口の端を釣り上げて、子供のように純粋な笑顔で、アレクセイは頷いた。ちらり、と見やるは、一つのテント。寝静まった、物音ひとつ立てないテント―。

しかしまさか、アイツまで魔術師だったとはね……

…………

アレクセイの呟きには、誰も答えなかった。

……~♪

退屈した様子のアレクセイは、踊る影を見ながら、再び鼻歌を歌い始める。

アレクセイ。ひとついいかの

アレクセイの鼻歌が一周したあたりで、ハイデマリーがおもむろに口を開いた。

ん、なんだい、婆さん

その歌、よい旋律じゃ……なんという名の曲なのかね

これか。『GreenSleeves』って曲だよ

……ほう? 雪原の言葉の歌じゃないのかえ

ああ。平原の言葉の曲さ

薄く笑みを浮かべ、姿勢を正したアレクセイは、すっと軽く息を吸い込んだ。

Alas, my love, you do me wrong,

To cast me off discourteously.

For I have loved you for so long,

Delighting in your company.

Greensleeves was all my joy

Greensleeves was my delight,

Greensleeves was my heart of gold,

And who but my lady greensleeves…

哀愁と、情熱と、かすかなほろ苦さ。

深みのあるテナーの歌声が、静かに響き渡る。

宵闇にまどろむ者たちを、起こさぬよう、優しく、穏やかに。

……すごーい

ぺちぺちぺち、と控え目な拍手をするエッダ。ハイデマリーもそれに続き、何度も何度も頷いていた。

まことに、良い曲、じゃ。……しかし、一度も聴いたことがない。平原の民の歌、なんじゃろう?

う~ん、平原の言語の歌だけど、雪原の民に伝わる歌だ。……遥かな昔、霧の彼方より現れた異邦人(エトランジェ)が、我が一族に遺していったと聞く

……霧の彼方?

……エトランジェ?

ああ。一口に『北の大地』と言っても、色々あるんだよ

興味津々な二人に気を良くしたのか、得意げな顔をしたアレクセイは、焚き火から燃えさしの枝を取って、地面に地図を描き始めた。

北の大地―って呼ばれてるけど、公国から見て北、って意味だからな。北の大地も東西南北で分けられるのさ。北は、延々と果てしなく雪原の続く、白色平野。夏でも雪は溶けず、その果てまで辿り着いたものはいないと言う。南、というか中央は、いろんな部族が集まってる。冬は寒いが、まあ悪くない土地だ。西は、海に近くて、かなり住み易い。塩もあるし、魚も獲れるし、交易だってできる。雪原の民同士で取り合いが起きるくらい、いいところさ。そして、東―

簡単な地図の東側を、さっと丸く囲った。アレクセイは声をひそめ、

ここは、魔の森と呼ばれている……年がら年中、いつ行っても、霧が立ち込めている不気味な森なんだ……

今までの陽気な調子とは打って変わって、おどろおどろしい声色の語りに、エッダがはっと息を呑んだ。

賢者の隠れ家……悪魔の棲む森……いろんな呼び名があるけどな。一つ確かなのは、ここが本当に、ヤバい場所だってことだ……

……どう、どうヤバいの?

恐れ慄くようなエッダに、難しい顔をしたアレクセイは、しばし呼吸を溜めてから話し始める。

……これは、俺のじい様から聞いた話だがな

まるで寒さを堪えるように、二の腕をさすりながら、

じい様が若かったとき……、やっぱりほら、男だからよ。自分の勇敢さとか、そういうのを証明したくなったらしい。十歩入れば気が狂う、とまで言われる霧の中にどれだけ入っていけるか、試してみようとしたらしいのよ。

だが、じい様は、魔の森のヤバい噂は色々と聴いててな。やれ、方向感覚を失わせる火の玉だとか……やれ、人間の声を真似て道を誤らせようとする化け物だとか……そういうのに対抗するために、せめて道にだけは迷わないようにって、ロープを持っていくことにしたんだと

アレクセイは、ひも状の何かを腰に巻きつける動作をして見せた。

こうやって腰にロープを巻いてさ。もう片方は、森の入口の木に、がっしり縛り付けておく。そうすれば、ロープの長さの分は、中に入って戻ってこれるって寸法よ。念には念を入れて、何重にも木の幹に片方のロープを巻き付けて、準備は万端、じい様は霧の中に入っていった……

祈るように手を組んで、アレクセイはしばし黙り込む。

だが……それは、入ってすぐのことだった

ごくり……とエッダが生唾を飲み込んだ。

なんと俺のじい様は……入ってすぐだってのに、小便がしたくなっちまったらしい

……えっ?

だから、小便。漏れるほどじゃあねえが、何だか気になる。って、そんな感じだったらしい。でもよ、泣く子も黙る魔の森で、立ち小便するほど俺のじい様は馬鹿じゃねえや。入ってすぐだったってこともあるし、とりあえずロープを辿って入口まで戻ることにしたのよ。それで、何の問題もなく、霧の外まで出て、さあ小便を……ってところで……、じい様は気付いちまった……

すっと、薄青の瞳が、エッダを見据える。

あれだけ……念には念を入れて、硬い結び目で何重にも括りつけてたロープがよ……ほどけてたんだと。まるで、手品みたいにな……

…………

もちろんじい様は一人だった……十歩も行かず、入って、戻っただけだぜ? 周りには自分以外、人(・)っ(・)子(・)一人いやしねえ……それだけでもチビりそうだったのに、じい様は、さらに妙なモノに気付いちまったんだ……

……なに……?

なんだかよ。結ったばかりの新品のロープが、ひどく黒く薄汚れて見えたんだと。それで手にとって、よく見てみたら……

アレクセイは、指の隙間を三センチほど開けて見せた。

こんぐらいの大きさの……手形が、びっしり……まるで手の汚ねぇ小人が、それで遊んでたみたいにな……

……!

しかもその手形……結びつけてた部分だけじゃなかった……よくよく見れば、ほどけた先から、辿って……辿って……自分が腰につけてる方まで、びっしり……それでじい様は、『まさか!』と思って、腰のロープを急いでほどいたんだ。すると……

……、すると……?

案の定……、腰んとこまで、手形は辿り着いてやがった……。急に、恐ろしくなったじい様は、もう死に物狂いで、着てた革鎧を脱ぎ棄てた……そしたらよ、

アレクセイの瞳は、まるで死んでいるようだった。

鎧の。背中一面。手形がびっしり。ぺたぺたぺたぺた、ぺたぺたぺたぺた……

…………

じい様は言ってたよ。あの時もし、小便に戻ってなかったら……全身に手形をつけられてたら、自分はどうなってたんだろう、って……

…………

ぱちっ、と焚き火の小枝が、爆ぜた。

……それ、ほんとなの……

消え入りそうな声で、エッダが尋ねる。アレクセイは真顔で、 ああ と頷いた。

これに関しては、与太話でも何でもねぇ。少なくとも『手形』は本当にあった話だ。なんで断言できるかっつーと、俺も現物を見たからだ。俺のじい様は、勇敢にも、そのロープと革鎧を家まで持って帰ってきたんだよ

えっ

気味が悪過ぎて何度も捨てようかと迷ったらしいが、これがないことには証拠にならねえから、と気合で家まで運んだらしい。途中で恐ろしい目にもあったらしいがな……まあ、それはまた今度にしておくとして

もっ、もういい! もういいよ!

泣きそうな顔で、ぷるぷると首を振るエッダ。

まあ……そういうわけで、魔の森はマジでヤバい。踏み入った者の半分は、帰ってこねえ。帰ってきたとしても、大抵のヤツは頭がおかしくなっちまってる。霧の中は、化け物や、この世ならざるものが、ウヨウヨしてんのさ……

アレクセイはぶるりと体を震わせた。

だから俺も、霧の中にだけは、絶対に立ち入らねえ。この世ならざるものなんて……どうやって太刀打ちすりゃいいんだか……恐ろしい。……っつーわけで。ってか、なんでこんな話になったんだっけ

霧の……エトランジェの話じゃなかったかの?

あっ、そうだそうだ、そうだった!

ハイデマリーの指摘に、ぱんっと膝を打ってアレクセイ。今までの空気を払拭するように、つとめて明るい声を出す。

まーそれで、魔の森な。あれの唯一の良いところは、中の化け物どもが外に出て来ねえってとこだ。裏を返せば、霧の中から出て来る奴は、化け物じゃあない、多分。言い伝えによると、『入ってないのに出てくる異邦人』ってのがいるらしい。どこか、遠いところから、霧の中に紛れ込んじまった奴ってのがな……

それが、例の歌を遺していったのかえ

そうさ。まあ、かなり昔のことらしいから、本当かどうかは分からねえけどな……

俺は現物を見ないと信じないタイプでね、とアレクセイは肩をすくめた。

……ま、そーいうわけで。お嬢ちゃん、そろそろ寝た方がいいんじゃねえか

すっかり大人しくなってしまったエッダに、苦笑いしながらそう尋ねる。

……おばあちゃん

心細げな表情で、ハイデマリーを見やるエッダ。ちょいちょい、と何かを求めるように、ローブの袖を引っ張っている。

はいはい。一緒に寝ようかね

うん……

ハッハッハ、良い子はおやすみ。ま、霧の化け物は、魔の森から出てこられねえ。お嬢ちゃんには害はないから、安心しな

うん……。お兄ちゃん、おやすみ……

しょんぼりとした表情のまま、ハイデマリーにしがみついて、エッダは荷馬車に用意された寝床へと入っていった。

……さて、暇だ

砂時計の砂は、まだ余っている。一人きりになって、改めて時間を持て余したアレクセイは、とりあえず暇潰しの為に馬車の幌へと目をやった。

ん、あれ? いねえ

が、先ほどまで踊っていたはずの影絵の貴婦人は、どこにも見当たらなくなっていた。

それじゃあエッダ、おやすみ

おやすみ、おばあちゃん……

馬車の中、ハイデマリーと隣り合わせで、エッダは頭から布団をかぶっていた。

…………

隣に感じる、ハイデマリーの温かさが心強い。が、今日聞いた話は、幼いエッダには、少々強烈過ぎた。

もし、布団の外側に、『手形』が来てたらどうしよう―。

そんな、根拠のない恐怖に駆られ、なかなか顔を出すことができない。

しかし、季節は初夏の、それほど寒くはない夜。頭を出さずに布団の中に潜り込んでいると、当然のように、暑くなる。

(……大丈夫だよね、お兄ちゃん、お化けは森の外に出れないって行ってたし……)

暑さには代えられず。どうにか自分を励まし、勇気を奮い立たせたエッダは、ぎゅっと目を瞑ったまま布団から顔を出した。

頬を撫でる、ひんやりと心地の良い夜気。くふぅ、と息を吐き出し、蒸れていない新鮮な空気を楽しむ。

…………

徐々に、眠気が襲ってきた。そうだ、今日は魔法のせいで、少し夜更かししていたんだと。そんなことを考えつつ、うつらうつらしていたエッダであったが―。

ふと、何かの気配を感じ。

半覚醒状態のまま、目を開いた。

視界に飛び込んできたのは―黒。

馬車の幌をびっしりと埋め尽くす、黒く小さな手形―

―きッ!

くわっ、と顔を強張らせたエッダは、そのまま目をぐるりと裏返させて、気絶した。

……んっ。……エッダや。何か言ったかえ

…………

……寝言かえ……

…………

あとには、悪戯を終えてくるくると踊る、影絵の精霊だけが残った。

ちなみに、元々DEMONDALの開発会社は精霊語をラテン語にするつもりだったのですが、ラテン語が難しすぎて心が折れ、急遽もっとシンプルで例外規則のない、人造言語な(=ネイティブがいないのでスタートライン的に平等)エスペラント語をチョイスした、というどうでもいい設定があります。

決して、作者がラテン語やろうとして心折れたわけじゃありません。ほんとですよ! ……ほんとですよ!

24. Yulia

ぼんやりと、薄暗い。

木のポールに支えられた布地を眺めて、自分がふと目を覚ましていることに気付く。

テントの中、ぱちぱちと目を瞬いたケイは、小さく欠伸をしながら上体を起こした。

(……朝か)

入口の布の切れ間から漏れ出る、蒼ざめた冷たい朝の光。おそらく、太陽もまだ顔を出していないような早朝だろう。空気の流れが微かに肌寒く、テントの布越しに鳥たちの鳴き声が聴こえる。

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