言葉は、血が滲むようだった。
オレが……北の大地(ここ)に来るなんて、言い出さなければ……
―
理屈としては確かに、その通りだ。あまりに当然のことに、虚を突かれて一瞬、納得してしまう。
だから、沈黙は雄弁な肯定となった。そしてそれは、アイリーンの言い分を認めるということでもある。
ケイはガラス細工を床に取り落としてしまった職人のように、俄(にわか)に慌てた。
……俺は大丈夫だ(I’m fine)。問題ない(No problem)
硬い声で、言い切る。気まずい沈黙の気配を振り払うように。
俺はむしろ、アイリーンが心配なんだ
その金髪を、頭を撫でながら、やや強引にそう続けた。子供をあやすように、ぎこちない笑みを浮かべて。
ぐるりと首を巡らせ、斜めにケイを見やるアイリーン。
蒼い瞳が、ケイの顔を捉える。
揺れる、視線。
ふと―少女の表情に、寂しげな影が落ちる。
……大丈夫さ(I’m fine)
返答は言葉少なに、短く。
それきり、焚き火に向き直って、内側に沈み込んでしまう。
…………
今度こそ、本当の沈黙が訪れる。
―大丈夫なはずがないじゃないか。
咄嗟に出かかった声を、ケイはどうにかして飲み込んだ。明らかに、普通じゃないし、アイリーンが苦しんでいるのは一目瞭然だった。
大丈夫だと、口では言うが。
だったらなぜ、こんなにも震えている?
そして、なぜ―それを言ってくれないのか。
アイリーンの頭を撫でながら、ケイは深い悲しみに襲われた。
これ以上の詮索はしないし、できない。
ここで、 本当に? と問いかけても、アイリーンは 本当に大丈夫だよ と答えるだけだろう。それがわかっていたから。
―互いの距離は、こんなにも近いのに。
とくん、とくん、とアイリーンの鼓動が、伝わってくる。
これ以上、近づけない―
悲しかった。
アイリーンに気取られないよう、細く長く息を吐いて、俯いた。
ケイもまた、内向きの思考の渦に囚われそうになる。
だが、ふと。
傍らに置きっ放していたカップに、目を留めた。
揺れる薄茶色のハーブティー。そこに映り込む、自分の顔。
沈んだ、顔。
それを目にした瞬間、ケイは雷に打たれたように固まった。
衝撃を受けた。
今の自分もまた―アイリーンには、『そう見えているのかも知れない』、と。
気付かされたから。
ああ、と。
すとん、と心に落ちてくるものがある。
ケイは、アイリーンを傷つけたくない一心だった。
そもそもケイ自身、己がどう思っているかなど、いまいち判断がついていない。
そんなことよりも、ただアイリーンが心配だった。
だから言ったのだ。 大丈夫だ と。
だが―それは、アイリーンからしたらどうなのだろう。
先に表情を塗り固めていたのは、ケイの方ではなかったか。
距離を取っていたのは、むしろ―。
アイリーンは、ケイが苦しんでいると思っている。
なぜなら、自分のせいでケイが戦う羽目になったからだ。
命がけで。傷ついて。死にかけながら、殺して。
そんな過酷な状況に曝され、傷つかないはずがないと。
ケイは、アイリーンが苦しんでいると思っている。
なぜなら今日、彼女は初めて人を斬ったからだ。
血みどろの惨劇と、人間の悪意の暴風に曝されて。
傷つかないはずがない。彼女は優しすぎるから。
それでも、アイリーンは 大丈夫だ と言った。
でもきっとそれは、ケイに嘘をつきたいからじゃなくて、ケイを心配させたくなかったからだ。
あるいは、ケイが苦しんでいるのに、自分に苦しむ権利がないと思っている。
アイリーンは真面目だ。
苦しんではいけないと思いながらも、苦しんでいる。
きっと―
本当は、つらくて堪らないはずだ。
今のケイと同じように。
互いが互いを心配して
傷つけたくなくて
遠ざけようとして 近づこうとして
でもそれはできなくて
―悲しかった。
ただ、悲しいだけではなく、熱くこみ上げてくるものがあった。
……ケイ?
頭を撫でる手も止めて、黙りこんだままのケイに、アイリーンが振り返る。
そして青い目を見開いた。
ケイの瞳からこぼれ落ちる、一筋の涙に気づいた。
―ケイ!? どうしたんだ!? どこか痛むのか!?
動転し、ケイの全身をぺたぺたと触りながら、こちらを覗き込んでくるアイリーン。ただひたすら、心から、ケイのことだけを心配している顔だった。
……違うんだ
ゆっくりと頭(かぶり)を振って、思わず手を伸ばしたケイは、アイリーンを抱き締める。
違うんだ……
今一度、呟く。
どうやら痛みのせいで泣いているわけではないらしい、と理解したアイリーンは、少しばかり落ち着きを取り戻しつつも、心配げな様子を崩さない。
……ケイ?
抱き締められたまま、ちらりと上目でケイの様子を窺うアイリーン。また心配させている、と思いながらも、はらはらと溢れる涙は止まる気配がなかった。
何かを言おうとはするが、なかなか言葉が出てこない。今度は、ケイがアイリーンを待たせる番だった。
……わからないんだ
ぽつりと。
さっきは、『大丈夫だ』って言ったが……本当は、自分でもわからないんだ。人を殺したのは、今日が初めてじゃない。それに……先に襲ってきたのは、奴らだ。状況的に他に手はなかった。納得はしている、と思う。でも……だからと言って何も感じないわけじゃない……
一度口を開けば、訥々と。
理屈じゃわかってるんだ。選択肢がなかったって。あそこで誰も殺さずに済む手段があったなら、俺はそれを選んだと思う。だが、そんなものはなかった。これは……辛いのかな。やっぱり良い気持ちはしない。今夜は悪い夢でも見るかもしれない。でもな、アイリーン
ぐいと涙を拭って、アイリーンを見据えた。
でも、それ以上に、お前のことが心配なんだ
自分のことは―アイリーンに比べれば、ちっぽけなことだ。
俺は良いんだ。こうして元気に生きてるし、暗い気持ちも、寝てりゃそのうち忘れるって経験でわかってる。でもアイリーンは……俺とは事情が違う。初めて『こっち』で人を手に掛けたときは、……今となっちゃあんまり憶えてないが、やっぱり数日は引きずった。『あんなこと』のあとじゃ……普通ではいられないよ
いられるはずがない。
だから、辛かったら、苦しかったら、遠慮せずに言って欲しい。泣きたいなら泣いてもいい。……俺に、泣きながら言われるのも、変な話かも知れないけどさ
抱きとめた胸元で、アイリーンの頭を撫でながら、ケイはしみじみと言う。
一人で抱え込むのは……色々と、辛いから
アイリーンは、半ば茫然とケイの言葉に聞き入っていたが。
……ケイ
きゅっと表情を歪めて、俯いた。
……オレも、わかんないんだ
ぼんやりと、アイリーンは自分の手に視線を注いでいる。
ケイの言ってること、よくわかるよ。でも、あんまり、現実味がないっていうかさ
……ああ
……感触は、割と印象に残ってるっていうか。意外と手応えないんだな、とか、そういうの。はは、変だよな。もっと他に手が、とか、別の方法が、とか、誰でも似たようなこと、きっと考えるんだろな……
泣き笑いのような表情をしたアイリーンは、こちらを見つめ―そのままぐりぐりと顔をケイの胸板に押し付けてきた。
ごめん……! ホントにごめん……!
押し殺すような、引き裂かれるような。
静かだが、悔恨にまみれた、どこまでも悲痛な声だった。
ケイは目を閉じて、アイリーンの背中をさする。
いいんだ。本当に。気にするな、って言っても、難しいだろうが……
でも……っ、オレが言い出さなきゃ……っ
そうやって、自分を責めないでくれ……アイリーンが落ち込んでたら、俺も悲しい
そうは言っても、無理があることくらい、ケイにもわかっている。 それじゃあまあいいか とすぐに開き直れるなら、誰も最初から苦労はしない。アイリーンは自責の念に駆られるだろうし、それまでするな、と言えば心の出口を塞ぎかねない。
だが、これがケイの素直な気持ちだ。
来る前から、リスクは重々承知していた。二人で決めたことだ。だから、自分だけを……あまり責めないでくれ
しばらく答えはなかった。アイリーンの性格上、到底すぐには納得できないだろう。
だがやがて、アイリーンは、 ……うん と、消え入りそうな声で答えた。
それに、考えてもみろ。俺たちが居なければ、多分隊商は全滅してたぞ
……そう、だな
ピョートルやランダール、まあ、あと……諸々、隊商の皆を助けられたんだ。結果としては、悪いことじゃなかったはずだし、それは誇ってもいいだろう
全てを肯定して良いわけではない。だが、肯定的側面というものも確かに存在する。
アイリーンの反応は芳しいとは言えないが、心の片隅にでも、それを留めておいて欲しいとケイは思う。何よりも、今は時間が必要だ。自分の中で整理をつけるだけの時間が―外からとやかく言うよりも、それが一番の特効薬となる。
ただ、その一助となれば、と。
自身の経験を振り返りながら、ケイは切に願った。
ゆっくりと、腕の中のアイリーンの背をさすりながら、焚き火を眺める。アイリーンは、泣いていなかった。ただ表情を消して、自責と後味の悪さに苦しんでいる。
なぜ、こんなにも彼女が苦しまねばならないのか。ひとり嘆くケイは、
……なんで、馬賊の連中は、わざわざ北の大地(こんなとこ)まで来たんだろうな
自然、心に浮かんだ疑問をそのまま呟いていた。連中さえいなければ、というそんな単純な思考。
びくりと体を震わせたのは、アイリーンだ。
ケイは、雪原の民の言葉(ロシア語)を解さない。
だから、これまでの道中で出会った人々や、隊商の皆の会話を、ほとんど把握できていないのだ。
対するアイリーンは、大体の事情に通じている。
北の大地。公国との紛争。売り払われた奴隷。草原の民の女子供たち。
ケイは―言っていた。
自分たちがいたことで、馬賊を撃退できたと。そして隊商の皆を救えたと。
それを誇っていいはずだ、と。
そう語るとき、彼の口調は確かに軽かった。肯定的側面。ケイにとってそれは、今回の殺人を肯定する、よすがであるに違いなかった。
では―どうだろう。
もし、ケイが、知ってしまったら。
ケイが何十人と手をかけた馬賊たちは、実は奴隷として売り飛ばされた同胞の女子供たちを救うため、公国から遠路はるばるやってきたのだ、と知ったのなら―
ケイは、どう思うだろう―?
……ッッ!!
言えるはずがない。
そんなこと、今のケイに言えるはずがなかった。
アイリーンは、ケイの胸に顔を埋めたまま、歯を食いしばる。
なんで、だろうな
答える声は、震えていた。己の罪深さに押し潰されてしまいそうだった。
こんなことなら、初めから、北の大地になど来るべきではなかったのだ。断固として地球に帰還する、という意志があったならまだしも、ただ迷いがあった程度で、ケイをこんなことに巻き込む権利があるはずもない。
なのに―自分は―
わかんないよなぁ……
一方で、アイリーンの言葉をそのまま受け取ったケイは、ぼんやりと、そして、どことなくのんびりと首肯する。
それを聞いて、アイリーンの中で、何かが弾けた。
くっ、ぅぅぅ……
食いしばった歯の隙間から、声が漏れる。胸がきしみ、頭に血が上り、両目に熱い涙が溜まっていくのが抑えられなかった。
泣きたくない。
辛いとき、ただ泣いて縋るだけの女になりたくなかった。
だから、意地でも泣くまいと思っていた。
でも、もうダメだ。あまりにケイに申し訳なくて、悲しくて、情けなくて。
それでも、優しく撫でてくれる手が愛おしくて。
色んな感情がごっちゃになって、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちる。もう何も考えられなかった。
アイリーン……
ケイは名前を呼ぶだけで、何も言わない。ただそっと抱き締める。
ごめん……
自然と、口に出していた。
ごめんね……ごめんね、ケイ……!
むせび泣くことしか、できなかった。
―いいんだ。
耳元で、ケイのささやきを聞いて。
アイリーンはどうしようもなくて、泣いた。
†††
その夜。
泣き疲れたアイリーンと一緒に、ケイは眠った。
洞穴の外にはサスケとスズカがおり、“警報機”もあるので、二人揃って寝ても大丈夫だろうという判断だった。それでも、万が一の際はすぐに行動できるよう、ケイは洞穴の壁に背を預けて眠りについた。疲れのせいもあり、一瞬で意識は途絶える。
浅いようで、深い眠り。
そのせいだろうか。妙な夢を見た。
夢の中で、ケイは地球の実家にいた。なぜか今と同じように、ゲームのアバターそのままの、健康な肉体で日常生活を送っていた。