小脇に抱えて商会を後にする。
そして宿屋に戻る途中、このまま持って帰ってしまうとサプライズプレゼントにならないと気付いたケイは、どうにか隠そうと苦心した結果、腰の弓ケースの中に箱を収めることに成功した。
(許せ、“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)”)
ケースの中で窮屈そうな相棒に、申し訳なさが募る。
戻ったぞー
宿屋にて。ケイが扉をノックすると、 お帰りー とアイリーンが鍵を開けた。
おっ
部屋の中のアイリーンを見て、ケイの目が一瞬点になる。
……着替えたのか?
うん
柔らかなランプの明かりの下、アイリーンは照れた風に微笑んだ。その身に纏うパウダーブルーのワンピースが、ひらりとケイの前で踊る。
……そんなの、持ってたっけ
えっと、実は、サティナで見つけてさ
微かに頬を染め、裾を撫でつけるアイリーンの上目遣いが、真正面からケイを射抜いた。
……似合ってるよ
……ありがと
えへへ、と笑うアイリーンを、ケイは最早直視できなかった。
その後、アイリーンに先に部屋を出て貰い、何とか鏡を隠した後、揃ってレストランへと出掛ける。
ル・ドンジョンは思ったよりも簡単に見つかった。お城の形をした看板が特徴的で、店の前にもでかでかと『Le Donjon』と書いてあったからだ。ホランドの危惧したとおり、一見さんお断りと言わんばかりに門前払いを食らいそうになったが、ホランドの書付を見せるとすんなりと中へ通された。常連と思しき客たちに奇異の目で見られつつも、案内されたのは小奇麗な個室。
ケイ、フランス語もイケるんだな!
……ちょっとだけな
控え目な言葉の割にドヤ顔のケイであったが、この後、メニューを手渡されて分からない単語のオンパレードに苦労する羽目となった。
取り敢えず最初に白ワインベースの食前酒(アペリティフ)を楽しみながら、パスタや子羊のグリル焼きなど、オーソドックスなメニューを注文する。オーダーから肝心の料理が来るまで随分と時間がかかり、その間にかなり酔っ払ってしまったが、その分クオリティは素晴らしいものだった。
前菜は生クリームと牛のひき肉、それに複数の香草を混ぜ合わせたムースだ。香り高く旨みの濃いソースが、舌の上で踊り食欲を掻き立てる。ケイはあっという間に平らげてしまったが、アイリーンはちまちまと名残惜しそうに食べていた。
続いて、パスタ。麺にコシがあり、ケイにありし日に食べた手打ちうどんを思い出させた。ケイの頼んだボロネーゼ風味と、アイリーンのカルボナーラ風味をそれぞれシェアしたが、どちらも申し分ない出来だった。特に、カルボナーラの方は、湿り気のある独特な香りの何かがふんだんに振りかけてあり、アイリーン曰くトリュフに似た食材ではないかとのことだった。
メインは子羊のグリル焼き。そしておそらくこれが、最も印象的な一品であった。一口食べ、二人とも動きを止めて、そのまま無言で完食してしまったほどに。羊であるにも拘わらず、まず肉に臭みが殆ど感じられない。ある程度の触感を維持しつつも柔らかく、噛み締めるごとに旨みが滲み出る。こってりと濃厚で、それでいてしつこさのない脂身。嚥下するごとに、もう一口、あと一口、と食べ進めてしまい、気が付けば皿の上には何も残っていなかった。
下拵えで、肉を念入りに叩いてるんだろうな
上品に口元をナプキンで拭いながら、そうじゃないとあそこまで柔らかくならない、とアイリーンは言う。確かに、ケイの方のグリル焼きには砕かれた骨の破片が混入していたので、アイリーンの推測は正しいのだろう。
デザートにはリンゴのタルト。頬っぺたが落ちそうになるほどの甘味は、勿論この世界において十二分に贅沢なものだ。そして、このところビールや葡萄酒など弱いアルコールにしか縁の無かったアイリーンも、ここぞとばかりに強めの蒸留酒を頼み、至極ご満悦の様子だった。
いやー美味しかった
また来ようぜ!
二人してほろ酔い加減のまま、良い気持ちで宿に戻る。今夜のディナーで銀貨が吹き飛んだが、それも仕方ないと納得のいく満足度だった。おそらく、またここに食べにくるのは確定事項といってもいい―ケイに至ってはル・ドンジョンで食事をすることを生きる目的にシフトしてもいい、とすら考えかけていた。
宿に戻ったあとは、交代で風呂に入る。地上階には、共用ではあるが小さな浴室が設けられているのだ。そしてこれが、ホランドが”HangedBug”亭を勧めた理由の一つでもある―まずはアイリーンが浴び、入れ替わりでケイがさっぱりと旅の疲れを洗い流した。
いやー良かった。満足、満足
ケイが部屋に戻ると、アイリーンはベッドの上でゴロゴロとしていた。風呂上がりで湿った金髪が、ケイの瞳には妙に色っぽく映る。服は再びワンピースをチョイスしたようで、微かに覗く太腿の白さが眩しかった。が、アルコールで適度に気が大きくなっていることもあり、ケイは何とか余裕を保つ。
サッパリした! ホント良かったよ、お風呂があってさ
全くだ、俺、風呂なんて何年ぶりだったことか
タオルで髪の毛を拭きながら、しみじみと呟くケイ。 あっ という顔をするアイリーンに、すぐに今のは失敗であったと気付く。
ああ、そうだ、アイリーン。実はひとつプレゼントがあるんだ
あくまで、ふと思いついた風に、ケイは話題を変える。部屋の隅の荷袋から、おもむろに、例のラッピングされた箱を取り出した。
おっ! 何それ! 何それー!
ベッドで身を起こし、まるで幼い子供のように、テンション高めにはしゃぐアイリーン。その隣に腰を下ろしたケイは、 はい と木箱を手渡した。
……開けていい!?
当たり前だろ
何を当然のことを、と笑うケイの前で、アイリーンは慎重に、まるで爆弾を解除するかのように包装紙を剥がしていく。
そして、箱の中、真綿の下から姿を現す、鏡。
……! 鏡じゃん!
ケイと鏡を交互に二度見して、アイリーン。目をまん丸にして驚く鏡の中の自分と、しばし見つめ合ったまま、絶句する。
……鏡じゃん!
欲しがってただろう?
いや、マジで……? やった! ありがとう! ありがとうケイ!
飛び上がらんばかりに喜びながら、鏡を手に、もどかしそうに、ありがとうの言葉を繰り返す。鏡を大事そうに箱の中に仕舞ったアイリーンは、満面の笑みを浮かべて、こちらに飛び込んでくる構えを見せた。
それを受けて、ケイが腕を広げると、体当たりするかのように抱きついてくる。ふわりと良い香りが漂い、一瞬視界が金色の髪で埋め尽くされた。
ありがとう! マジで嬉しい!
どういたしまして、そこまで喜んでもらえたら、俺も嬉しいよ
小柄で華奢な体躯を、そっと抱きしめながら、ケイも相好を崩す。アイリーンは きゃー と声を上げながら、ケイの胸元にぐりぐりと額を押しつけていた。
しばらく、そのまま和気藹々と抱き合っていたが、
…………
やがて―沈黙が降りてくる。
優しく見守るようなケイと、慈しむように見上げるアイリーン。
……アイリーン
最初に、少しだけ、勇気を出したのはケイだった。ちゅっ、と祝福するかのように、アイリーンの額にそっと口づける。
くすぐったそうに体を震わせたアイリーンは、それに負けじと、背伸びをするかのようにケイの額に唇を這わせた。
同じ高さで、二人の物言わぬ瞳が、向かい合う。黒と青の視線が、絡まり合う。
…………
水が流れるかのように、引き寄せられるかのように。
キスを交わした。
ちゅっ、ちゅっと小鳥が啄ばむかのような。他愛のない、確め合うひと時。お互いの息がくすぐったく、心地よくて、笑いながらも、止めることはなく。
しかし、どちらかが、唇を甘噛みしようとして―密やかな均衡は破られた。
蕩かすような―。躊躇いは、一瞬だった。
もはや、二人を分け隔てるものは、何一つとして存在しない。
頭の芯がしびれるような感覚。まぶたの裏で星が散るような。互いが互いを求めて交わし合う。それは、鳥肌立つような官能だった。ずっと、ずっと、いつまでもこうしていたい―と。そんな願いはしかし、やがて呼吸の限界に阻まれる。
ぷはっ、と。まるで溺れかけていたものたちが、息継ぎに喘ぐかのように。互いに、みっともないほど、呼吸を乱していた。全力疾走を終えたあとのように、心臓は早鐘を打っている。
……アイリーン
華奢な体を、抱きしめる。とくんとくんと、自分と同じような早さの心音が、たまらなく愛おしかった。
止まらない、もう、止まれない。湧き上がる、燃え滾るような欲求の予感に、おののいた。
ケイ……
少し体を引き離して、アイリーンがケイを覗き込む。
透き通るような蒼い瞳は、無言のうちに語る。アイリーンもまた、震えていた。
ふっと、天井で揺れるランプに、アイリーンは不安げな目を向ける。
―と。
部屋の外、大気が動く。
窓の隙間から吹きこんだ小粋な風が、ランプの明かりを、優しくかき消した。
闇の帳が下りる。暗い―しかし、ケイの瞳は、全てを映し出す。
はっきりと、白く浮かび上がるような、狂おしいほどに愛らしい、ひとりの少女の姿を―
アイリーン
耳元で囁いて、そっと、その手を引き寄せた。
あっ……
もう、理由など、なかった。
二人はもつれ合うようにして、そのままベッドへ倒れ込む。
夜は―これからだった。
30. 受難
ゆうべはおたのしみでしたね?
小鳥のさえずりが聴こえる。
窓から差し込む朝日に、ケイはぼんやりと目を覚ました。
朝か昼かも分からない曖昧な意識、寝起き特有の倦怠感。なぜか左腕が痺れていて、ほとんど感覚がなかった。夢うつつのまま寝返りを打とうとしたところで、何かが半身に抱きついていることに気付く。
とても柔らかく、温かなもの―。
寝ぼけ眼でそちらを見やると、きらきら輝く青い瞳。ケイの左腕に頭を預けたまま、微笑むアイリーンとぱっちり目が合った。
……おはよ
微かに頬を紅く染め、照れたように視線を逸らす。はにかむ彼女を見て、昨夜のことが色鮮やかに脳裏に蘇った。ああ、そうか、自分たちは結ばれたのだ―と。そんな想いが、すとんと胸に落ちる。
……おはよう
無意識のうちに、ケイもまた口元を綻ばせていた。シーツから覗く肌色、裸の肩の上、ほどかれた金髪がさらりと流れる。吸い寄せられるように、半ば衝動的に、アイリーンの頬にそっと手を添えた。同じ人間でも、男女でこれほど違いが出るものか、と―指先に伝わるなめらかな感触に陶然とする。
心地よさそうに目を細めるアイリーンを見て、ふと芽生えた悪戯心のままに、背中から脇にかけてのラインを指でなぞった。くすぐったそうに身をよじらせたアイリーンは、甘い声を洩らしながら、お返しとばかりにケイの上に覆いかぶさってくる。
―そのまましばらくじゃれ合っていたが、既に日は高く、空腹と喉の渇きもあったため、いい加減に起き上がることにした。
ところで、大丈夫か?
麻のシャツを羽織りながら、ケイ。ベッドの上で髪をまとめようとしていたアイリーンが、髪留めの紐を口に咥えたまま小首を傾げる。
ふぁふぃふぁ(なにが)?
その……身体の調子とか
うん、悪くはないな
どこか含みのあるケイとは対照的に、至極あっけらかんとした様子のアイリーン。
……そうか、ならよかった