早朝、自室で目を覚まし―幼い頃から入院生活を送っていたケイには、実家に自室などなかったのだが―おそらく休日だったのだろう、リビングで両親や弟と一緒に、朝食を食べる。
本来なら、ケイは弟と絶縁状態にあった。昔、 俺も兄ちゃんみたいな身体だったら、いくらでもゲームできたのに と言われ、ケイがブチ切れたためだ。しかし夢の中ではそんな過去もなかったことになっていて、普通に仲の良い兄弟として、一緒にテレビを見たり、他愛のないことを話しながら過ごした。最後に直接見た、おそらく十歳ほど若いままの姿の両親も、そんなケイたちを微笑ましげに見ていた。
ケイの想像する、『普通の家庭』。
そんな夢だった。
朝、洞穴で、鳥の鳴き声を聞き、目を覚ましたとき―ケイはまだ、夢の現実感を引きずっていた。自分が地球の、あるはずもない自室で目を覚ましたような、そんな錯覚に囚われた。
それが夢であった、と気づいた瞬間、ケイの心を満たしたのは、寂しさだ。
おそらく、久しく感じたことのない、郷愁というものだった。
実際、ケイには選択肢がない。地球への帰還が可能だったとしても、ゲームの肉体のまま戻れないなら、待っているのは遠くない未来での死だ。
ケイは死にたくはない。まだまだ生きたいと願っている。
ならば、『こちら』の世界に留まるしかない。
そう考えると、心はぴたりと定まり、迷いは一片もない。
しかし―どうだろう。
帰ったとき、そこに、それなりに日常生活を送れる肉体があったとしたら。
そう仮定して考えてみると、一気に決心が揺らぐのを感じた。
地球の生活は魅力的だ。少なくとも日本ならそれなりに安全だし、物は豊富にあり、インフラも整っている。
ロシアも、それは大して変わらないはずだ―
少なくとも、一歩間違ったら馬賊に襲撃されて、血みどろの殺し合いに巻き込まれるような、そんな物騒なことは、概ねない。
アイリーンは以前、自身の気持ちを『迷いがある』と表現していたが、それも納得だった。ケイでさえ、想像するとこれほどまでに心が揺れるのだ。いわんやアイリーンなら―推して量るべしだ。迷うのも当たり前だろう。
果たして、この世界に留まることが、普通の人にとって『幸せ』なのか。
ケイにはわからない。それが、アイリーンにとって、どうなのかは―正直なところ、今はまだ、あまり考えたくない。
だが、答えは近いうちに出るだろう。
ケイに続いてアイリーンも目を覚まし、朝食を摂った二人は、すぐに洞穴を発った。
目指すは、当初の目的地。“魔の森”に最も近いとされる、シャリトの村だ。昨夜はあんな話をしたが、ここまで来て今更引き返すわけにはいかない。行けるところまで行くまでだった。
アイリーンの顔色は依然として冴えない。
まあ、それはそうだろうな、とケイは思う。一日二日でけろりとしてしまうのは、それはそれで恐ろしいような気もする。
アイリーンの内なる葛藤など知る由もないケイは、彼女の反応は至極まともである、とそんな風に認識していた。
ただ、塞ぎこんでいるアイリーンを見ていると、否応なくケイは、彼女にとっての『幸せ』を考えてしまう。
悩み、考えるケイたちを他所に、それでもサスケとスズカは進む。
その後は、特に支障はなく、思いの外順調な旅路となった。
川を辿って新たな街道に合流し、中間目的地であった都市”ベルヤンスク”をスキップして、直接”シャリトスコエ”に向かう。充分な水源と点在する村々のお陰で物資の補給にも事欠かない。ケイの容姿のせいで現地民との交流が難しくなる恐れもあったが、北の大地の北東部では馬賊の悪評はそれほど広まっておらず、事なきを得る。
ケイたちがシャリトの村に到着したのは、隊商から別れて四日後のことだった。
事前の情報で、『小さな辺境の村』というイメージを持っていたが、実際の村の様子は想像とは大分異なっていた。
まるで小さな要塞だな……
森と平野の境目に位置する集落を遠目に見て、ケイは感心したように独り呟く。丸太を地面に直接打ち付けたような、頑丈な木の壁にぐるりと囲まれた村だ。親指を立てて高さを測ると、壁は優に三メートルはありそうだった。大抵の獣や野盗ならば、簡単に跳ね除けられそうな防備だ。
要塞村、って他の村の住人が言ってたな
ここ数日で大分調子を取り戻しつつあるアイリーンが、ケイの独り言を聞きつけて補足する。
成る程。言葉通りだな
シャリトは人口百名ほどの辺境の集落らしいが、建物などはそれぞれ立派な造りであることが看て取れる。何か特産でもあるのだろうか―少なくとも、公国の書物では具体的には触れられていなかったが。
スムーズに入れると良いんだが
見るからに『開放的』じゃなさそうだもんなー
二人して顔を見合わせる。
果たして、その懸念は現実のものとなった。
『止まれ! 何者か!』
ケイたちが村まで近づいた時点で、入口の門の傍、見張り櫓のような建物の上から、弓を手にした村人が誰何(すいか)してきた。
村人―と、この場合は表現する他ないのだろうが、筋骨隆々の中年の男が、板金仕込みの革鎧で武装している様は、まさに戦士だ。一目で猛者とわかる立ち居振舞い、威容。ようやく『北の大地』らしい雪原の民が出てきたな、と顔布の奥でケイは皮肉に笑う。
『怪しい者じゃないわ! 訳あって”魔の森”に用があるの。貴方のところが、一番近い村でしょう?』
アイリーンが答えると、門番は はぁ? と訝しげな声を上げる。しばし、自分たちの境遇―霧の異邦人(エトランジェ)のことをそれとなく伝えると、門番の男は『ちょっと待て、人を遣る』と言い、櫓を降りていった。
さて、どうなるか……
というか、昼間でも門を閉じてるんだな、この村は
気を揉むアイリーンに、村を仔細に観察するケイ。
待たされること数分。
ギギギィッ、と重い軋みを上げて、村の門が開かれた。
『貴様らか、旅人というのは』
そして、その奥から独りの偉丈夫が姿を現す。
“獅子”。
ケイたちが、真っ先に連想したのは、その言葉だ。
壮年の男だった。がっしりとした体格。ぴったりとした革の服の下には筋肉の線が浮かび、白髪交じりの長い金髪と立派に蓄えたあごひげは、まさにたてがみのようだ。見るからに、強い意志の光を湛える双眸は、アイリーンのそれよりも薄い水色。腕を組み、門の真下で仁王立ちにした姿からは覇気が滲み出ており、一目で只者でないことがわかった。
『ええと……貴方は?』
若干、引き攣った笑顔を浮かべて、アイリーン。
『この村のまとめ役をやっておる者だ。セルゲイという』
『よ、よろしく……わたしはアイリーン』
馬から降りて会釈するアイリーン。ケイも続いてサスケから降り、フードを跳ね上げて顔布を取り去る。
ケイのアジア人的な相貌を目にしても、男―セルゲイの厳つい表情は、微塵も動揺を見せない。
Nice to meet you. My name is Kei
ただ、ケイが公国語で話すと、ぴくりと眉を動かした。
……なんだ、貴様は草原の民か?
流暢な公国語。ケイとアイリーンは思わず顔を見合わせた。
どうした、何がおかしい?
ああ、いや……流暢な公国語で、少々驚いた
今までの村々でも、ここまでスムーズに英語が話せる雪原の民は、早々お目にかかれなかった。まさかこんな最果ての村に、外国語を使いこなす住民がいるとは思ってもみなかったのだ。
ケイたちの反応に、セルゲイは少し得意げになって、フンと鼻を鳴らした。
ワシも若い頃は、武者修行で各地を回っておったからな。公国語なんざお手の物よ。……で、貴様は草原の民か?
最初の質問に戻る。ケイはゆっくりと首を横に振った。
いや。よく間違えられるが、Japaneseという別の民族だ。彼女(ツレ)が話した通り、訳あって遠くからやってきてな……一応、公国、というか要塞都市ウルヴァーンの市民証もあるが、兎に角草原の民ではない
……最近では、草原の民が物騒なことをしておると、風の噂に聞いたからな
じろりと、ケイの頭からつま先まで、胡乱な目で睨めつけるセルゲイ。
ウチの村では下手な真似はしないことだ。皆、それなりに腕に覚えはあるからな。ただし行儀よくするならば客としてもてなそう。立ち話も何だ、まあ入れ
くるりとケイたちに背を向け、さっさと歩き出すセルゲイ。しかし何かを思い出したかのようにすぐに振り返り、
Welcome to(ようこそ) Сяльто(シャリトへ)
サッ、と手を広げて一言。そしてそのまま再び歩き出す。
…………
ケイたちは、今一度顔を見合わせた。
まだ油断ならないが、意外と茶目っ気のある人物なのかも知れない。
サスケとスズカを連れて、ケイたちも村に入る。
成る程、セルゲイが言っていたのは事実だろう。先ほどの門番とセルゲイ本人を見た時点で薄々察していたが、この村の住人はかなり鍛えられているようだった。
村のあちこちで見かける男衆は、例外なくがっしりとした体つきで、アイリーン曰く重心の安定度から何らかの武術を修めているのはまず間違いないだろうとのことだった。女衆でさえ、時たまケイより強そうな雰囲気を漂わせている者がいる。例えば今しがた通りがかった軒先の中年女性などは、ケイの太腿ほどの腕の太さを誇り、生半可な木ならば一撃で叩き折れそうな貫禄を備えていた。
皆、余所者であるケイたちに、物珍しげな視線を向けている。所謂、排他的な刺々しさは感じなかったが、ケイやアイリーンの力量を推し計ろうとするかのような気配があった。只者でない、という点では、ケイたちも大概だ。しかし一目でそれとなく察するとなると、つまり村人たちも尋常ではない、ということなのだろう。
どんな不届き者も、この村に入れば悪さをする気を失おうというものだ。少なくとも治安は安定しているように見える。逆に、村ぐるみの追い剥ぎに遭おうものなら、魔術でも使わないかぎり勝ち目がなさそうだったが。
セルゲイに案内されたのは、村の端に位置する大きな屋敷だ。村長の家、ということらしい。
『タチアナ! 茶を淹れてくれ。客人だ』
『あらあら、珍しい。これはまた別嬪さんといい男じゃないかい? とっておきの茶菓子もつけようかね』
セルゲイの妻だろうか、恰幅の良い肝っ玉母さん風の女性が炊事場へと小走りで飛んで行く。リビングに通されたケイたちは、荷物を置きながら薦められるがままにテーブルについた。
そういや、公国の市民証があるって話だったか?
ああ、一応。名誉市民だがな
ほーう、そいつァまた珍しい。かれこれ数十年生きてるが、本物にはお目にかかったことがないんだ、良かったら見せてくれ
お安いご用さ
言葉が通じるのはなんと素晴らしいことだろう、としみじみ思いながら、ケイは懐から市民証を取り出す。アイリーンのお陰で慣れているので、雪原の訛りも聞き取りには全く問題ない。
物珍しげにしげしげと紙面に視線を落とすセルゲイ。会話が途切れたケイたちは、さてこれから何をどう話したものか、と思索を巡らし始めた。
が。
そのとき、リビングの扉がバタンと開いて、金髪の青年が颯爽と入ってくる。
『親父! 今度の狩りの件なんだが―』
ハキハキとした声でセルゲイに話しかけようとしていた青年は、ふと、リビングで寛ぐ客人(ケイ)たちに視線を向けて、その水色の目をまん丸に見開いた。
あぁ!!
はっ?!
えっ!?
青年、ケイ、アイリーンと、三者三様に素っ頓狂な声を上げる。
…………!!
全員、二の句が継げない。
ケイの市民証から顔を上げたセルゲイは、呆気に取られて硬直する三人を見やって、訝しげに首を傾げた。
なんだ、知り合いか? アレクセイ
父親の声に、はっと我に返った金髪碧眼の青年は―引き攣った笑みを浮かべ、ぎこちなくケイたちに手を振った。
よ、よお……久しぶり
アレクセイだった。
50. 再会
ガッハッハッハ、と豪快な笑い声が響き渡る。
いやはや、まさか貴様が例の弓使いだったとはなぁ!
屋敷のリビングにて、笑いながらケイの背中をバンバンと叩くのはシャリト村の長、セルゲイその人だ。あまりの馬鹿力に座ったまま前へつんのめるケイ、隣でどう反応したものか困り顔のアイリーン。テーブルを挟んで反対側のアレクセイは、腕を組んでなんとも渋い顔をしている。
ほほー……アンタがねえ……
彼女、美人さんじゃない? ねえエリーナ
な、なんで私に振るんです?