一方、最初はテンション低めだったサスケは、しばらく走るうちに開き直ったらしく今は足取りも軽やかにぱしゃぱしゃと泥を跳ね上げていた。そう、石畳で舗装された街道の上を行くだけではなく、ケイたちは斥候として不整地を走り回る。お陰で跳ね返りの泥が酷く―ケイは早々にブーツやマントの裾を気にするのをやめた。

大丈夫か、ケイ

ケイの不慣れな雰囲気を察したらしく、ピョートルが声をかけてくる。

ああ、なんとかな

そうか。わたしの後についてくるといい。泥に入ると動けなくなることがある

分かった、ありがとう

ピョートルの誘導を受けながら手綱を捌く。この手のぬかるみは危ない、あのような色の水溜りは大丈夫、といった具合に、ノウハウを教わりながら慎重に進んでいく。幸い、ケイも目が良いので、危険なぬかるみとそうでないものの区別くらいはすぐにつくようになった。

けっこう冷えるな

誰に言うとでもなく一人ごちる。曇り空と雨のせいか、夏の癖に妙に寒い。夏、といっても秋が近づきつつある晩夏ではあるが、それにしても公国に比べると気温がかなり低いようだ。

(夏でこれなら冬はもっと酷そうだ……)

あと一ヶ月―いや数週間、旅の出発が遅れていたら北の大地に踏み込むことすらできなかったかもしれない。

(風邪でも引いたら大事だな)

『身体強化』の恩恵はあるが、あれは絶対の健康を保証するものではない。振り返れば、遥か後方にゆっくりと進む隊商の馬車の一群が見える。あの中ほどで自分と同じく雨に打たれているであろうアイリーンを思って、ケイは少し心配になった。

―その頃、アイリーンはちゃっかりランダールの馬車に同乗して雨風を避けていたのだが、ケイには知る由もなく。

ケイ、次はあっちだ

了解

目を凝らす。白く霞がかって見える雨粒のカーテンの先―鬱蒼とした茂みを見透かすように。

木立の中は薄暗い。枝葉を伝って滴り落ちる水滴が、外の雨音とはまた違ったリズムを刻む。しと、しと、と。柔らかな土に水の染み込む音。そよぐ風、弾ける雨粒、無数のさざめきに満ち溢れながら、静かな空間。

まるで、別の世界だ―平和で、ゆったりとした時間の流れ。

ごてごてと弓や鎧で武装して、敵がいないか覗き込んでいる自分自身が、酷く歪な存在に感じられた。

(この先に何があるんだろうか……)

ふと、そんな思いが去来する。あまり、考えたくないことでもあった。この旅路の果てに何が待ち受けているのか。

何もないということはあるまい、とケイは思う。

ウルヴァーンの図書館で調べた限り、ファンタジックな『こちら』の世界においても、“魔の森”は異質な存在であった。また、あの森と併せて語られる伝説―霧から現れる異邦人の話は、あまりにケイたちの境遇に合致しすぎている。行けば何かしら見えてくるものがあるだろう、という確信があった。

だからこそ、怖い。

仮に『何か』が判明した場合、アイリーンはどうするのか。元の世界に『帰れる』と分かった場合、彼女はそれでも尚、『こちら』に留まることを選ぶのか。

選んでくれるのか―。

思い返すのは、これまでのことだ。まず『こちら』に来て早々、彼女は毒矢を受けて死に掛けた。その後も草原の民に襲撃されたり、“大熊(グランドゥルス)“に遭遇したりと、度々危険な目には遭っている。北の大地に踏み込んでからも、田舎の村では寝込みを襲われ、今ではこうして馬賊の脅威にまで曝されている。

地球も決して楽園と呼べるような世界ではなかったが、それでも彼女が日常生活に戻れば、そこはきっと、平和で、豊かで、便利で―。

―果たして、彼女が『こちら』に留まる理由はあるのか?

そう自問したとき、ケイは言葉に詰まるのだ。

正直な話、ケイはアイリーンとずっと一緒にいたい。彼女の存在は、もはやケイの中で大部分を占めている。元々、仲が良かったこともあるだろう。『こちら』に来てからは唯一の同郷の士であったこともあるだろう。互いに惹かれあい、今では恋人同士だ。彼女がいない生活など想像したくもない。

それでも、もし。

彼女が『帰る』と言ったならば、自分は―

…………

ぎり、と手綱を握る手に力がこもる。

ケイ、どうした?

いや、なんでもない

ピョートルが問いかけてくるが、首を振って答える。

……いかんな

こうして冷たい雨に打たれていると、どうにも思考が暗い方へと引きずられてしまう。革兜越しに、こつんとこめかみを叩く。悪い考えを追い出そうとするかのように。

…………

そうさ、なんでもないことさ、と呟いた。

ざあぁっ、と横薙ぎの雨がケイを打つ。

元々、思い悩んでも、それほど意味はないのだ。

この世界に残るのか、あるいは帰るのか。それはアイリーン自身が決めることだし、それが幸せかどうかも、アイリーン本人が判断するべきことだ。

確かに、 一緒にいてくれ と一言告げて、彼女の心に楔を打ち込むのは容易い。あるいは、そうするべきだと言う男も、世の中にはいるかもしれない。

ただ―やっぱりケイは、それは何か違うと思うのだ。

この旅が始まる前から、常日頃考えていたことだった。彼女の自由意志に任せる、とうそぶきながら、一緒にいてくれることを期待するのは傲慢ではないかと。今までは、そう思ってしまうのも仕方のないことだと、考えるのを途中でやめていた。

ただ、今は違う。今回の旅を通して、ケイの心構えも変わった。

なぜ自分はここにいるのか。それを考えると、答えはひとつしか出てこない。

愛ゆえだ。

アイリーンのために、自分にできることをしたかった。そして、その想いをじっくりと見つめなおすと、おのずと見えてくるものがある。

やはりアイリーンには幸せになって欲しい。自分がこの世界にやってきて救われたように、屈託なく笑っていて欲しい。そのためなら、何だってできる。何だってやってやる、と叫ぶ心が。

だから―

もし、旅路の果てに、答えが見つかったならば。

そしてその上で、彼女が本当に元の世界に帰りたいと願うならば。

笑って見送ろう、と。

ケイは静かに覚悟を決めた。

(……まあ、土壇場でどうなるかは分からんが)

思わず苦笑する。泣きながら 行かないでくれ と縋り付く自分の姿が、容易に想像できてしまったからだ。

ただ、何はともあれ、アイリーンが幸せでいて欲しいと、そう願う気持ちは本物だ。それゆえにこうして北の大地くんだりまで態々やってきた。そのことに、少しくらいは胸を張ってもいいだろうと、ケイは気持ちを切り替える。

心なしか、目の前が明るくなってきた。

いや、目の錯覚や、気持ちの変化によるものではない。前方、遥か彼方に雲の切れ間。わずかに青い空が覗いていた。

“天使のはしご”と呼ぶのだったか―陽光が幾条もの線となって降り注いでいる。そしてケイは、そこにうっすらと浮かび上がる虹色の光に気付いた。

やあ、これは

前を進んでいたピョートルが、槍を掲げて子供のような笑みで振り返った。

ケイ。虹だ

……みたいだな

ぽかんと、間の抜けた顔でケイは答える。肉眼で虹を見るのは、実に十数年ぶりのことだった。最後に見たのは―病院の窓から、外を眺めたときだっただろうか。

いつの間にか、雨もぱらぱらと小降りになっている。そういえば、こんな天気の日は虹が出やすいのだった、とケイはおぼろげに思い出した。鷹のそれより優れた両眼は、七色のグラデーションを克明に映し出す。幼い頃の記憶よりも、ずっと色鮮やかに。

ケイは、虹を見るのは初めてか?

あまりにもケイが呆然としているので、面白がるように問うピョートル。

……いや、初めてじゃないが。随分と久しぶりのことだったから

我に返ったケイは、少し気恥ずかしげに笑って、再び虹に視線を戻した。

……綺麗だな

公国では、雨の日には屋内にこもっていることが多かった。街中で過ごしていたこともあり、虹を見かけるような機会にはとんと恵まれていなかったのだ。

雨の日に出歩くのも悪くないじゃないか、と。そう思えた。

……ん

しかし、視界の端に、小さな違和感を覚えてケイは声を上げる。

―黒点。

それは、鳥だった。一羽の黒い鳥が、ゆっくりと上空を旋回している。そのフォルム、濡れたような闇の色―鴉だ。

じりっ、と首筋に焼け付くような、かすかな感覚が走る。

ケイが眺めているうちに、急降下した鴉は、そのまま吸い込まれるようにして前方の木立へと消えていった。

鬱蒼と茂みが生い茂る、まるで小さな森のような暗い木立。

……ケイ? どうした?

…………

注視する。

彼我の距離は五十メートルほどか。ケイの目を以ってしても、何か不審なものは捉えられない。

ただ、なんだろう。

のっぺりとした、澱んだ空気を感じる。

ケイは無言で、矢筒から一本の矢を抜き取った。“竜鱗通し”につがえ、構える。引き絞って狙うのは、もちろん前方の木立だ。ふるりと、動揺するような気配を感じ取った―気がした。

放つ。快音。銀閃が弧を描き、木立に吸い込まれ―

ぐわん、と音すら錯覚させる勢いで、木立の闇が討ち払われた。

なっ

ケイは目を見開く。

数十の瞳。

その視線に曝されて。

偽装、隠蔽、認識阻害。そういった類の術式を自身が『破った』ことに気付き、全身が総毛立つ。

そして次の瞬間、

ヴヴヴヴヴンと、

一斉にウッドベースをかき鳴らすような音が。

木立から銀色の光が飛び出した。その数、少なく見積もっても五十。

ヒゥウウゥゥと背筋が寒くなるような音を立てて、無機質な矢の群れが、まるで横殴りの豪雨のように―

あ、あああ……!

咄嗟に盾を構えながらも、ピョートルが絶望したような声を上げる。多すぎる。とてもじゃないが、避けきれない―

シーヴッ!!

ケイはそれに構わず叫んだ。

Arto, Zetsu!

サスケの額当て。魔除け(タリスマン)が砕け散ると同時、緑色の風が吹き荒れる。

ズチュッ、ドチュンと音を立てて周囲に矢が突き立つ。しかし一本たりとてケイたちを傷つけることはない。不自然な風に押し流され、悉く逸らされたのだ。

くすくすくす、とかすかに響く、あどけない少女の笑い声―

ケ、ケイ……

戻るぞ!!

何が起きたのか分からない、といった様子で驚愕に打ち震えるピョートル、叱咤するように叫ぶケイ。いななきを上げて、隊商の方へ向かって猛然と駆け出すサスケ、ハッと我に返ったピョートルも乗騎に鞭を入れてその後を追う。

背後で雄叫びが上がった。振り返れば、木立から続々と姿を現す騎馬の一群。

褐色の毛並みの馬、跨る男たちは革鎧を身につけ、その手には小型の複合弓。

そう、間違いない―

『敵襲、敵襲―ッ!』

あらん限りの声で、ピョートルが叫ぶ。

激しく揺れる馬上、ケイは矢筒から鏑矢を引き抜き、放つ。

ビイイィィィと鋭い音が、灰色の空を引き裂いた。

44. 馬賊

前回のあらすじ

ケイ あの木立怪しいな……矢打ち込んでみる

隠蔽魔術 ぬわーーっっ

馬賊A なぜバレた!

馬賊B それより隊商だ! 殺せッ!

ピョートル ウワァー馬賊だァ!

サスケ 飛び道具はやめて!

鏑矢 ビイイィィィィィィッッ!!

雨上がり。

灰色の雲が浮かぶ、まだら模様の青空。

ざあっ、と平原を吹き抜ける風が、草葉の露を散らす。

きらきらと舞い散る水滴のヴェール―

そしてそれを勢い良く突き破る影。

サスケだ。

ぬかるんだ地面を物ともせず。

泥を跳ね上げながら、稲妻のように疾駆する。

ケイは目を細め、遠方の隊商を睨んだ。揺れに揺れる騎乗、鞍越しにサスケの筋肉の躍動が伝わってくる。響き渡る蹄の音、ごうごうと耳元で唸る風、未だ疎らにぱらぱらと降る雨が皮のマントにぶつかっては弾けていく。顔面に水滴が散り鈍い痛みすら走るが、今はそんなことを気にする余裕もない。

ただ、すがるように、左手の”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を強く握り締めた。

『敵襲、敵襲―ッ!』

栗毛の馬を駆り並走するピョートルがあらん限りの声で叫ぶ。“雪原の民(ロスキ)“の言葉なので意味は分からなかったが、最大限の警戒を呼びかけるものであることくらいは流石のケイにもわかる。びりびりと伝わってくる逼迫した空気、焦りの色。

おオオオオォォォッッ!!!

鬨(とき)の声。

振り返った。

遥か後方、迫り来る馬賊の一群。控えめに見積もってもその数は優に五十騎を超える。ケイの乗騎(サスケ)に似た褐色の毛並みの馬に跨がり、取り回しの良い小型の複合弓を携えた草原の民。

ケイの卓越した視力は、彼らの顔を捉えた。

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