眠気を払うように頭を振って、ふと傍らに目を落とした。テントの支柱を挟んで反対側、アイリーンがマットの上に身を横たえている。上着を丸めた即席の枕に、ほどかれて広がる金髪、その寝顔はすやすやと健やかで、自分の身体を抱えるように毛布にくるまっていた。

体が丸まっているということは、少し、寒いのだろうか。そう思ったケイは、自分の毛布をはぎ取り、そっとアイリーンに掛けてやった。

……んぅ

もぞもぞと身じろぎをして、軽くポジションを変えるアイリーン。起きたかな、と一瞬身構えるケイであったが、アイリーンはそのまま毛布を手繰り寄せ、顔を埋めて幸せそうに眠り続ける。

……ふふ

思わず、笑みがこぼれた。出来ることなら、このままずっと寝顔を眺めていたい気分。しかし、目を覚まさないのをいいことに、乙女の寝顔を覗き見るのも如何なものかと思い直し、鋼の意志で視線を引き剥がした。さもなくば、目のあたりにかかった髪を指で払ってあげたい、白磁のような頬に触れてみたい―と、そんな欲求が際限なく湧いて出てしまう。

枕元に転がしていた剣の鞘を手に取り、そっとテントの外に出た。

ひんやりと、湿り気を含んだ風が頬を撫でる。白んだ空、たなびく巻き雲―その卓越した視力で朝焼けの星空をざっと眺めたケイは、 今日も晴れか と小さく呟いた。

すぅ、と息を吸う。冷たい空気が肺に流れ込む。しばし、呼吸を止めて、体温に馴染ませた呼気を、ゆっくりと吐き出した。

身体の隅々にまで芯が通り、力が満ち満ちていくような感覚。循環、という言葉を思い起こす。

腰のベルトに剣を引っ提げて、軽く体を動かした。起き出している隊商の面々に おはよう、おはよう と声をかけながら、モルラ川の河原へと向かう。

現在、隊商の野営地は下流に位置しているが、相変わらず川の水は驚くほど綺麗だった。水をすくって口をゆすぎ、ついでにぱしゃぱしゃと顔を洗うと、水の冷たさに眠気の残滓が洗い流されていく。現代の地球では有り得ないほどに透き通った水面には、小魚の泳ぐ姿が見て取れた。上流のサティナのような大都市が、下水道を整備して汚物処理を徹底し、汚れた水を川に垂れ流さないよう気を付けている成果だろう。

基本的に、この世界では様々な技術が発達している。とある事情で火薬が存在せず、そのせいで武器こそ剣と弓のレベルに留まっているものの、冶金技術や衛生観念は、中世ヨーロッパのそれとは比較にならない。特に農業、土木建築、薬理などの分野においては、いわゆる『現代知識チート』で何とかなりそうなものは、おおよそ全て実現されている。宗教や政治などに束縛されず、自然に技術が進歩した結果だ。

……これでお手軽な魔法でもあれば、もっと楽になるんだがな

顔を洗ったは良いが、タオルを持ってくるのを忘れたことに気付き、頬から水を滴らせながら渋い顔をするケイ。こんなとき、気軽に風なり火なりを起こして乾燥させることができれば、まさしく『ファンタジー』といった感じなのだが―実際には、高価なエメラルドを一つ犠牲にする羽目になる。

しかしそんな世界、 DEMONDAL というゲームを選んだのは他でもない、ケイ自身だ。自分が好き好んでやった結果である以上、納得するほかない。

尤も、ある程度のプレイののち、異世界に転移することが確定していたならば、もっとライトなゲームをやりこんでいただろうが……

仮に他のゲームで遊んでいたらどうなっていたのか、なぜ自分たちはこの世界にきてしまったのか。疑問は尽きないが、考えてもキリがないし、生産性もない。

シャツで顔を拭ったケイは、気を取り直して腰の剣を抜いた。

ここ数日、ケイは実戦から遠のいている。

ここまで、隊商の護衛とは何だったのかと、そう思わずにはいられないほどのんびりとした旅路だった。勿論、平和なのは歓迎するべきことだ、ゲームと違って本当に命の危険があるのだから。とはいえ、その間に腕が鈍るのも頂けない。平和とは即ち、戦いに備える時間のことを言うのだ―

真っ直ぐに、虚空に剣を突き出す。刃を盾とした、防御の構え。

朝もやの漂う川のほとりで、空気が鋭さを増していく。その黒い瞳は、ありし日に戦った誰かを視ていた。前方、数歩の距離。敵意を持った存在が、焦点を結ぶ。

一瞬の静止ののち、ケイは動いた。

想定するのは、槍だろうか。長物の刺突をいなすように、ケイの剣先が揺れる。ゆるやかに弧を描く刃、巻き込むように、受け流すように。返す刀が踏み込みと共に唸る。振り下ろす動きが足の筋を断ち、ひるがえった一閃が首筋を撫でた。

ひゅん、と余韻を残し、下がること二歩、三歩。剣が突き出され、再び防御の構えが完成する。相対していた心像(イメージ)は霞がかかった朝焼けの中に、ぐらりと崩れて霧散していった。

息をつく間もなく、次。今度の相手は長剣か、上段、中段、下段と多彩な攻撃を受け流すように、滑らかな足捌きで得物を振るう。

無心。限りなくフラットな心境。

型をなぞるように、身体が動く。まとわりついた朝もやが、渦巻き、あるいは斬り裂かれる。くんっ、と剣を跳ね上げる動きは、梃子の原理で相手の武器を弾き飛ばす。すかさず、そこに叩き込まれるコンパクトな刺突。控え目にすら見えるそれは、しかしちょうど身体の中心を捉える高さ。心の臓を抉り取る、致命の一撃だ。そして流れる水が集まるかの如く、再び完成する防御の構え。

目まぐるしく、想定される状況を変えながら、ケイは身体を動かし続けた。十分にも満たない、僅かな時間。長いようで短い、それでいて濃い、そんな凝縮された空間の中で、一心に仮想の敵を斬る。荒々しくも研ぎ澄まされた、不思議な調和がそこにはあった。

しかし―それも、終わりに近づいた頃。

ぴんっ、と弦楽器をつま弾くような、微かな殺気が場を乱す。

咄嗟に、感覚の導くままに、振り向いて横薙ぎに剣を払った。

パシンッ、と音を立てて、飛来した木の枝が両断される。

なんだこれは、と眉をひそめるケイをよそに、パチパチとやる気のない音が響く。

やあ、お見事お見事

顔を上げたケイが見たのは、薄く笑みを浮かべて拍手する、金髪の青年。

―アレクセイだ。

……何の真似だ

剣を鞘に収めながら、憮然とした表情でケイは問う。急に物を投げつけられて、不快に思わない人間がいようか。

悪い悪い。あんたの剣が、あんまりにも綺麗だったから……突っついてみたくなっちまったのさ。俺はトランプのタワーがあったら、つい崩してしまうタイプでね

悪びれる風もなく、おどけた様子で肩をすくめるアレクセイ。しかしケイが何か反応を示す前に、すかさず言葉を続ける。

それにしても、あんたの剣はお飾りじゃなかったんだな。よほどの使い手に師事してたんだろう、見事な剣技だったよ。羨ましいぜ

……そいつはどうも

合理的だし、俺にも参考になる部分があった……けど、おいそれと他人に見せつけるような代物でもないなぁ

お前が勝手に見たんだろうが

それもそうか。ま、気を付けなってこった。世の中には、俺より悪い奴がたーくさんいるからな、何をどう盗まれるか分かったもんじゃないぜ……?

そう言う笑顔は、どこか挑発的だ。心の内に不快感が募る。

……御忠告、痛みいる。それで? 話が終わりなら、失礼させてもらうが

つれないねえ

あくまで一線を引いたケイの態度に、へらへらと笑うアレクセイであったが、その目は真剣な光を帯びていた。

……ひとつ、聞きたいことがある

アレクセイが笑みを引っ込め、ぴん、と指を一本立てる。

はっきりと言うが、俺はアイリーンに惚れている。そこで知りたいのは、彼女とあんたの関係だ。単刀直入に聞かせてもらうが、アイリーンは、あんたの女なのか

その、あまりに直球すぎる物言いに、思わずケイは言葉を詰まらせた。

……なかなか、ダイレクトな質問だな

まあな。だが俺も、こう見えて結構本気なわけよ。もし彼女があんたの女なら、こっちにもそれなりの”礼儀”と”作法”ってもんがある

かつてないほどに、真摯な態度でアレクセイは言う。その真っ直ぐな視線はケイから毒気を抜き、逆にある種の誠実さをもたらした。困り顔で目を泳がせたケイは、

アイリーンは、俺の……、親しい女友達(ガールフレンド)だ。だが、恋愛関係にあるかと問われると、……難しいな

なんつーか、俺の所見なんだが。あんたら、『恋人同士』って感じはしないんだよなぁ。あんたらの関係はむしろ……、そう、ちょうど『お姫さま』と、『それを守る騎士』って間柄に見える

我ながら言い得て妙だ、とひとり何度も頷くアレクセイ。対するケイは、苦虫を潰したような顔をしていた。

……あれ。もしかして、本当にお姫様と騎士だったりする?

はっ、まさか。俺が騎士階級の人間に見えるか?

見かけで判断できるほど、人を見る目に自信はないんでね。まーそもそも、騎士サマなんざ数えるほどしか会ったことないし、お姫様に至っては殆ど見かけたことすらない。比較なんざしようがないのさ……でも、あんたら二人とも、なかなかにミステリアスだからね。だからこそ分からねえ

へらへらと笑顔を取り戻したアレクセイは、今度は何か探るような視線を向けてくる。

アイリーンが言ってた―『故郷が懐かしい』ってな

その言葉に、ケイは息を呑む。アレクセイは観察するような目を外さないまま、

それで俺は、『なら、一度帰ればいい』って言ってやったのさ。そしたら、『もう、帰れないかもしれない』って、彼女、悲しそうにしてたぜ。アイリーンは、故郷について多くを語らないが、少なくとも俺の知る部族の出ではなさそうだ。……あんたら二人とも、随分と遠くから来たみたいだな

アレクセイの口調からは、カマをかけるような、あわよくば情報を聞き出そうという思惑が端々に感じられる。が、ケイはそれよりも前に、軽いショックを受けていた。

(アイリーンは、そんなことを話していたのか……)

故郷のことなど―アイリーンのリアルに関わる情報など、ケイは殆ど知らない。ケイが知っているのは僅かに二つ、アイリーンがロシア人で、シベリアに暮らしていた、ということぐらいのものだ。

(『故郷が懐かしい』だなんて……そんな様子、全然見せてくれなかったし……帰りたいだなんて、一言も―)

―聞いていない。

ま、まあ、話せない事情があるんなら、いいんだけどな

ケイの、思いのほか深刻な雰囲気の沈黙を、どう受け取ったのかは分からないが、アレクセイは少々慌てた様子だ。

いや……別に……

そういうわけで、アイリーンがあんたの女じゃないってんなら、俺は好きにやらせてもらうぜ

曖昧に頷くケイをよそに、手をひらひらとさせながら、アレクセイは逃げるようにその場を去っていった。

沈黙したケイはひとり、河原の倒木に腰を下ろす。

水面を眺めながら、ぼんやりと考えを巡らせた。この、胸の内の、寂しさのようなもの。

(……詰まるところ、アイリーンも、一人の人間だってことだ)

彼女も彼女なりに考え、彼女なりに行動する。ケイのように、元の世界に帰ると、あと何年生きれるか分からない、という差し迫った事情でもない限り、郷愁の念に駆られてしまうのも当然というものだろう。

ケイは、元の世界に未練がない。両親に二度と会えないのは、残念と言えないでもないが、ここ数年はリアルで顔を合わせてはいないし、数日に一度メールでやり取りをする程度の仲だった。また、幼い頃より病室に閉じ込められていたことも相まって、故郷や文化に対する思い入れも薄い。今は元いた世界を失った悲しみよりも、新たな肉体を手に入れられた歓びの方が、大きいのだ。

その他の友人たちと連絡を取れなくなったのも、それはそれで残念だったが― ここ最近で一番仲の良かった、アイリーンが一緒にいるしな という考えに至り、ケイはそこでハッとさせられた。

アイリーンの存在が、自分の中で、大きな心の支えになっている。

その事実に、今さら気付かされたからだ。

(……もし、この世界に来たときに、アイリーンが一緒に居なかったら)

自分は、どうなっていただろうか。ケイは想像してみる。

一応、それなりに、生きていけたであろうとは思う。タアフ村のマンデルではないが、弓の腕さえあれば、傭兵なり狩人なりで生活の糧を得ることはできる。

だが、果たしてそれは、楽しい人生だろうか。

今の自分のように、この世界を楽しもうと、前向きになれただろうか。

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