翻って東部には、白色平野(ヴィエラブニーネン)よりもたらされる豊富な水源により、森林地帯が広がっている。寒冷な気候風土に適応した針葉植物が多く、真冬に花を咲かせる植物や全身が体毛に覆われた人型原住生物など、一種独特な、興味深い生態系が構築されている。

それに関連して、北の大地で有名なのが”魔の森”の伝承である。これは東部の森林地帯のうち、比較的人里に近い南東部のことで、不可解なことにこの地域には年中濃霧が立ち込めており―

―“魔の森”(北の大地)。

『おお、凍える岩の狭間より湧き立つ、深く怖(おそ)ろしきものどもよ。

遥かなる高みより降り注ぐ陽光も、相競って吹き荒ぶ風も、おまえを避ける。

まるでもろともに、引き込まれるのを恐れるかのように―』

“北方紀行”より、著者・ハーキュリーズ=エルキン。

“魔の森”、別名”賢者の隠れ家”、“悪魔の棲む森”とは、北の大地の北東部に広がる地域の呼び名である。

元来、北の大地の東部は白色平野(ヴィエラブニーネン)を水源とする樹海が広がっている、その中でも特に北東部は、気象条件を問わず常に霧が立ち込めているという。

この森は現地の住人たちに魔界、あるいはある種の聖域と看做(みな)されている。前述の”北方紀行”の著者、旅行家ハーキュリーズ=エルキンは『森に立ち込める霧はあまりに濃く、まるで巨大な壁が目の前に立ちはだかっているかのようであった』と記している。付近の村に滞在した四日間、ハーキュリーズは幾度となく森の入り口まで足を運んだが、その異様な雰囲気に圧倒され終に中にまでは踏み入ることは出来なかったという。

その埋め合わせをするかのように、ハーキュリーズは現地の住民に精力的な聞き込みを行い、情報収集に努めた。霧の中で蠢く、見上げるほどに巨大な人の影。時折聞こえてくる女の悲鳴に似た絶叫や無数の足音。夜になればそこかしこに漂う鬼火など、この森にまつわる不可解な話は枚挙に暇(いとま)がない(詳しくは”北方紀行”の項を参照)。

しかしその中でも特に興味深いのは、“賢者の隠れ家”という別名の由来にもなった、霧の彼方に館を構える賢者の逸話であろう。数歩でも足を踏み入れれば発狂、迷い込めば命はないと言われる”魔の森”であるが、正気を保ったまま戻ってくる者も稀に存在する。

その者達の口から語られるのが、霧の森に佇む、場違いなほど豪奢な館の話だ。そこには奇抜な赤い衣に身を包んだ賢者が、無数の蔵書に囲まれて暮らしているという。森を彷徨い歩き、運良く館まで辿り着いた者たちは、賢者に森の入り口まで送り届けて貰い無事に生還を果たしたとのことだ。その際、万病の特効薬や貴重な魔術の秘奥を与えられた、という話もあるそうだが、真偽のほどは定かでない。

いずれにせよ、“魔の森”に迷い込み、赤い衣の賢者と邂逅した、と主張する者が一定数いるのは事実である。研究によれば、“魔の森”には低位の精霊の活動を阻害するほどの強力な結界が張り巡らされており、少なくとも森の中にそういった魔術的領域を構築する”何か”がいることは確実視されている。

しかしながら、P.K.742年の”戦役”による公国との関係悪化を受け、魔術師団の調査が打ち切られたことから、詳しいことはまだ判明していない。

†††

もぞもぞ、と、隣で何かが動く気配。

薄暗い中、ケイはぼんやりと目を覚ました。宿屋の一室。天井の木の梁、鎖にぶら下げられたランプ。横を見れば、 う~ん と声を上げながらアイリーンが目を擦っているところだった。

ぱちぱちと、ケイを捉える青い瞳。お互い寝ぼけ眼のまま、しばし見つめ合う。

……おはよ、ケイ

おはよう、アイリーン

頭を撫でると、むふ、と笑ったアイリーンが、上体を起こして うーん と猫のように背伸びをした。シーツがぱさりと落ちて、白いからだが露になる。

両手を挙げて、ちょうど万歳の形で惜しげもなく晒されるそれを、斜め下の角度から鑑賞する。まろび出る、と表現するには些(いささ)か慎ましやかだが、大きさに貴賎はない。右胸、白い肌にはっきりと残る、小さな傷跡―

……む

と、視線に気付いたアイリーンが、ぴろりとケイのシーツを捲り上げる。

―He’s(げんき) fine(だな)!

ニヤリと笑うアイリーンに、 うむ と重々しく頷いてみせながらケイは身を起こす。このまま若さに身を任せておっぱじめたいのは山々であったが、そうすると一日が使い物にならなくなってしまう。イチャつくのは暗くなってからでも遅くはない。

さて、起きるか

んだな

いそいそと、足元に脱ぎ散らかされていた下着を身に着け始めるアイリーン。それを尻目にベッドから抜け出したケイは、雨戸を大きく開け放った。

雲ひとつない快晴。朝焼けの空に視線を走らせ、星々の並びに異常がないことを確かめたケイは満足げに頷く。

爽やかな朝だ。今日も、いつも通りの一日になるだろう。

ケイたちが公都図書館に出入りするようになってから、早二週間。

相変わらず”HangedBug”亭に部屋を取るケイたちであったが、ここのところ、その日常はパターン化してきている。

まず朝起きて顔を洗った後は、中庭で軽くストレッチだ。勿論ストレッチといっても、いやらしい方ではない。屈伸やアキレス腱から始まり、柔軟体操で体をほぐしていく。

元体操選手で、身のこなしからしていかにも体の柔らかそうなアイリーンは兎も角、ケイまでが180度開脚をこなすのは傍目には奇異に映るらしい。中庭に顔を洗いに出てきた宿泊客たちが、地面に足を広げてべったりと張り付くケイを見るたび、ぎょっとした顔をしていた。

ちなみに、ケイの身体(アバター)の柔らかさは、今に始まったことではない。 DEMONDAL のゲーム内ではアバターの関節が柔らかめに設定されていたので、リアルではどんなに体の硬いプレイヤーでも、楽々体操選手のような柔軟性を発揮できたのだ。その点、生身が骨になりかけていたケイには、皮肉としか言いようがなかったが―。

余談だが、ゲームのノリのままリアルで180度開脚しようとして、ぎっくり腰になったプレイヤーもいるらしい。

さてと。柔軟はこれくらいにして……

おっ、やるか? よーし、かかってこいよ!

コキコキと首の骨を鳴らすケイ、挑発的にクイクイと指を曲げるアイリーン。

柔軟体操(ウォーミングアップ)の次は、アイリーンと組み手をする。勿論、組み手といってもいやらしい方ではない。腕がなまらないよう、近接戦闘の復習だ。

他の宿泊客たちの好奇の視線をよそに、中庭で相対する二人。ケイはファイティングポーズで、アイリーンは自然体のまま、不敵な笑みを浮かべている。真剣で遣り合うのは流石に危険なので、念のため互いに素手でやっているが、―ケイが本気で剣を持って斬りかかったところで、アイリーンに傷を負わせられるか怪しい。

一呼吸。数歩先、視界に悠然と佇むアイリーンを捉える。

……いくぞ

ぐんっ、と。

踏み込んだ。最小限の動きを意識し、掌底を放つ。

狙うは胴。威力よりも速さを重視、迷いなく叩き込む。

そこに一切の手加減はない。容赦もない。

手抜きしてどうにか出来るほど、アイリーンは易(やす)い相手ではない。

肉薄。急激な接近、アイリーンの顔が大写しになるような錯覚。

不敵な、面白がるような笑みが妙に印象的に映る―

瞬間、金色がぶわりと広がった。

それはさながら白い蛇のように。

絡み取る。ケイの右腕。捻じ曲がる軌道。

凄まじい負荷が肩を襲い、たまらず姿勢を崩す。

そして狙い澄ましたように足が払われ、視界がぐるんと回ったかと思うと、気がつけば尻餅をついていた。

すわ喧嘩かと止めに入ろうとしていた見物人たちが、呆気に取られたように、ぽかんと口を開けて硬直している。呆然としているのは、ケイも同じだった。何が起きたのか分からない。

ぺしっ、と軽い音を立てて、首の後ろが叩かれた。

勢いがよければ良いってもんじゃないぜ、ケイ

振り返れば、アイリーンが腰に手を当ててケイの顔を覗き込んでいる。

……そう言われてもなあ

唇を尖らせたケイは、困り顔で立ち上がった。

今の、どうやったんだ?

どうって……右手をこう、ガッて引きながら、後ろにジャンプして足払い

お、おう……

言っていることは分かるが、実際にやっているところをイメージできない。

毎回言ってるけど、ケイの攻撃は素直すぎるんだよー

しかし、俺がかけられるフェイントなんざ高が知れてるからな……

や、フェイントとかそういうのじゃなくて

―攻撃後の隙が多い。

―予備動作が分かりやすい。

―反撃されてからのリカバーが遅い。

アイリーンが次々とケイの弱点を挙げていく。手厳しい指摘にケイは渋い顔だ。

基本的に、力比べになれば滅多な相手に負けないケイだが、“柔よく剛を制す”の言葉通り、アイリーンのような技量に長けた戦士とはとことん相性が悪い。弓の腕こそ頭抜けているものの、こと近接戦闘にかけては基本から外れた動きができないので、一定ラインより上の戦士にはまるで歯が立たないのだ。

ちなみに、ゲーム内の上位陣にはアイリーン並の戦士がゴロゴロいたので、その中でのケイの相対的な強さはお察しであった。

―と、いうわけで、その辺に気をつけてもう1回やってみよー

出来る気がしない……

心なしか先生っぽい口調のアイリーンに、早くも諦めモードのケイ。ゲーム時代から明白だったが、ケイに白兵戦のセンスはない。

その後、30分ほどアイリーンに関節を極められたり投げ飛ばされたりしてから、最後に打撃のスパーリングをこなし、朝の運動は終了した。

二人で組み手をしている間に、朝の混み合う時間は過ぎたのか、食堂はそれなりに空いていた。

あら、おはようお二人さん。今日も元気ね、朝から訓練なんて

ケイたちが食堂に入ると、トレイを片手に忙しげに給仕していたジェイミーが愛想よく笑いかけてくる。

やあ、おはよう。やらないと体が鈍るからな

それで、朝食?

ああ、いつもどおりで頼む

OK、ちょっと待っててね

厨房の奥へと引っ込んでいくジェイミー。一時はケイとアイリーンが揃って登場するたびにダメージを受けていたが、流石にもう慣れたのか、今では平気な様子だった。

一方、ケイの傍らのアイリーンは、ジェイミーの方は見向きもせずに、他の客の皿をチラ見して 今日はホットサンドか…… などと呟いている。大会の打ち上げ以来、アイリーンは積極的にジェイミーと話そうとせず、また、ジェイミーもアイリーンと目を合わせようとしない。女の確執をビンビンと感じるケイであったが、この件に関しては努めて気付かぬフリを決め込んでいる。触れるとロクなことにならないのは火を見るより明らかだった。

で、今日はどうする?

いそいそと席に着きながら、アイリーンが問いかけてきた。

どうするもこうするも、……いつも通りだろ

だよなー

にべもないケイの返答に、へにゃりとテーブルに突っ伏すアイリーン。ケイもため息ひとつ、遠い目で頬杖をつく。

ここ二週間、図書館が休館の日曜は除いて、ケイたちは朝から晩まで読書漬けだった。

“大百科事典(エンサイクロペディア)“で気になる単語を調べ、並行して参考文献や関連書籍なども読み込んでいく。便利な検索機能があるわけでもなく、 どの情報が必要なのか は結局自分でしか判断できないので、自分で手当たり次第に目を通すしかない。そして学術用語や詩的表現に苦戦させられ貸し出しの英英辞典が手放せない日々には、ケイもアイリーンもいい加減うんざりしていた。

が、その甲斐あってか、調査自体は非常に捗っている。

むしろ必要な情報はほぼ出揃った、といっていい。

元よりエッダから”霧の異邦人”というかなりピンポイントな情報は聞いていたので、その線を辿って調べを進めていたのだが―調べれば調べるほど”魔の森”や”赤衣の賢者”など、興味深い伝承が次々と見つかった。

特に”魔の森”に関しては、十数年前に派遣された魔術師団の研究資料が公開されていたため、情報の確度はかなり高い。その他の伝承とも絡めて多角的に検討した結果―高位の精霊か、件の”賢者”か、はたまた別の魔術的要因か―詳細は不明だが、いずれにせよケイたちは、北の大地の”魔の森”に転移の手がかりがある可能性が高い、という結論に達した。

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