(……いや、きっと、なれなかった)

独りなら、不安に呑み込まれていた。なぜ自分がここに居るのか、何をどうやっていけばいいのか―今でも、将来に対する懸念材料は尽きない。それを踏まえたうえで、ケイが前向きでいられるのは、同じ境遇のアイリーンという存在に、自分の悩みや不安を吐露できていたからだ。彼女の前向きさやユーモアのセンスに、どれだけ救われてきたか分からない。

それがなければ、今でも暗い夜には、独りで震えていたに違いない。

(だが……俺は、どうなんだろう)

翻って、自分の立場を考える。

アイリーンにとって、この『乃川圭一』という人間は、どういった存在なのか……。

そのことに思いを馳せると、ケイはまるで、自分の足元が崩れ落ちていくような感覚に襲われる。

サティナで、乗せてもらう船が見つからず、宿屋でくだを巻いていたとき―二人で今後のことを話して以来、アイリーンは、不安を漏らさなかった。

彼女はいつも明るく振舞っており、そしてケイは、そのことに微塵も疑問を抱いていなかった。しかし、よくよく考えてみれば、それは不自然だ。

(アイリーンに、不安がないわけないじゃないか……)

何をどうすればいいのか分からない、とアイリーンは言っていた。自分がどうしたいのか分からない、とも。

しかし―それだけの筈がない。家族はどうしているのか。元いた世界とこちらの世界に時間のズレはあるのか。元の世界の肉体はどうなっているのか。そもそも帰れるのか、帰れないのか。

そういった不安を前に、途方に暮れた状態のことを、 どうすればいいのか分からない と、彼女は表現していただけではないのか。

話しさえしてくれれば、いつでも相談には応じるのに―とは思わないでもないが、ケイはそこで、ある恐るべき仮説に辿り着いてしまう。

あるいは自分は、乃川圭一という男は。

もはやアイリーンにとって、悩みを打ち明けるに値しない存在なのではないかと―。

思い返すは、サティナの街での一件だ。リリーが誘拐され、その救出の是非を巡って、アイリーンと対立した夕べのこと。

勿論、ケイもリリーを助けたくなかったわけではないが、怪我や死のリスクを鑑みて、殴り込みには消極的だった。結果的にアイリーンが先行し、見事リリーを救い出したわけだが、―今となっては、あの時の自分が、みみっちく感じられて仕方がない。

結果論であるということは分かっている。また、リスクを恐れて慎重に立ち回ることが、間違いだと思っているわけでもない。

しかし―あの時、『見捨てる』という選択肢を、アイリーンは『ひとでなし』のすることであると断じた―

失望されたのか、と。

ケイは、恐れる。自分には相談せず、アレクセイには話をしていた、というのは、そういうことではないのか。実は、アイリーンは明るく見せかけているだけで、あの笑顔の下で自分を軽蔑しているのではないかと。

まさかとは思うが、そう考えると、背筋に震えが走るようだった。

締め付けられる心が、彼女には、彼女だけには嫌われたくないと、叫ぶ。

『……どうすればいい』

呟く日本語(ことば)は、誰にも届かず。ただ、陰鬱な溜息だけがこぼれる。

昨夜、精霊語(エスペラント)でアレクセイに意趣返しのような真似をしたが、こうしてみるとただ虚しいだけだ。アレクセイと、自分とを比べて、やはりネイティブには敵わないのか、と。そう思いたいような、思いたくないような、複雑な心境だった。

『俺は、どうしたいのか……』

アイリーンに嫌われたくない、というのだけは確実だが……。

考え込んでいるうちに、野営地の方から賑やかな声が聴こえ始める。

見れば、いつの間にか、太陽が顔を出していた。思ったよりも時間が経っていたらしい。もう一度溜息をついて、ケイは重い腰を上げる。

(……どんな顔をして会えばいいのか、分からなくなってきた)

この頃、―いや、この世界に来てから、ケイはアイリーンとの距離を測りかねている。しかし、今日はそれが一段と酷くなりそうだった。

朝日を受けて、川の水面がきらきらと輝く。

しかし、その煌めきはただただ眩しいだけで。

美しさとして楽しむ余裕は、今のケイにはなかった。

†††

野営地に戻ると、アイリーンは既に目を覚ましており、 グッモーニン、ケイ! といつもと変わらぬ様子で、愛嬌たっぷりに挨拶してきた。

その、『変わらない感じ』にホッとしつつも、不安感は完全に拭いきれず、ケイはどこかぎこちなく おはよう と返してしまった。アレクセイが話しかけてきたのを良いことに、どうにかこうにか、誤魔化したが。

軽い朝食を摂ってから、隊商は再び出発した。

ホランド曰く、早目に次の村を通過し、今日中に湖畔の町”ユーリア”に辿り着くのが目標らしい。

ケイはというと、昨日と同じように、最後尾のピエールの馬車の横でサスケの手綱を握っている。前方には相変わらず、スズカに跨るアイリーンと、それについて歩きお喋りをするアレクセイの姿があった。

…………

ケイはただ、黙って、それを見ていた。

次の村に到着したのは、出発してから二時間後のことだ。

昼前の、中途半端な時間帯。村人との商売のために、軽く一時間ほど滞在するそうだが、ピエール曰くこの村は『美味しい』商売相手ではないらしい。村に滞在するのも、物流のための慈善事業のようなもので、用事が終わり次第すぐに出発するとのことだった。

当然、村に居る間は、護衛たちの休み時間となるわけだが―ケイは、ダグマルに許可を取り、“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“片手に、近くの原っぱに出かけることにした。

ケイ、どこに行くんだ?

……ちょっと、昼飯の準備で、狩りにな。弓も使わないと腕が鈍る

サスケに跨ろうとしたところでアイリーンに見咎められたが、動揺を悟られないように極力素っ気なく答えて、さっさと村を出る。

あまり時間をかけると、隊商の皆を待たせてしまうかもしれないので、野兎三羽と大型の鳩に似た鳥を一羽仕留め、手早く血抜きを済ませてから村に戻った。

アイリーンは、アレクセイと話をしているのではないか、と予想していたケイであったが、どうやら木陰で寝転がって昼寝をしているようだ。アレクセイは川べりで暇そうに、村で買ったらしいビワに似た果物を食べている。独りで出掛けたのは自分のくせに、その事実に少しホッとしながら、ケイはハイデマリーに狩ってきた獲物を手渡した。

……どうした、ケイ。シケた面してんじゃねえか

手持無沙汰になって、サスケの傍でぼんやりとしていると、赤い顔をしたダグマルが陽気に話しかけてくる。その手には小さめの壺、近くに寄ってみれば微かに酒臭い。どうやら葡萄酒を直呑みしているらしい。

まだ昼にもなってないぞ、いいのか、そんなに呑んで

なぁに、かまやしねえ。どうせすぐにユーリアに着くしな。それに、ここらは盗賊も獣も出ねえんだ

……馬から落っこちても知らんぞ

そこまで酔っ払いはしねえよ

ガッハッハ、と大笑いするダグマル。しかしその言葉とは裏腹に、そこそこ出来あがっているようにも見える。それほど酒には強くない体質なのか。

(酔っ払いの相手は面倒なんだがな……)

さりとて、他にやることもなし。ケイはダグマルの話に付き合うことにした。

で、ケイ。お前、ユーリアじゃ一発『買う』つもりかい?

……何をだ?

何、って。……そりゃナニをだよ

怪訝な顔をするケイに、ぐへへと下衆な顔で笑うダグマル。しかし、いつまでもケイが察さず、きょとんとしたままなので、呆れたように天を仰いだ。

なんだオメエ、知らねえのか。ユーリアといえば、屈強な船乗りや傭兵が集まる町だ。男が集まる所にゃ、女も集まる。……色街だよ、色街!

ここにきて、ダグマルの『買う』という言葉に合点がいく。

……なんだって急に、そんな話を

平静を装って返すも、興味がゼロといえないのも、ケイの辛いところだ。

別に急でもねえよ、みんな楽しみにしてるぜ? お前も、色(・)々(・)と(・)溜まってるだろうからよ、先輩の親切心よぉ

ぐへへへ……と意味深に、アイリーンが昼寝している方向を見やって、ダグマルが再び下衆な顔で笑いかけてきた。

……いや、いいよ。気持ちはありがたいが

冷静に考えると、病気とかも怖いし―と、口には出さないでおいたが、丁重にお断りする。

上玉の揃ってる、良い宿を知ってるんだが……

俺には、必要のないことだ。気にしないでくれ

そうか……

くい、と葡萄酒の壺を傾けたダグマルは、ケイに憐れむような目を向けた。

薄々そうじゃないか、とは思ってたがな。お前やっぱりアレか、不能(インポ)か

それは違うッ!

その後、やたら絡んでくるダグマルと言い合いをしているうちに、出発の時間となった。

†††

村を出てから数時間、昼食の休憩を挟みつつ、隊商は一路ユーリアへと向かう。

北に向かって進むごとに、地形は徐々に起伏のあるものへと変わっていく。草原は平野に、平野は丘に、モルラ川も緩やかに蛇行を始めた。

ダグマルはやはり酒に弱いらしく、馬の上でフラフラになっていたが、その言葉の通り旅路に支障はないようだ。日が傾く頃には、一行は湖畔の町ユーリアに到着した。

ユーリアの特徴は、なんといっても隣接しているシュナペイア湖だろう。サティナから流れてくるモルラ川と、ウルヴァーンから流れてくるアリア川。その二つが交わる交通の要所であり、物資の一時的な集積地、及び船乗りや商人に対する歓楽街として機能している。

町としての性格上、サティナに比べると開放的で、堅固な城郭などは擁していない。また、歓楽街が町の大部分を占める上に、衛兵の数も少ないので、治安はそれなりに悪いようだ。

だが、湖のそばの岩山に領主が城を構えており、城壁の中にはユーリアの騎士や傭兵が詰めているそうで、有事の際への備えは万全とのこと。

それじゃあ、明後日の昼、十二時の鐘が鳴る時に、この広場に集合だ。解散!

町はずれの広場。ホランドの声を受け、がやがやと傭兵たちが町に散っていく。隊商は、ユーリアに二日間滞在する予定だ。その間は各自宿屋に泊ることとなり、今回の場合、宿泊費は自腹となる。

よし、それじゃあケイ、オレたちも行こうぜ

あ、ああ……

ケイはアイリーンに強引に腕を引かれ、商人街の一角を歩いていた。勿論、サスケとスズカも一緒だ。

さて、厩舎のある、そこそこの宿屋となると……

きょろきょろと、周囲を見回しながら歩くアイリーン。宿屋の密集する商人街だけに、『INN』と書かれた看板は山ほどあるが、逆により取り見取りすぎてどれを選べばいいのか分からない状態だ。

見当がつかないな。ホランドの旦那に聞いておくべきだったか

かもなぁ

ケイの言葉に、ちと急ぎ過ぎたかな、とアイリーンが渋い顔をする。

結局、割高なのは覚悟で、派手な装飾がされたガチョウの看板が目印の、小奇麗な宿を取ることとなった。

ようこそ、“GoldenGoose”亭へ。お二人様で?

酒場を兼ねたそこそこに清潔なホールで、女将と思しき中年の女性が、見事な営業スマイルを向けてくる。

ああ、それと馬を二頭頼む

小間使いにサスケとスズカを任せ、ケイたちは早速部屋を取ることにした。

それで、何人部屋が空いてる?

アイリーンの問いかけに、女将が台帳を開く。ケイの顔に、緊張の色が浮かんだ。

……そうですね。二人部屋が一つと、大部屋が一つ。あと、個室も二つ空いてますよ

女将の言葉に、(来た!)と頷くケイ。

そっか、それじゃあ―

個室で頼む

アイリーンが言う前に、ずいと割り込んだ。ケイとアイリーンの顔を見比べて、不思議そうに女将が小首を傾げる。

二人部屋の方がお得になりますが?

いや、個室がいい。……アイリーンも、いいよな?

ケイは、確認の意を込めて、アイリーンを見やった。アイリーンは少し眉をひそめ、

……うん。いいけど……

それじゃあ決まりだ

どこかホッとした様子で、カウンターにジャラリと二日分の代金を置くケイ。

(これで、ようやく一人になれる……)

ダグマルの言葉ではないが、正直なところ、ケイはかなり溜まっている。ぶっちゃけた話、発散したくてたまらないのだ。

(これで二人部屋になっちまったら、かなりやりづらいからな……)

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