ちっぽけな洞穴だった。崖のような岩山の斜面に、ぽっかりと口を開いている。
鷹のようなケイの目がなければ、まず見逃していただろう。川にほど近く、鬱蒼とした木々の奥に隠れ、大きさも手頃な洞穴―『巣穴』、という言葉を連想する。あまりにも条件が整いすぎているため、ケイたちは当初、それがまさに野生動物の巣であることを疑った。
しかし『洞穴』と言っても奥行きはせいぜい数メートルで、人間が雨風を凌ぐ分には充分だが、例えば熊のような大型の獣が住処とするには狭すぎる。そして周辺に獣が棲んでいる気配―足跡や毛、獣臭、皮や骨などの獲物の食べ滓―は全く見当たらず、特に危険はないように思われた。
相談の結果、二人はそこを今夜の野営地に定めた。この手狭な洞穴は、ケイたちにとって快適な仮宿となるだろう。隊商から離れた今、寝床の確保から周囲の安全確認、夕餉の支度に至るまで、全て自分たちの手で行わなければならない。日が暮れる前に就寝の用意まで終える、くらいの気概でやらねば間に合わないはずだ。
追い立てられるようにして、二人は慌ただしく野営の準備に取り掛かった。
よし。んじゃオレは洞穴ん中、片付けとくから
頼んだ。俺は川に行ってくる
アイリーンが軽く洞穴を掃除する間に、ケイは水を汲みに行く。とは言っても、実際に運搬役を担うのはサスケだ。ケイが防水性の革袋に水を入れ、それをサスケに背負ってもらう。人力でやれば一仕事だが、サスケは日頃から完全武装のケイ(もっと重いもの)を乗せているだけに、それほど苦にした様子も見せない。
いつも世話になりっぱなしだな
ありがとう、とケイが首筋を撫でると、得意気になったサスケは でしょ? と言わんばかりに鼻を鳴らした。そのドヤ顔に 敵わないな と笑うケイ、労りの気持ちを込めてわっしゃわっしゃとそのたてがみを手櫛で梳いてやると、サスケは耳をピクピクさせながら心地良さげに目を細める。
本当に、転移当初から今日に至るまで、サスケはいつでも頼りになる相棒だ。ケイもアイリーンも、何度命を救われたかわからない。その駿足は他の追随を許さず、戦闘時は勇猛果敢な騎獣として振る舞い、人参や肉類を多めに出してやれば日々の雑用も厭わない。まさに愛すべき、大切な存在。
笑いが収まってから、ふと、ミカヅキのことを思い出した。
遠い目をしたケイは、懐に手を入れ、なめらかな皮の財布をそっと撫でつける。
労るように。
そして、ひとかけの苦い想いを噛み締めるように。
川から戻ると、アイリーンはひとしきり洞穴の掃除を終え、荷物の片付けを始めていた。ケイはついでに拾い集めていた適当な石で、洞穴の中に簡単なかまどを作り始める。火打ち石での点火も手慣れたもの―のはずだったが、木炭が湿気ていたせいで、火勢を安定させるのに少々手間取った。
どうにか起こした焚き火でお湯を沸かしながら、今度は洞穴の入り口を覆い隠すようにしてテントの布を張る。日没後、明かりで目立たないようにするための工夫だ。換気を考慮して完全には塞がないが、これでかなり焚き火の光が漏れにくくなるだろう。
ケイは『こちら』の世界に転移した初日、アイリーンが毒矢で死にかけた経験から、野営の明かりの管理にはかなり神経質になっていた。魔法仕掛けの”警報機(アラーム)“があるからといって、油断するわけにはいかない。“警報機”に頼らずに済む状況―すなわち、そもそも『敵』に見つからないことこそがより望ましい。
テントの布を張り終えた後も、念入りに、せっせと周囲の木々の枝を伐採しては入り口に立てかけ更なる偽装を進めるケイ。その執念さえ感じさせる―しかし状況を鑑みればあながち間違ってもいない―行動に、アイリーンは一瞬、申し訳なさとやるせなさの滲む何とも言えない顔をしたが、すぐに表情を明るいものに切り替えて手伝った。
なかなか悪くないな
すっかり枝葉で覆われた洞穴の入り口を前に、腕組みをして満足気なケイ。明るいうちに見れば違和感しかないが、夜の帳が降りれば、洞穴の明かりを程よく隠してくれるはずだ。隣のアイリーンもケイの真似をして腕を組み、 ふむ としばし考える素振りを見せた。
……そうだな。シャワー無し、ベッド無し、トイレ無し。コーヒーメーカーも置いてない。ホテルとしちゃ最低レベルだが、簡易かまど(ミニ・キッチン)はついてる。オレ的にはギリ一つ星ってトコかな
そいつは良かった
わざと偉そうに評するアイリーンに、ケイもおどけてお手上げのポーズを取る。そしてそのまま洞穴のテントの布を持ち上げてドアボーイのように一礼し、
どうぞ、お嬢様
あら、ごめんあそばせ
しゃなりと令嬢のように膝を折ったアイリーンは、そそくさとケイの腕の下をくぐり洞穴に入っていく。
口元に朗らかな笑みを浮かべたまま、今一度周囲に鋭い視線を走らせたケイは、異常がないことを改めて確認し、その後に続いた。
そうして、とっぷりと日が暮れる。
“警報機”を設置し、粥やサラミ、干し果物など、これまた代わり映えしないメニューの食事を終え、ケイたちはようやく一息つくことができた。入り口をテントの布と枝木で塞いだことにより、洞穴は一つの独立した空間となり、心細い二人旅の状況では思いのほか居心地が良い。
ぱちぱち、と火の中で薪が弾ける。
微かに吹き込む風にあわせて、ゆらゆらと二人の影が揺れる。
……はい、これ。お茶
ありがとう
ケイが壁面に背を預けてぼんやりしていると、隣り合って座るアイリーンがカップを手渡してきた。城郭都市サティナで買い、『こちら』で生活する間に、すっかり手に馴染んだ木製のカップ。すぐには口をつけず、ケイは手の中で揺れる薄茶色のハーブティーに視線を落とした。ほのかに香るカモミール―アイリーンも自分のカップに残りを注ぎ、空になった手鍋に水を足してかまどの三脚に戻す。
沈黙。
ふぅ、と息を吹きかけ、少し冷ましてからケイはお茶をすすった。
くつくつ、と手鍋の立てる音に外の静けさを意識する。自身の神経がまだ張り詰めていることを、ケイはおぼろげに自覚した。
んー。なかなか悪くないな
ちゃぷちゃぷとお茶を揺らしながら、やけに暢気な口調でアイリーン。
ん?
いや……二人旅もやっぱ、良いなって
ああ―
頬を緩めて、肩の力を抜いて―ケイも頷いた。
―そうだな
異論は、なかった。馬賊の脅威がなくなった今、他人に気兼ねせずに二人で過ごせるのは楽だし、アイリーンと一緒に居られる時間が増えたのは純粋に嬉しい。
唯一、隊商から離れると水が安定供給しにくくなるのが最大の懸念だったが、こうして川に行き当たったのは僥倖であった。最悪、水源が見つからなければ、大きく迂回してブラーチヤ街道に戻り隊商に先行する形で既知の水場を利用していく予定ではあったものの、トラブルの可能性を考えるならば、他者との接触は極力避けた方が望ましい。鳥や野生の獣は道中で何度も見かけたので、水さえ手に入るなら食料に関してはどうにでもなるのだ。
そろそろ何か別の物も食べたいところだ。このメニューも悪くはないが
最早旅のお供となりつつある、食べ終わった粥の皿と、サラミの切れ端を見やりながらケイ。 だなー! とアイリーンも調子よく相槌を打った。
オレも飽きてきた。別のもんも食いたいよなー……うん……
が、言ってる途中で勢いを失って、言葉は尻すぼみになっていく。両手で包み込むようにしてカップを持ち、底をじっと覗く彼女は、遠い目で。
ケイの知らない、何か別の物を見出しているようだった。
しかし、夢を見るようなぼんやりとした顔も束の間。ケイが眺めているうちに、突如として眉をひそめ、表情を険しいものとするアイリーン。動悸を起こしたかのように、呼吸がかすかに荒くなる。体操座りで小さく背中を丸め、その顔は、焚き火の明かりに彩られて尚、青白い。
……はは。割と冷えるな
ケイの視線に気づいたアイリーンは、誤魔化すように笑った。
その取ってつけたような笑みに、ケイの胸の奥底がざわつく。先ほどからずっと感じていた、不協和音のような違和感を無視できなくなる。
……アイリーン
唇を引き結んだケイは、カップを傍らに置き、アイリーンの肩を抱き寄せた。
アイリーンは一瞬、びくりと震えた。
だが―そのまま力を抜いて、身を委ねてくる。
…………
華奢な体だった。軽いし、細いし、柔らかい。それでいて並の男などものともしない膂力を誇り、ケイでは逆立ちしても勝てないような剣撃をこの細腕から繰り出す。事実として知っていながらも、半ば信じがたい気分だ。
本来なら、この腕の中にある印象こそが正しい姿なのだと思う。
ゲーム時代の能力をほぼ受け継いでしまったからこそ、良くも悪くも今のアイリーンがある。少女の人格とは乖離した、あまりに洗練された戦闘技術。そしてそれを可能とする身体能力。
アイリーンの髪の端にこびりつく、黒ずんだ汚れに気づき、ケイは瞑目した。
この日、彼女はその力を十全に行使したのだ。己を守るため。ケイを助けるため。
ケイ独りには不可能だったのだ。全てを守り切ることなど。
どうしようもなかった―
はぁ……と、抑えきれないケイの微かな嘆息が、アイリーンの金髪をくすぐる。
アイリーンはちらりと物憂げに視線を動かし、口を開きかけたが、結局は何も言えずに俯いた。
語るべき言葉が見つからない。
互いの鼓動を間近に感じながら、じっと焚き火を見つめていた。
ただ、沈黙に沈み、揺らめく炎を眺めていると、心の内、影絵のように黒々と炙り出されていくものがある。
さながら走馬灯のように。
誰かの顔。
思い出す。死を目前にした人々の表情。
不思議と、“竜鱗通し”の餌食となる者は、最期に皆似たような顔をすることが多い。何が起きたのか、起きようとしているのか、わからぬまま死んでいく。呆気に取られたような、およそ死の直前には似つかわしくない、きょとんとした顔はユーモラスであるようにさえ感じられて、ケイの記憶にこびりつく。
そして時折、思い出す。ひどく薄ら寒い感覚と共に―
アイリーンは、と。
壁面に虚ろな視線を這わせ、ケイは思う。
この、腕の中で震える少女は、いったい何を想っているのだろうか。
アイリーンが? と、未だに信じ切れない思いさえある。ただ、ケイはしかと見たのだ。アイリーンのサーベルが馬賊の首を刎ね飛ばす瞬間を、はっきりと。
確かに、アイリーンはサティナの誘拐事件で、誘拐犯を傷つけた経験はある。しかし人を殺めたのは、今日が初めてのはずだ。
ずきりと、ケイの胸がうずく。アイリーンの心にくすぶっているであろう懊悩を想像すると、胸が引き裂かれるような想いだった。先(・)達(・)としてアドバイスできることなど何もない。死体の山を築いて尚、まだ良くわかっていないのだ。あるのは、底なし沼に徐々に嵌っていくような焦燥感と、後味の悪さだけ―。
そしてそれは未だに解決していない。
―ケイ
突然。
アイリーンの呼び声に、はっと顔を上げた。
……どうした?
一拍置き、努めて平静を装って答える。
しかし、アイリーンはなかなか切り出さなかった。俯いたまま、自分の足のつま先をじっと見つめている。
夜の空気はいよいよ静かだ。ケイはただアイリーンの言葉を待つ。のっぺりと、時が引き伸ばされていくような感覚。彼女が何を想うのか。少し恐ろしくもあったが、ケイは知りたかった。
やがて、切り出したときと同じように、唐突に。
……ごめんね
アイリーンはぽつりと呟くようにして、言った。
ゆっくりと、ケイは目を瞬く。純粋に、その意を測りかねた。人を手に掛けたことを思い悩んでいるのだろう、と考えていただけに、何故自分に謝るのかがわからない。
……なぜ?
それを直接、問うことは憚られた。説明を強いれば、それがアイリーンを苦しめるとわかっていたから。だがその真意が読めない以上、尋ねざるを得なかった。
怖れたとおり、アイリーンは歯を食いしばって、絞り出すように、
ケイに……また、戦わせてしまった
ぽかん、とケイは呆気に取られた。
アイリーンのせいじゃない……!
即答。声を荒げぬよう、自制するのは容易ではなかった。突然、心に湧いて出た怒りの矛先を、どこに向ければよいのか、自分でもわからない。ただその相手がアイリーンでないことだけは確かだった。
そんなケイの心情を察してか、アイリーンは疲れたように低く笑い、自嘲の気配を漂わせる。
オレが……