蛇口を捻れば、すぐに清潔なお湯が出てくる便利さ。ここを離れたら、『こちら』の世界が酷く不便に感じられそうで恐ろしい。
日本風の浴室で、熱々の湯に肩まで浸かりながら、ケイはひとり思った。
……これは、やりすぎじゃないかな
オズの思いやりが伝わってくるが―しかし、逆に酷ではないか、と。
自分はまだいい。思い出も郷愁も、未練さえも、全てが次元の遥か彼方だ。それらとの決別はもう済んでいるし、事実、地球に帰っても長生きできないという如何ともしがたい事情を抱えている。
だがアイリーンは―
隣の浴室から微かに響く、押し殺すようなすすり泣きの声に、ケイは瞑目した。
天井を見上げれば、電灯の光が煌々と浴室を照らしている。
ケイの瞳には眩しすぎるほどだった。
頭まで湯に身を沈めたケイは、子供のようにブクブクと息を吐いて遊んだ。
記憶にあるよりも、浴槽はずっと狭く、そして小さく感じられた。
†††
ケイたちが風呂から上がる頃には、窓の外はとっぷりと夜闇に沈んでいた。
ただ、屋敷の窓から漏れる薄明かりだけが、庭に漂うもやを照らしている。
いやーヤバイな。願い事、『ここで暮らす』ってのもアリだったかなー
ベッドに寝転び、ドライヤーで乾かした金髪をさらさらと撫でながら、アイリーンはぼやくようにして言った。髪の長い彼女は、こちらの世界で一風呂浴びるたび、髪がなかなか乾かず苦労していたのだ。今はまだ夏なので良いが、冬は困ったことになる。
……そうだな。ちょっと便利すぎて怖いくらいだ
アイリーンの隣に寝そべったケイは、天井の電灯のような明かりを見やって頷く。
―ここで暮らす、か。
それもアリかもしれないな、とは真面目に思った。少なくとも、便利だし、命の危険もないだろうし、オズの図書館があれば退屈することもないだろう。
……あ、冗談だからな?
何やら真剣に考え込み始めたケイに、アイリーンは慌てた様子だ。
そうか? 今なら指輪を返せば何とかなる気もするぞ
…………確かに、さ。もしここで暮らせるんなら、便利だし、安全だし、凄く良いとは思うんだけど
寝転んだまま、アイリーンは悲しげに笑う。
でも、なんか、ここにいたらダメになる気がする
……アイリーン
ケイは、どんな顔をすればいいのか、わからなくなってしまった。
ただ、アイリーンの言っていることには、何となく共感できる。
この、外界から切り離されたぼやけた霧の世界で、保護されるように、壁の内側で生きていくことは―多分、ケイが望んでいる人生ではない。
そしておそらく、それはアイリーンも同じだ。
ケイは改めて、愛しい人を見つめた。
彼女の目は、泣きはらしたのか、少し赤くなっている。
その頬にそっと手を当てたケイは、宝石のような瞳を覗き込んだ。
アイリーン
……うん?
オズがアイリーンに、帰るつもりがあるのか訊いたとき。俺と一緒に、残ってくれるって。アイリーンがそう言ってくれて……俺、本当に嬉しかった
ありがとう、と囁くように。
ケイはアイリーンをそっと抱きしめる。
だから、今なら言えるんだ……一緒にいてくれて、ありがとう
ごつごつとした腕は、このとき、なぜか弱々しい。
俺と、ずっと一緒にいてほしい
まるで縋りつく幼子のようだ、とアイリーンは思った。
……シーヴの力を借りれば、ドライヤーだって作れると思う。自然のいっぱいあるところに、大きな家を買おう。二人で力を合わせれば、きっと現代に負けないくらい便利な暮らしが―
それから、なおも話し続けようとするケイの唇を、アイリーンはそっと塞いだ。
ついばむような口づけ。
……ケイ、愛してる
アイリーンもまた、愛しい人を抱きしめ返した。
涙をたたえた蒼い瞳が、きらきらと輝いている。
呆けたような顔をしていたケイは、視界がぼやけて、霞んでいくのを感じた。
……俺もだ
ケイも、泣きながら笑った。
愛してるよ
そうして二人は、もう一度、唇を重ねた。
―翌朝。
屋敷の玄関口で、オズが笑って立っている。
さて、二人とも。忘れ物はないかね
支度を整えていた二人は、わざとらしく持ち物をチェックした。
……大丈夫なようだな
悪いけど、ホームシックだけは置いてくぜ
真面目くさって頷くケイに、ニカッと笑うアイリーン。
そうかい。それは良かった。……では、約束通り、その指輪に名を呼ばれたとき、僕は即座に駆けつけて願いを叶えよう。ただしそれは一度きりのチャンスだ。使いどころはよく考えるように
ああ。せいぜい、最大限に効果を発揮するときに使わせてもらうよ
……お手柔らかに頼むよ
どこかすっきりとした顔で言い切るケイに、オズは苦笑する。
さて、この屋敷を出たら、すぐに森の入口に繋がるようにしてある。二歩も歩けば霧の外だから、安心して帰るといい
そいつは助かる、もう命綱もないからな
そっと、ケイはアイリーンの手を握る。命綱の代わりだ。
アイリーンも微笑んで、ぎゅっと力強く握り返してくる。
ふふふ。それでは、君たち二人の門出に、幸多からんことを。……『悪魔』が祝福というのも、おかしな話だがね
ご利益がありそうじゃないか。……オズ、ありがとう
世話になったな、オズの旦那! また会う日が、来るかどうかはわかんないけど
二人はオズに一礼して、歩き出す。
一歩一歩、もやのたゆたう庭を進んで行く。
オズは扉にもたれかかって、二人を見送っていた。
いやー、村の皆、心配してるだろうなー。オレらが帰ってきたら腰抜かすかも
そうだな……質問攻めにされそうだ
……それにしてもデーモンか。とんでもない存在に会っちゃったな
おそらくは気の遠くなるような長い年月を生きている、記憶と忘却を司る上位者。想像もしていなかった『大物』だ、村の住人たちも話を聞けばさぞ驚くことだろう。
おいおい……本人に聞こえるぞ
聞かせてるんだよ。……あっ
しかし軽口を叩いていたアイリーンは、不意に立ち止まる。
―何か、心に引っかかっていたものがあった。
昨日のことだ。アイリーンがまず、地球への帰還が可能なのかオズに尋ねたとき。
オズは答える前に、アイリーンに逆に問うた。『君はどうするつもりなのか』、と。
あのとき、唐突に水を向けられて驚いたものだが、そのときに感じた違和感の正体が今になってわかった。
そもそも、オズはケイたちに何かを問う必要がなかったのだ。ケイたちの思考と記憶を探れば、口に出して問うまでもなく、自然と答えはわかるのだから。
では、なぜあのときオズは、わざわざアイリーンに『質問した』のか。
『一緒にいてくれて、ありがとう』
昨夜のケイの言葉を思い出す。
―そう、それは、ケイに聞かせるため。
アイリーンが『こちらに留まる』という自身の覚悟を表明するのが、『地球への帰還が不可能』と判明する前と後では、ケイの印象が全く異なる。
もし、『帰還できない』と聞いた上でアイリーンが『残る』と答えていたら、それではまるで他に道がないから仕方なく、そう言っているように聞こえてしまうだろう。
それは、後々二人の関係にしこりとなって残ってしまったはずだ。
だから、それを避けるために。
オズは敢えて問うたのだ。
そしてアイリーンに、覚悟を言葉にさせた。オズが真実を明かす前に。
…………
アイリーンは振り返る。
真っ赤なスーツに身を包んだ、胡散臭い見かけの悪魔は、すべてを見透かしたような顔で笑っていた。
『……ありがとう、優しい悪魔さん』
アイリーンもまた、クスリと笑う。
その言葉が届いたかはわからない。ただ、悪魔は笑うのみ。
アイリーン?
ん。いや、いいんだ
首を振って、アイリーンは前に向き直る。
……行こう。ケイ
ああ。行こう、アイリーン
手を繋いだ二人は、踏み出した。
霧の外へと。
燦々と陽の降り注ぐ、明るい外の世界へと。
これにて魔の森編、完ッ!
次回は幕間となる予定です。
その後は移住編、始まります。砂糖菓子の蜂蜜がけみたいな感じになると思います。
幕間. Tahfu
月夜だ。
馬上で揺られながら、男は天を仰いだ。
絵に描いたような三日月が、ぽっかりと夜空に浮かんでいる。あれは、果たして欠けつつあるのか、それとも満ちつつあるのか―? 今の自分には知る術もない、そして知ったところで何の意味もない、などと詮無きことを考え、気を紛らわせる。
そう、男は気を紛らわせる必要があった。
肌寒い。
季節は晩夏。夜の草原は、ひんやりと冷え込んでいる。そこを、半袖シャツに粗雑な麻のズボンだけという格好で、馬を駆り、文字通り風を切って進んでいるのだから、体からは面白いように熱が奪われていく。
同(・)伴(・)者(・)には聞こえないよう、控え目に鼻をすすった男は、独り思う。
(いったい、いつまで駆け続ければいいんだ―)
あてのない放浪、そんな言葉が頭をよぎる。しかしそう思った矢先、数メートル先を黒馬に跨って進んでいた同伴者が、 コウ! と呼びかけてきた。
あっち、森の近くに村が見える!
灰色のローブを身に纏った、黒髪の美女。月下、彼女の瞳は、爛々と輝いて見える。比喩表現ではなく、本当にネコ科の動物よろしく、光を反射しているのだ。そしてその頭頂部には、まさしくネコのような獣の耳がぴょこんと生えていた。
彼女の名を、『イリス』という。
何の因果か、 DEMONDAL 内での彼女の種族『豹人(パンサニア)』の特徴を、中途半端に受け継いでしまったゲーム仲間の一人だ。
そいつは良かった!
男―『コウ』は、そのアジア系の童顔におどけた笑みを浮かべて答える。
ちょうど、そこらに気の利いたホテルでもないかと考えていたんだ!
コウの皮肉に、イリスは困ったような顔で笑った。未だ、夢でも見ているような感覚は抜けないが―状況を鑑みると、イリスもコウも DEMONDAL のゲームに酷似した世界にいることは明らかだ。
そして DEMONDAL の世界には、残念ながら『平穏』の二文字はない。
村があるからといって、温かく迎え入れられるとは限らないのだ。
ましてや深夜、旅人のふりをして立ち寄っても、むしろ―
……さて、どうしたものかね
鼻声で、コウはぼやくようにして呟く。その視線の先には寝静まった村。さほど夜目の利かないコウでも、月明かりで目視できる程度の距離。下馬した二人は、木立に身を潜めていた。
木造の簡素な家々が建ち並ぶそこは、まさしく慎ましやかな辺境村といった風情だ。ゲーム内の村に比べると、荒んだ雰囲気は感じられず、家々の建て付けの良さや軒下のちょっとした装飾などを見るに、それなりに豊かな暮らしを送っているのではないか、という印象を受ける。
村の中に明かりはない。住民たちは皆、床に就いているのだろう。人の気配はあるが、物音一つしなかった。
見張りはいないわね
隣でイリスが呟く。まるで夜襲を企てるならず者のような台詞に、思わずコウは苦笑した。自分もまた、ゲームの習性で、無意識のうちに侵入経路を考えていたことに気づかされたからだ。
襲いに来たわけじゃないんだぞ
あっ、当たり前でしょ。バーナードじゃあるまいし
からかうようなコウの言葉に、噛みつくようにして答えたイリスは、己の出した名前に沈黙した。
『バーナード』―もう一人のゲーム仲間。
正確には『元(・)仲間』と言うべきか。今や二人が置き去りにしていった男だ。ゲーム内の種族『竜人(ドラゴニア)』の特徴をほぼそのまま受け継いだ彼は、その外見に相応しい残虐性と、頭のネジが数本外れたような『ブッ飛んだ』思考回路の持ち主だった。
この後どうするか とコウに尋ねられて、 村でも襲おうぜ と即答したヤツだ。
もしもあいつが、こんな寝静まった村などという獲物を見つけたら―どうするか。
そう考えると、コウは暗澹たる思いを禁じ得なかった。
確かにコウもイリスも、ゲーム内では極悪非道なならず者として振る舞っていたが、それはあくまで『ロールプレイ』に過ぎない。ゲーム内ならまだしも、『現実』と思われるこの状況下で、なおも悪事に手を染めようという気は起きなかった。
ましてや人里の襲撃など。
置き去りにする際、バーナードが寝付いたのを見計らって、コウがありったけの触媒を使い眠りの術をかけたので、しばらくは目を覚ますことはないだろうが―それでも明日の昼には術の効果も切れるはずだ。
一番の問題は、置き去りにした場所からこの村まで、それほど離れてないということだった。