役所の中に入ると、区分けされた幾つかの受付のうち、疲れた様子の痩せぎすな男がケイたちを呼んだ。
粗末な腰かけが一つしかない受付。取り敢えずアイリーンを座らせ、ケイはその横に立つことにする。受付の男は胡散臭げに、じろじろと不躾な視線を向けてきた。
……用件は?
図書館に行きたいんだが、身分証も許可証もないので一級市街区に入れない。証明書取得の為に詳しい情報が欲しい
……
コツコツ、と指先で机を叩く男。
ということは、公国内で有効な身分証の類はない、と?
ない
そうか。ならばそれはウチの管轄じゃない。住民管理局に行け
えっ
ここは市庁、市民の為の役所だ。異邦人(よそもの)に対しては業務を行う権利も義務もなくてな。……というわけで、次ー
いや、ちょっと待ってくれ。その住民管理局ってのは何処にあるんだ?
話を打ち切られそうになったところで、慌ててアイリーンが話に割り込む。
……城壁沿いに東へ行けば、ウチと似たような建物がある。まあ、分からなければ付近の住民に聞くことだ。
どんくらい歩けばいい?
……十分もせずに着くだろう。さほど遠くはない
一級市街区に入るのに身分証がいる、ってのは確かなんだよな?
……ああ、戦時を除いて、規則は皆に平等だ。例えそれが王であったとしても
へえ。ところで、身分証取るのに何か注意しておく事とか―
おいッいい加減にしろテメェらッッ!!
続けてアイリーンが問いかけようとしたところで、背後から怒鳴り声。振り返る間もなくドスドスと足音が近づいてきて、ケイもアイリーンも乱暴に押しのけられた。
ゴツい体格をした、中年の男。アイリーンの代わりにどっかと椅子に腰を下ろし、ギロリとこちらを睨みつける。
人様を待たせておいて、いつまでも喋ってんじゃねえぞ! ここは市民の為の場所だ、余所者はお呼びじゃねえ! とっとと出て行けッこの蛮族どもが!
言うだけ言って、中年男はアイリーンに向かってペッと唾を吐き捨てた。反射的に飛び退り、すんでのところでそれを回避したアイリーンであったが、 こンのッ……! と眉を吊り上げて逆に睨み返す。
……なんだその目は。あァ?
それが気に食わなかったのか、椅子を蹴倒してやおらアイリーンに手を伸ばす中年。しかし、一歩前に進み出たケイが、その手首をがっしりと掴んで放さない。今度は中年の視線がケイに向く。
なんだ? テメェ、やんのかコラ
手を振りほどきながら、挑発的に語気を荒げる中年。ケイよりも少しだけ背が低いが、その代わりに恰幅が良い。この腕の筋肉の付き方―肉体労働者のそれだ。おそらく、腕っ節にそれなりの自信があるのだろう。
が、ケイはそれに構うことなく、黙って壁を顎でしゃくって見せる。
受付の真横に、大きな張り紙がしてあった。そこにでかでかと書かれているのは―
―『諍い事 厳禁』、だそうだ。張り紙も読めないのか?
ケイの冷めた言葉に、張り紙へ目をやった中年は、 ぐっ、ぬっ と言葉にならない呻き声をあげて一、二歩下がった。
しばし、張り紙とケイの間で何度も視線を往復させては、何かを言おうと口をパクパクと動かす中年。しかし、幾ら待っても何も言わないので、突発的に言語障害でも発現したのかと疑い始めたところで、
……読めないんじゃね?
ボソリと、アイリーン。
……ああ、
それで、ケイも合点がいった。
本当に読めないのか。なら仕方ないな……
確かに『こちら』の世界は、中世のヨーロッパよりは豊かで、技術も遥かに進んでいる。が、だからといって、識字率が百パーセントというわけではない。特に平民であれば、文字が読めない者も一定数いることだろう。
納得してうんうんと頷くケイを前に、中年男は顔を真っ赤にしてぷるぷる震えている。
俺としては、単に『目に入っていないのか』ぐらいの意味だったんだが……
もういいよ、行こうぜ。あ(・)ん(・)ま(・)り(・)待(・)た(・)せ(・)ち(・)ゃ(・)悪(・)い(・)し、時間の無駄だ
それもそうだな。というわけで、失礼した。では
受付の男に目礼し、これ以上トラブルが大きくなる前に、とケイたちは足早に役所を出ていく。
男は拳を握りしめたまま、その場でいつまでもぷるぷると震えていた。
†††
その後、城壁沿いに歩き、“住民管理局”なる場所に向かったケイたちは、再び列に並んで一時間ほど待ち、異民族向けの許可証の取り方を問い合わせた。
が。
結果として分かったのは、許可証にせよ身分証にせよ、現時点での取得は非常に難しいということだった。
まず、許可証。これは主に、一級市街区で働く使用人や業者の人間に与えられるもので、発行権は王を含む貴族位に属している。
つまり、許可証が欲しければ貴族に頼むしかない。
そして当たり前だが、ケイたちに貴族のツテはない。現段階では実質的に不可能な方策といえた。
あるいは、これからケイたちが自分たちを貴族に売り込み、士官するなり私兵になるなりして取り入ることは可能かもしれないが、時間がかかる上に確実性はない。また、これまでの道中で散々アイリーンがその美貌を『買われ』そうになっていたことも考えると、ケイ個人の感情としては、余り試したくない方針だ。何が起きるか分からない。
では、翻って身分証はどうか。
身分証とは基本的に、都市ごとに発行されるもので、これの獲得は即ち市民権の取得と同義だ。身分証が発行された時点で、行政上の一個人としての権利が保証されるが、代わりに納税やその他義務も発生する。例えば、ウルヴァーン市内で露店を開きたいならば、市民権が必須であり、売り上げのうち数パーセントを租税とはまた別に納めなければならない。
さて、その市民権の獲得方法だが、―これがまた複雑であった。少なくとも、法律や不動産関係の語彙に限界のあるケイが、途中で理解を放棄したくなる程度に。
ウルヴァーンにおける、市民権獲得の条件を大まかにまとめると、
・会話可能な英語力、税制を理解するに足る教養、最低限の読み書きの素養
(これは異民族に対する規則)
・向こう一年間は、ウルヴァーンの都市圏内に住居が確保できていることの証明
(家屋の権利書、借家の賃貸契約書、居候の場合は大家の認可書がこれにあたる。ただし、宿屋は除くものとする。また野宿も認められない)
・三年間分の租税の前払い、あるいは四年以上のウルヴァーン市への士官経験
(士官経験として、貴族の私兵や傭兵の場合は、雇用主の証書が必須)
・公国内において犯罪歴がないこと
(一部の衛兵の詰め所で、無犯罪証明書が発行可能。足が付いたレベルの犯罪者ならば、この段階で弾かれる)
・五人以上のウルヴァーン市民の推薦状
(身元保証人としての性格が強い)
これらに加え、性別や年齢、出身や身分、貴族の推薦状の有無、ウルヴァーン市民との妻帯など、様々な条件が重なることで取得の難易度が若干変動する。ちなみにケイたちの場合、出身が草原の民あるいは雪原の民とされるので、どうしても審査の基準が厳しめになるそうだ。
その夜。
“HangedBug”亭に戻って夕食を取ったケイたちは、疲労感に苛まれながらも、部屋でダラダラと話し合っていた。
まあ……英語力はまず問題ないし、無犯罪証明書も大丈夫だろ
うむ
租税の前払いも……イケるよな? ケイ
そうだな。“大熊”の毛皮の収入も入ってくるし、足りなければ宝石も売ればいい
となると……問題は、
住居の確保と、
市民五人からの推薦状、か……
ずっしりと、その言葉が重く二人の胸に圧し掛かる。
住居にせよ推薦状にせよ、不可能ではないだろう。ホランドあたりのツテを辿れば、案外何とかなるかもしれない。しかし、この排他的な街ウルヴァーンにおいて、その道程が平易なものでないことは、火を見るよりも明らかだった。
―これは面倒くさい。
何とも言えない憂鬱に襲われたケイは、腰かけていたベッドにどさりと身を投げ出して寝転んだ。すると、窓際で夜風に当たっていたアイリーンが、おもちゃを見つけた猫のように突撃してくる。
もうちょっと奥行って
お、おう
ケイを壁際に追いやり、背中を預ける様にして、すっぽりと腕の中に収まる華奢な体躯。
…………
しばし沈黙が、部屋を支配する。
……取り敢えず明日、ホランドの旦那でも訪ねてみるか
うん……
体の前に回されたケイの腕を、そっと掴んでアイリーンは息を吐いた。対するケイは、無意識のうちに美しい金髪を撫でながら、茫洋とした目つきでランプの灯りを眺めている。
ぼんやりと―。
ゆったりと―。
……なんかもう、どうでもいいなー
不意に。
アイリーンが、そんなことを言い出した。
ややこしいし、疲れるし。やっぱり調べ物なんて止めて、サティナに戻るってのはどうだろ。ケイは狩人で……オレは、リリーの護衛でもして……
ケイと同じ方向を向いたまま―表情を隠したまま、言葉を続ける。
別に、転移の理由なんて分からなくても、生きて、いけるしさ……
ケイは、悟った。
話す時が来た、と。
……なあ、アイリーン
頭を撫でる手を止めて、アイリーンの肩を掴む。そのまま反応される前に彼女の身体をくるりと転がして、自身に向き合わせた。
強引なケイに動揺して、微かに目を見開くアイリーン。
なっ、何
アイリーン。……お前は、どうしたい?
揺れる青の瞳を、まっすぐに見据える。
この世界に残りたいのか。……あるいは、帰りたいのか
どくん、という鼓動の音を、聴いた気がした。
……オ、レは
平素からは考えられないほど、弱々しく声を震わせたアイリーンは、ケイの視線に耐えきれなくなったかのように目を伏せる。
オレは……
沈黙を受け取ったケイは、華奢な体をそっと抱きしめた。
……俺は、アイリーンが一緒に居てくれたら、嬉しい
静かに、しかしはっきりと、ケイは告げる。胸元でアイリーンが、はっと息を呑むのが分かった。
でも、……やっぱり、アイリーンに決めて欲しい。このあと……どうしたいのかは
アイリーンは、押し黙る。だがケイはそれでも、言葉を続けた。
俺とお前じゃ、状況が違い過ぎるし、そのせいでアイリーンが悩んでるのは、分かってる。何故『こっち』に来たのかも分からないし、帰るためにはどうすればいいのかも分からない。普通の人間なら、不安で、悩むのは、当たり前のことだと思う。
俺は、……少なくとも俺は、元の世界に帰るつもりはない。けど、それでも自分が『こっち』に来た理由だけは、知っておきたいんだ。ただの”偶然”や”奇跡”なんて言葉じゃ、今回のことは、説明しきれないと思うから……
……うん
こくりと、小さく、頷いた。
それで、原因とか、帰る方法とか、……そういうのが全部分かってから、アイリーンにも決めて欲しい
ゆっくりと、頭を撫でる。
決めるのは、それからでも遅くない。だから……それまで、一緒に居よう
―できれば、それからも。
その言葉は、口に出さずに。
うん。……うん
腕の中で何度も頷くアイリーンは、いつしか、涙声になっていた。
今のケイには、何も言わずに、ただ抱きしめることしかできない。
―傲慢だろうか。
ある種の孤独の中で、ケイはひとり、物思いに沈む。
仮に―
今ここで、元の世界の全てを捨てて、自分と共に生きてくれ、と。
熱烈に訴えかければ、おそらく彼女は、それに応えてくれるだろう。
しかし。
それでいいのか。強制していいのか。自分の願いを、ただ彼女に押し付けていいのか。
うっ……っく……
悩み、苦しみ、涙を流す彼女を前に、答えは明らかだった。
これから先。
生きていくうえで、いつか必ず、何かを後悔する日がやってくるだろう。
ならば、そのときはせめて、―納得のいく形で後悔してほしい。
ケイは、そう考える。
このまま流れに任せ、この世界に留まることを選択すれば、アイリーンは必ずそれを後悔することになる。
今は良い。二人で幸せに暮らせる。だが十年後は? 二十年後は? どうだろうか。
その時になって行動を起こそうとしても、もう遅すぎるのだ。
今しかない。
『決める』には―まだ決めていない、今しかない。
悩みに悩んで、考えに考えて、それで一つの答えを選びとれば、いつか後悔するにしても、そこにはある種の『納得』があるはずだ。
アイリーンには、そうしてほしいと、ケイは思う。
―その『答え』が、“自分と共に生きること”であれと、祈りながら。
(……とんだ自己満足だ)
心の中で、嘲笑う。『自嘲』と呼ぶには、あまりに狂おしい感情。