そこに、褐色の影が割り込んだ。
馬賊の一人が、吹き飛ばされる。
―サスケ!
飼い主(ごしゅじん)の一人を襲われ、怒るサスケが男たちに襲いかかった。暴れ馬を数人の、それも怪我人が御すことなどできようか。
しかもサスケは、ただの暴れ馬ではない。
ぐぁ―!!
横合いからサスケに剣を突き立てようとした男が、血飛沫を上げて倒れ込む。サスケの前脚、かかとの部分から骨のような刃が飛び出し、すれ違いざまに男の胴体を切り裂いたのだ。
―バウザーホースじゃと!!
さしもの老獪な魔術師も、今度こそ呆気に取られた。猛り狂う、馬の形をした魔物の姿を、本来ならばこの地方にいるはずのない存在を、思わず凝視する。
その、間隙。
本来ならば、アイリーンを牽制するため、一瞬だけ視線を逸らすつもりだったのだ。
―Ekzekuciu(執行せよ).
その呟きが、届いたわけではない。
だが、蒼空にカァンッと響き渡る快音、そして大気を揺るがす魔力の波動。
―しまった!
慌てて視線を戻せば、矢を放ち終えたケイが、残心の姿勢でこちらを見ている。
空へ打ち上げられた矢―それを取り囲むように渦を巻く、風の精霊の魔力を感知した鴉の術者は―
―ハハッ! 何かと思えば、子供騙しか!
むしろ、嗤った。
ケイが放ったのは、風の精霊(シーヴ)が誘導する魔法の矢だ。
魔法の矢、と言っても、目標を緩やかに追尾するというだけで、この場合は鴉の術者を精確に射抜く以外の意図はない。矢そのものは代わり映えがないので、特に追加効果もない地味なものだ。
術の発動後の魔力の余韻と、矢を取り囲む精霊の有り様を感知し、術の性質を看破した鴉は、そうであるが故に嗤ったのだ。
(もっと小賢しい術を仕掛けてくるかと思っていたが……他愛もない。ただの誘導術式とはな。期待外れじゃのう)
邪眼を止め、枝からひらりと飛び降りた鴉は、樹の幹の裏側に身を隠した。
付与された術は、ただ矢を誘導するだけのもの。
飛んで逃げれば追尾される。魔術で物理現象を引き起こして防げば、魔力の消費が激しい。
ならば、障害物の裏に隠れて、矢を防ぐのが最も合理的な判断だった。
そして、その判断は正しかった。
―常(・)識(・)的(・)に(・)は(・)。
ドゴンッ、と轟音が木立を揺らし、鴉の術者の全身を衝撃が襲った。
熱い。
灼熱が、胸を突き破った。
愕然として、視線を下に向ければ―樹の幹を貫通した鏃が、胸から突き出ている。
―
馬鹿な、という思いがあった。矢に付与された術式は、魔力量から考えても、ただ誘導する役割があるだけのもので、攻撃力や貫通力を上げるものでは―
(―いや、)
そこで、合点がいった。確かに、樹の幹で防ぐという考えは良かった。だが、それは普通の弓を相手にした場合の話―
ケイが用いたのは、“竜鱗通し”。
鴉の術者には知る由もないが、竜の鱗すら貫き通す強弓。
事前に、あの馬賊に対する蹂躙戦を見て、弓の威力は知っていたはずだった。だが、まさか樹の幹を貫くとは―いや、判断を誤った―そうか、邪眼を逸らそうとしていたのは、この強弓を引くため―
次々に理解が及ぶ。だが冷静になると同時、魂を焼くような激痛が、術者の視界を白く染めた。
ギヤああああああアァアアァァァァッッ!!!
小さな鴉の身体から、びりびりと大気が震えるような絶叫が響き渡る。
それは遠く離れた隊商にまで届き、魂も凍るような断末魔の悲鳴に、一瞬、戦場の空気さえ止まる。
……お、御大将……
愕然と、そして絶望したように。腰を抜かして傍にへたり込んでいた怪我人が、怯えたように声をかける。
だが、矢に串刺しにされ、だらりと力なく垂れ下がる鴉の瞳に、もう赤い光は存在しなかった。
よいお年を!
48. 別離
今回は色々とエグい描写などもありますので、ご注意ください……
それは、雑然とした空間だった。
石造りの薄暗い部屋。天窓から差し込む細く弱々しい光が、部屋中に所狭しと並べられた奇怪な品々をぼんやりと照らし出している。奇形の動物の剥製や怪しいアルコール漬けの標本、瓶詰めの毒々しい色の液体に粉末、無数の書物・巻物、恐ろしげな拷問器具、用途が全く予想できない道具、エトセトラ、エトセトラ……。
そしてその中に埋(うず)もれるようにして鎮座する、天蓋付きの寝台。
大の大人が四人は悠々と寝転がれるような大きさだ。手の込んだ金や銀の装飾が惜しげもなく配されており、天蓋から下げられたレースのカーテンが細やかな模様を描く。手編みであることを考えると、恐ろしく手間がかかっていた。庶民には一生縁がないような贅沢品。
そこにゆったりと、沈み込むようにして身を横たえているのは、一人の老翁だ。短く伸ばした黒い髭、刈り込んだ黒髪。手や顔の深い皺はその年齢を窺わせるが、大柄でがっしりとした体躯は加齢故の衰えなど全く感じさせず、逆に頑強さと壮健さを無言のうちに主張しているようにも見えた。
しかし、眠っている―のだろうか、両手を胸の前で交差させ、ぴたりと時間が止まったように身じろぎすらしない姿は、むしろ死人のようだ。全身を包む、喪服じみた黒衣がその印象を強くする。
部屋の四隅には給仕服に身を包んだ四人のメイドたちが控え、表情もなく、楚々として主人の命を待っていた。上品に、そして全く同じスタイルに髪を切り揃えた彼女らは、全員が息を呑むような美貌と抜群のプロポーションを兼ね揃えている。が、顔色は紙のように白く、その無表情も相まって何処か人形じみた雰囲気を漂わせていた。
彼女らの暗い瞳は、ただ一点。
寝台の老翁に固定されたまま、動かない。
……ぐッ
と、その瞬間、老翁がカッと目を見開いた。
―ッガああああアアァァァッッ!
そして思い出したかのように絶叫し、跳ね起きる。
ぐうぅぅぅヲォ、おおおおぉ……ッ!
胸を掻き毟りながら、まるでナイフで臓腑でも抉られているかのような苦痛の声を絞り出す。ごぽっ、と胸の奥から不気味な音を響かせた老翁は、そのまま咳き込むようにして喀血した。どす黒く、粘つく血液が口から溢れ出し、寝台の上で滅茶苦茶にのたうち回る。見開かれた瞳は、真紅の虹彩を囲む白目までもが真っ赤に充血しており、もはや人外の形相を呈していた。
が、主人がそれほどまでに苦しんでいるにもかかわらず、部屋の隅で待機するメイドたちは微動だにしない。ただガラス球のような瞳で、黒衣の老翁を見つめるのみ。
ぐぅぅアアアァアッ、何故だッッ……、何故だアッ!
血反吐を吐きながら、老翁は叫ぶ。
たかがッ、憑依した使い魔を殺られた程度で、何故これほどまでに……ッッ!
苦しめられるのか。
告死鳥(プラーグ)の契約―それは鴉などの黒羽の鳥を支配し、使い魔としての使役を可能とする魔術。中でも、感覚を共有することで使い魔を自在に操ることができる『使い魔への憑依』は、非常に自由度の高い術式だ。擬似的な飛行、タイムラグのない情報伝達、使い魔を通しての遠隔的な魔術の行使など、その応用性はあらゆる魔術の中でも随一と言える。
『感覚を共有する』という性質上、憑依した使い魔が傷つけばその痛みも同時に味わう羽目になるのが唯一の欠点だが、精神的な苦痛を除けば術者本人に被害はなく、その苦痛すらも修練を積めばかなり軽減することができる。
はずだった。
しかし現実には、強烈な感覚の共有(フィードバック)により、老翁は肉体的・精神的に壊滅的なまでの被害を被っている。
(あり得ぬ……あり得ぬッ!!)
シーツを引き千切らんばかりに握り締め、血走った目で老翁は虚空を睨む。引きつけでも起こしているかのように全身がぶるぶると震え、その額には何本もの血管が青筋となって浮き出ていた。
あり得ない。
いや、あってはならないことなのだ、これは。
老翁の使い魔は、あの忌々しい異邦の弓使いに射殺された。樹の幹をも容易く貫き通す強弓、その威力は凄まじいの一言。それに伴う死亡時の反動も、かつてないほどに強烈だったことは認めざるを得ない。
だが、だからといって、ここまで精神と肉体を傷めつけられた理由にはならない。
確かにあの弓使いは魔術も併用していたが、あれは矢に特別な効果を付与するものではなく、ただ風の力で標的へ向けて矢を誘導するだけの術式だった。
仮に―あの矢に、呪いや特殊な魔力が籠められていたのであれば、術者へ悪影響が出るのも頷ける。
が、今まで幾度となく、使い魔を潰されたことはあり、それが魔力の籠められた武器や呪いによって為されたことも一度や二度ではないのだ。そしてその度に、老翁は図抜けた魔術耐性をもってして、それらの攻撃を無効化(レジスト)してきた。
それが。
今回に限って。
何故だ……!
老翁の長い生を振り返ってみても、使い魔を殺された程度で、これほど甚大な被害を受けたのは初めてのことだった。
不甲斐なさ。自分自身への突き抜けるような激しい怒りがあり、苛立ちに混じって喉の奥から血臭がこみ上げる。
―久しぶりだ。血反吐を吐くほどの苦痛を味わったのも、制御できないほど感情が荒れ狂うのも。
どうにかして寝台から起き上がる。天窓から差し込む光を睨むも苛立ちは収まらず、荒ぶる感情はむしろ加熱していく。壁際、無表情でこちらを見やるメイドが目に入り、その醒めた瞳が無性に腹立たしく思えた。
老翁はつかつかと歩み寄り、その首をぐいと掴む。
……何故だ
……ご質問の意図を、理解致しかねます
メイドはただ、無表情に答えた。元より返事を期待して問うたわけではない老翁は、厳しい表情のまま思考を巡らせる。
『あり得ない』とは言うが、実際問題として、心身ともに甚大な被害を被った。となれば、そうなった原因は必ず存在する。
―使い魔を殺された衝撃、感覚の共有(フィードバック)が強烈過ぎたのか? いや、あり得ない。以前もっと酷い殺され方をしたことはあるが、大してダメージは受けなかった。
―あの矢には何か特別な仕掛けが施してあったのか? いや、それもあり得ない。この世に存在する呪いの類は、自分ならば一目で看破できる。あの矢は間違いなく、何の変哲もない普通の矢だった。
―ならば、あの男は、『自分』を傷つけうる存在だったのか?
……!
老翁の表情が険しくなり、手にぎりぎりと力が篭もる。
そうだ。
その可能性に至り、思考が加速していく。
―そう考えれば(・・・・・・)、説明はつく(・・・・・)。
老翁が思考に沈む間も、その手の中でメイドの細い首はたわんでいき、紙のように白かった顔が徐々に鬱血していく。しかしメイドは無表情を崩さず、待機の姿勢のまま呻き声一つも漏らさない。
そうか……そういうことか…… Li estas la vizitanto … se li estas ekstere de la regulo, ĝi devus ne esti bizara…!
ある種、獰猛な表情となった老翁は、歯を剥き出しにして虚空を睨む。
おのれ……大人しくしておればよいものを、Kahmui……!
ぐっ、と老翁の全身に覇気が漲り。
ごきり。
鈍い音を立てて、メイドの首が砕けた。
無表情のまま身体から力が抜け、かくかくと細かい痙攣を起こす。
そこで初めてメイドの存在に気付いたかのように、老翁は手の中に視線を落として鼻を鳴らし、その体を放り捨てた。
抜け殻のようになって、どしゃり、と力なく床の上に転がるメイド。その口と鼻からつっと赤黒い液体が流れ出し、石畳に染みをつくる。
ゴミを片付けておけ
老翁が命じると、未だ身じろぎすらせずに待機していた残り三人のメイドたちが、恭しく頭を下げて動き出す。粛々と、表情を変えることなく、二人が元同僚の身体を部屋から運び出し、一人が老翁の血で汚れたシーツを取り替え始める。
それをよそに、先程までの荒れようが嘘だったかのように落ち着き払った老翁は、遠い目をして髭を撫で付けている。
……あの男、
脳裏に思い浮かべるのは、異邦の弓使いの姿。
……少々、本腰を入れる必要がありそうじゃな
ふン、と今一度鼻を鳴らした老翁は、ばさりと黒衣をはためかせ。
黒い羽根が散る。
羽音が部屋の空気を揺らし、僅かな天窓の隙間へと影が伸びる。
まるで、最初からそこに誰も居なかったかのように―僅かに数枚の黒い羽根を残し、老翁の姿は掻き消えていた。
†††
ケイが復帰し、本格的な反撃を開始すれば、馬賊の残存部隊も脆いものだった。