それは長衣を羽織った、痩身の乙女であった。ウェーブする長い髪、うっすら透けて見える青い色。冷や汗をかいて震えるコウの背にしなだれかかるようにして抱きつき、首筋に唇を這わせている。
―Mi naskigxis.
囁くような、それでいてはっきりと聞こえる声。氷の手で背筋を撫でられているかのような感覚。
うっすらと笑みを浮かべた乙女は、愛おしげにコウの首筋をくすぐってから、背後の空間に薄れて消えていった。
……な、るほど。成る程
額を伝う冷や汗を拭いもせずに、口の端を吊り上げるコウ。
今のが『魔力を吸われる』ってヤツか……
……大丈夫?
うん、まあなんとか。……しかし困った、こいつはゲームじゃありえない……
言葉の後半は、ぼそぼそと呟くように。
頭を振ってから立ち上がろうとするコウであったが、ふと凍結した足元の草に着目し、無造作に引っ張った。
……はは、二人とも。見てご覧よ
苦笑しながら、引っこ抜けた雑草を二人に示す。
草が抜けた。ご丁寧に土までついてる
……なんだと!?
その言葉の意味をいち早く察したバーナードが、がばりと地に伏せて手当たり次第に草を抜き始めた。雑草特有の青臭さが、草原の風に吹き散らされていく。手の届く範囲の草を抜いただけでは飽き足らずに、さらに拾い上げたメイスでガッガッと地面まで掘り始めるバーナード。
……マジだ
やがて、爪を草の汁で汚し、土だらけのメイスを握ったまま、放心したようにバーナードは呟いた。
ゲームじゃ、あり得ないね。あり得ないよこれは
ゲームじゃないって……だったら、何なのよ
コウの言葉に、傍らで立ち尽くすイリスが慄いたように問う。
あァッ!? 決まってんだろうがよォ! 現実(リアル)だよッ!!
代わりに叫ぶようにして答えたのはバーナードだ。くっくっく、と肩を震わせて笑うバーナードであったが、徐々にその笑い声が大きくなっていき、終いにはその場で腹を抱えて笑い転げ始めた。
ヒーヒヒ! 遂にやったぜェ! クーフフハハハヴァハハッハッハッハ!!
ヴァーハッハッハ、ハッハハハとけたたましい笑い声が響く、響く。
その金色の瞳に薄く涙まで浮かべて、バーナードは狂ったように笑い続ける。あまりに尋常ならざる様子に、声をかけようとしていたコウも閉口し、イリスに至っては何か見てはならないものを見てしまったかのような、困惑と怯えの表情を浮かべている。
そんな二人をよそに、今度は自分の引き千切った草を口に詰め込み、咀嚼し、歓喜の声を上げるバーナード。
ヴァッハッハハヒヒヒヒ、すげェ、すげェぞ! 草食ったら味がする! 苦エェェ! クソみたいに不味イイイィィ! フッフフィヒェヒェヒェ
そのままやおら立ち上がり、ピューゥイッ、と指笛を吹き鳴らす。離れて草を食んでいたまだら模様の馬―バーナードの乗騎が、嬉しそうに駆け寄ってくる。
うおォい、オメェも生きてんだな! すげェ! 毛の臭いもするし、ヴァッハハ、馬って思ったよりクセーんだなッ!
べろべろと顔を舐めてくる乗騎のたてがみを荒々しく撫でつけ、やたらと嬉しそうなバーナードは、
そォらッ!!
馬の顔面に、右手のメイスを叩き込んだ。
ボギュッと鈍い音とともに馬面が赤く爆発する。頭蓋骨が崩壊しピンク色の脳髄が飛び散り、ぐちゃぐちゃになった傷口から、エフェクトではない血飛沫が噴き出した。
ハッハァーこいつァすげェ、リアルだッ!!
どうっと力なく倒れ伏す馬の死体を前に、全身から返り血を滴らせながらも大はしゃぎするバーナード。
呆気に取られる二人。
―と、イリスの足元に、ころころと、吹き飛ばされた眼球が転がってくる。
い、……イヤアアアアァァアァッッ!
何やってんだよ!!!!
悲鳴を上げるイリス、理解不能な行動に思わず声を上げるコウ。
だがバーナードはそれを歯牙にもかけず、ただ豪快に笑った。
あァ!? んなもん決まってンだろォーがァ! 食うんだよッッ!!
……は?
おいコウ、オメェたしかナイフ持ってたよな? ちょっと貸してくれよ、コイツ解体すっから
…………
コウ? どうした、早くしろよォ
……ああ、うん。いや、分かった
頭を振ったコウは、腰のベルトから短剣を外し、鞘ごとバーナードに放り投げる。
ありがとよッ!
うん。どういたしまして……
嬉々として解体に取り掛かるバーナードの背後、投げ遣りに答えながらコウはイリスを見やった。
…………
ドン引きした様子のイリス。それはコウも同じであったが。
……はぁ
やれやれ、とコウは小さく溜息をついた。
†††
とっぷりと日が暮れた後。
木立の中に隠れるようにして佇む、石造りの廃墟に、揺れる焚き火がひとつ。
コウたちだ。
あの後、見晴らしの良い草原は野営に向いていないということで、岩山を中心に周辺を探索し、見つけ出したのがこの場所だった。
ハッハァ、コウが塩を持ってたのはラッキーだったなァ! ありがとうよ!
平石の上に腰掛け、ジュージューと肉汁の溢れる骨付き肉に、ぎざぎざの鋭い歯を突き立てるバーナード。傍らには、解体途中の馬の遺体が無造作に横たえられている。この数百kgにも及ぶ肉塊を、バーナードはたった一人で軽々とここまで運んできたのだ。“竜人《ドラゴニア》“の特性の一つである怪力は、『こちら』でも有効であるらしい。
ちなみにこの焚き火も、バーナードの”炎の吐息(ブレス)“によるものだ。
まあ、素材が新鮮でも味がないことにはね
その対面に座るコウは、同じく肉にかぶりつきながら力なく笑みを浮かべる。身にまとうのは薄手のシャツと簡素なズボンだけなので、夜の空気が少し肌寒そうにしていた。種族としての特性なのか、あるいは寒がりなのか、はたまた単に肉を食いたいだけなのか、やたらと火に寄りたがるバーナードと同様、焚き火で暖を取っている。
…………
そんな二人から少し離れて、指先で摘んだ小さな肉の切れ端を、ちびちびとかじっているのはイリスだ。コウから借りっ放しのぶかぶかのローブにくるまり、どうにも居心地が悪そうにしている。その背後には、灰色の馬と黒毛の馬がそれぞれ落ち着かない様子で立っていた。先ほどの乗騎撲殺の一件以来、二頭ともすっかり怯えてしまい、決してバーナードに近寄ろうとしない。
もっしゃもっしゃと、男たち二人がただ肉を咀嚼する音だけが響く。
……それで、どうしようか?
あァん?
唐突なコウの問いかけに、目をぱちくりとさせるバーナード。
……この後のことかァ?
まあ、そうだね
そうだなァ。今日はもう暗いし寒いからな、とりあえずここで肉食って野営して、あとは明日にしようぜェ
その明日に何をするかって話なんだけど
ココは DEMONDAL の世界だろォ多分。なんでリアルになったかは知らんが。ともあれ、それなら村の一つや二つもあるだろ
ペッと骨の破片を吐き捨て、肉を手にしたまま、バーナードはニヤリと口の端を吊り上げた。
―適当に襲おうぜェ
……やはりそうなるか。ブレないな君は
ぺし、と額を叩いてコウは苦笑いする。その後ろの暗がりで、イリスは怯えるような気配を濃くした。
まあ、とりあえず今晩は休めるのが僥倖か……今からどうこうするには、僕はちょっと疲れたよ
俺も肉が食いたいからなァ!
好きなだけ食べるといい。肉は腐るほどあるし、元より君の馬だ
全く困った奴だ、とでも言わんばかりに、皮肉な、それでいて厭味の無い笑みを浮かべるコウ。ヴァッハッハ、と上機嫌で笑ったバーナードは膝を打って言葉を続ける。
それにしても意外だったぜェ。オメェがアジアンだったとはなァ
両親が日本人でね。国籍は英国人(ブリティッシュ)だよ
ハッ。なるほどなァ、道理でまどろっこしい喋り方すると思ったぜ
そう言うバーナードは米国人(アメリカン)かな?
おうよ
頷きながら、手を脂まみれにして肉を頬張り続けるバーナード。
その見かけと同様に、まるで化け物じみた底無しの食欲であったが、馬一頭分の肉は流石に一晩で消費するには多すぎた。
ダメだ……もう食えねェ
軟骨と筋しか残っていない骨を放り投げ、ごろりとその場に寝転がる。
よくもまぁこんなに食えたもんだ……
へっへへ、新鮮な肉だ、ついハシャイじまったよ……
バーナードの力の抜け切った全身からは、満足感が滲み出るかのようだ。その凶悪なトカゲ面に思いのほか穏やかな表情を浮かべ、あくびを噛み殺す。
ふぁ……ダメだ、食ったらクソ眠ィ……
どちらにせよ今晩はここで野営だ、しばらく眠るといい。交代で番をしよう
ごそごそと腰のポーチを探るコウは、バーナードに優しく声をかける。
ん……頼むぜェ……適当に起こして……く……
呂律が回らなくなったが最後、すやすやと寝息を立て始めるバーナード。一方、ゆらりと音もなく立ち上がったコウは、バーナードを無表情で見下ろしつつ、腰のポーチから何やら怪しげな粉末を取り出した。
Darlan. Arto, Kon-sui.
“宣之言(スクリプト)“を唱えるとともに、バーナードに粉末を振り掛ける。きらきらと輝く金色の粒子が、バーナードの身体に吸い込まれていく。
それを背後から見守るイリスは、夜の闇の向こう側に、羽根を生やした小人の姿を幻視した。
……さて。これでようやく、落ち着いて話ができる
焚き火を背に、イリスの方へと向き直るコウ。
……眠らせたの?
5回分の触媒を一度に使った。いくらバーナードでも当分は目を覚まさないよ
椅子代わりにしていた倒木に腰を下ろし、幾分か疲れた様子でため息をつく。
……改めて自己紹介といこうか。僕はコウタロウ=ヨネガワ。さっきも言ったけど、両親が日本人の英国生まれさ。よろしく
アタシは……イリス=デ・ラ・フェンテ。スペイン人よ
ほう? 実名プレイか。なかなかやるね
どうせリアルの知り合いは DEMONDAL なんてプレイしないし……
それにしても英語が上手だ。てっきり同郷だと思ってたよ
インターナショナルスクール通ってたから……
ああ、なるほどね
したり顔で頷きつつ、(金持ちのお嬢さんか?)という言葉は飲み込んだ。
……それで、これからのことなんだけど。どうする? アレ
そうね……
顎で背後のトカゲ男を示すコウに、げっそりとした表情を返すイリス。耳もその心情を表すかのように、ぺたりと力なく垂れている。
いつも一緒に行動してて、ヤバいヤツだとは思ってたけど。……正直ここまでイカレポンチだとは思わなかったわ
同感だよ。ゲームだと直接の危害がないから、笑って見てられたけどさ
顔を見合わせて、同時に深く溜息をつく。
これからどうするか、にも依るんだけど。僕の個人的な意見としては、彼とは行動を共にしたくないね
アタシもそう思う。何をするか分かんないもの
『どうするか』と問いかけて迷いなく『村を襲う』と答えるヤツだからな……
ぺし、と額を叩いて、コウは苦笑した。
とりあえず、イリスがまともでよかった。君までバーナードみたいなヤツだったら、どうしたらよかったのか
それはコッチのセリフよ。正直さっきまではコウも一緒なんじゃないか、ってちょっと心配だったんだけど。……ホントに良かったわ演技で
今一度、重い溜息をつき、イリスは両手で顔を覆う。
……ねえコウ、これってホントに現実なの? アタシ、悪い夢でも見てるんじゃないかしら?
さあてね。僕としても、これが夢であって欲しいと願ってやまないけれども
くぐもった、震えるイリスの声に、明後日の方向を見やりながらコウは答える。
だけど、こんなリアルな夢があるものか……?
ぱちっ、ぱちっ、と焚き火の中で、枝の爆ぜる音。静かな夜の森。
―しかし、いつまでも、こうしているわけにはいかない。
よし。イリス、ひとつ提案がある
話に弾みをつけるため、パンッと手を叩いて口を開くと、音にビビッたのかイリスがビクリと身体を震わせる。ビンッと毛を逆立てる耳。
あ、ごめん。脅かしたかったワケじゃないんだ
いや、だ、大丈夫だケド。それで?
うん。まあこれからの行動指針だ。『ここ』が DEMONDAL そっくりの異次元世界であり、かつ僕らが何らかの原因で転移してしまった、と仮定して話すけど、僕としては『現実世界への帰還』を目標にして行動したいと思う。君は、その辺どう思う?
アタシも帰りたいわ。こんな世界ゴメンよ
だよね
思い返すのは、ゲーム内で自分たちが積み重ねてきた悪行の数々だ。あんな無法者が普通に存在しうる世界など、余程の理由でもない限り留まりたいとは思えない。