草原の生まれを示す、顔面の黒い刺青。満足な食も得られていないのか、病的なまでに痩せこけた頬。しかし弱々しい雰囲気など微塵も感じられない。凶悪な笑みに彩られた口元、並々ならぬ憎悪と殺意を湛え、幽鬼のように爛々と輝く瞳。
それが、一丸となって追いかけてくる。
地鳴りのような蹄の音、男たちの雄叫び、それらが暴力的な現実感を伴ってケイの耳朶に叩きつけられる。
ぞくりと背筋が震えた。現実(リアル)においても DEMONDAL の仮想(ゲーム)の世界においても、一度にこれほどの数の『敵』と相対するのは初めてのことだ。少なくともこの規模の、組織だった戦闘を可能とする集団とは。
カシュ、カヒュンと掠れた音を立てて、散発的に飛来する幾本もの矢。その多くはケイたちを捉えることなく、周囲の大地に虚しく突き立つのみ。しかし時折こちらの背を射抜かんとする精確な射撃もあり、ケイはそのたびに”竜鱗通し”を振るって空中の矢を払い落とした。彼我の距離はおおよそ百メートル、吹き荒れる風を鑑みれば、馬賊の射手の腕前はそれなりと言えるだろう。
問題は、その腕前の射手が何十人といることだ。
ごうっと風が渦を巻く。
ハッ、ハッ、と荒いサスケの呼吸が、やけに生々しく聴こえる。
前方に視線を戻す。隊商が徐々に近づきつつあった。護衛の戦士や商人たちが慌ただしく迎撃準備を進めているのが見える。馬車の周りに木の盾や衝立を配置し馬を守ろうとしているようだが、正直なところどれほど効果があるかは疑問だ。
話に聞く限り、馬賊は人質や物品の強奪ではなく、隊商それそのものの『殲滅』を目的としている。ならば、まず馬を殺して移動力を削ぎにくるはずだ。衝立や盾は馬たちを隠しきれておらず、ある程度の弓の腕前があれば馬を狙うのは難しくない。加えて円形の防御陣を組んでいた夜営時と違い、隊商の車列は道なりに長く伸びている。機動力の高い弓騎兵を相手取れば、されるがまま四方八方から射られ放題だろう。
嬲り殺し―そんな言葉が脳裏をよぎる。
(このままぶつかるのは不味い!)
隊商と馬賊の間で、刻々と狭まりつつある両者の距離を測りながら、ケイの胸に焦燥感が募る。隊商の護衛たち―雪原の民の戦士を軽んじるわけではないが、この数と機動力の差はあまりにも分が悪い。
速いのだ。
馬賊の馬の『性能』が、想像以上のものだった。
些か不健康でやつれた感のある馬賊たちだったが、彼らの馬のコンディションは非常に良い。あるいは己の食料より馬の飼料を優先しているのか―褐色の毛並みは艷やかで、足取りも軽快に生き生きとしている。
現に、全力疾走するピョートルの馬に対し、馬賊たちはじりじりと距離を詰めつつあった。ピョートルの駆る馬は隊商内でも指折りの駿馬らしいが、それでも速度が劣っている。つまり隊商内には、馬賊に対抗できる馬がいないということ。
護衛の戦士が総出で打って出たところで、追いつけないし振り切れない。馬賊は遠距離戦を得意とし、数の面でも劣勢、かと言って防御に回ってもジリ貧にしかならない。
―どうするか。
いや、考えるまでもない。
(俺が何とかするしかない、か……!)
ぎり、と”竜鱗通し”を握る手に、力がこもる。
相手の数が多すぎる。ならば、削ればいい。酷く単純なロジック。そしてそれを現実的に遂行できるのは、隊商内でもおそらくケイのみ。
わかっている。
わかってはいるが。
撤退のため全力で駆ける今、サスケの手綱を引き反転するのには、思ったよりも勇気が必要なことがわかった。
何しろ、敵の数が多い。相手が五人ならば、躊躇わなかっただろう。十人でも余裕だったはずだ。二十人でも、少々手間が掛かるが、それだけだ。
しかし、五十騎。
流石に、多い。
それは確率の問題だった。一斉に矢を射かけられた場合、そのうちの何本が精確な狙いでこちらに飛んで来るか。回避するにしろ叩き落とすにしろ、限度というものがある。運良く矢の大多数が風に流されてしまえばこちらのものだが、現状の距離である程度の精度で矢を放つ腕前の持ち主たちだ。『甘え』はおそらく許されない。
魔術―ケイが契約する”風の乙女”『シーヴ』の力で、矢を弾き飛ばすことも可能ではある。しかし、ケイがそれを行使できるのは、おそらくあと二回が限度だ。
先ほど魔術で矢を防いだときは、サスケの額当てにつけていた護符(タリスマン)を代償とした。タリスマンは魔力を練り込んで作られる、非常に強力な魔除けだ。故に有用な触媒となりうる―裏を返せば、ケイが行使した術式はそれほどまでに高燃費なものであるということ。残すタリスマンは、ケイが胸に下げるものがあと一つあるのみ。それを使い切った場合、手持ちの宝石(エメラルド)を全てと、ケイ自身の魔力も捧げれば、辛うじて風の結界を発動させられるだろう。
だが、それで打ち止め。
魔力の反動―凄まじい吐き気や倦怠感―を考慮すれば、二度目の行使のあと戦闘が継続可能かどうかも定かでない。
常人ならどうしようもない命の危機を、二回も凌げると考えれば大したものではある。それをたった二回だけ、と捉えるかどうかは考え方の違いというやつだ。
二回、あるいは一回のみの『切り札』があるうちに、敵を何(・)と(・)か(・)する。
すなわち、殺す。
馬上、ケイの息がにわかに荒くなる。それは、これから己が為さんとすることへの慄きか。人を手に掛けるのは、久しぶりのことになるだろう。ケイがわかりやすい形で葬り去ったのは、『こちら』の世界に転移してから数日後、タアフ村からサティナの街に移動する道中で、草原の民の強盗とやりあったのが最後だ。その後、諸々のトラブルでも弓を使ったので、ケイの矢が原因で死んだ者も他にいるかも知れないが。
いずれにせよ、事実は変わらない。ケイは人を手に掛けたことがあるし、それがまた再び、今日という日に訪れようとしている。
―陰鬱なものが、どす黒いものが胸中に満ちていく。
だが、やるからには。
ケイが手綱を放し、右手を矢筒に伸ばそうとした、そのとき。
わぁっ、という声がさらに右手側から響いてくる。
弾かれたように見やれば、遠く、隊商の向かって右手に位置する木立から、数十騎の騎馬が飛び出していた。
ケイの顔から血の気が引く。褐色の騎馬を駆る彼らは、間違いなく草原の民だ。
別働隊。
それも、ほぼ同数の。
後方に五十騎、右手側にもさらに五十騎以上。
合計、百騎。
『嘘だろ……クソッタレ!』
ケイの傍ら、ピョートルが呻くようにして毒づく。隊商の構成員もまた、合わせて百名を下らない。しかしその半数以上が商人とその見習いたちだ。辛うじて装備は馬賊たちのそれよりも優れているかも知れないが、人一人が身につけられる武具が、矢の雨の前でどれほど頼りになるだろう。
隊商は、もう目前にまで迫っている。まだ距離はあるが、襲歩(ギャロップ)の馬ならば瞬く間に駆け抜けられる程度の間隙。
半ば無意識のうちに。
追い求めるように、彷徨ったケイの視線は、ひとりの少女を捉えた。
隊商の中ほどで、幌を張った馬車の荷台からこちらの様子を窺い、顔を青褪めさせた金髪の少女。
―アイリーン。
ケイの愛してやまない、この世界でたった一人の大切なひと。
二人の視線が交差する。
彼女から、こちらがよく見えたかはわからない。
しかし、それでも。
視界の果て。
唇を引き結んだ少女は、小さく頷き。
背中の鞘から、しゃらりとサーベルを抜き放った。
銀色の刃が陽光を受けて、きらりと輝く。
それを見た瞬間。
アイリーンの、凛々しいとさえ言える悲痛な表情を瞳に映した瞬間―ケイの胸の内に、かっと熱いものが溢れた。
そしてそれは、すぐに氷のような冷たいものに取って代わる。
―俺は、何のためにここにいる?
……そうだ
―彼女のためでは、なかったか。
揺れていた心が、恐ろしいまでに定まった。
引きつったような、乾いた笑みを浮かべたケイは、突如としてそれを獰猛なものとし、首元の顔布に手をかける。
ピョートル! 先に行け!
サスケの手綱を引き、急激に旋回する。ケイの声に振り返ったピョートルは、あっという間に距離を離していくケイに目を剥いた。
ケイ! 何をやっている!
俺が時間を稼ぐッ!
ばっ……馬鹿な! やめろ! 無茶だ、ケイ!
後方の馬賊とケイを見比べ、ピョートルは悲鳴のように叫ぶ。しかし、流石に自分まで反転して、ケイを連れ戻そうという気にはなれないようだ。
ケイ! 戻れッ! ケ―イッ!
それでもこちらに手を伸ばして叫ぶピョートルに。
ケイは、にやりと笑ってみせた。
そして顔布を引き上げる。前へ向き直る。“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“の革兜で守られた頭部、顔の下半分は白い布で覆い隠され、露出するのは目元のみ。
顔布の端で、手縫いの赤い花の模様が踊る。
さらに旋回する。
前方を睨む。
やがて、夜のような真っ黒な瞳は―行く手に五十騎の騎馬を捉えた。
まるでピョートルに向けた笑顔とともに、全てを置き去りにしてしまったかのように。
乾いた心からはごっそりと、温かなものが抜け落ちていた。
代わりに、共にあるのは、身を切るような高揚と、冷え切った思考のみ。
ここに来てさらに勢いづいたサスケが、猛烈なまでに駆ける。
その軸が、ぴたりと馬賊の一群へ定められた。
逆に意表を突かれたのは、馬賊の方だ。
……一騎駆けかッ!
嘲笑うように、それでいて感心したように、先頭を駆ける男は笑った。突然の反転には面食らったが、所詮は捨て身の時間稼ぎと判断して鼻で笑い、あるいはその身を顧みない、ひとりの戦士の蛮勇を称えたのだ。
―その意気や良しッ!
高らかな男の声に、周囲の襲撃者たちも忍び笑いを漏らす。周囲の者たちが続々と弓に矢をつがえるのをよそに、先頭を駆ける男だけは、腰の曲刀をしゃらりと抜き放っていた。
多勢に無勢でありながら、それでも僅かばかりの時間稼ぎのために、真正面から突っ込んでくる一騎。
無謀ではあるが、一人の戦士として、その勇気に敬意を表するべきだと感じたのだ。
相手が、自分と同じように剣で応戦することは期待していない。弓を使ってきたところで所詮は一人、この距離でも矢を捌き切る自信があった。
さあ、来い―ッッ!
馬賊の先頭、曲刀を掲げて雄叫びを上げる男。
それに対し、ケイは静かだ。冷淡とさえ言っていい。
ただ―まるで次の選曲を迷う即興のピアニストのように、しばしその右手が、鞍に備え付けられた矢筒の上を彷徨う。
ほんの一瞬のことだ。やがて、ケイは一本の矢を抜き出した。
長く、鏃(やじり)は太く鋭く、青い矢羽を持つ―それを。
ケイを無謀と嗤いながら、戦士として評した男であったが。
ひとつ、決定的な思い違いをしていた。
今、少なくともこの場において。
―ケイは、狩人だ。
矢を、つがえる。
引き絞る。
朱色の弓が、ぎりぎりとしなる。
陽光を受けて妖しくきらめき―
カァン! と唐竹を割るような、甲高い音が。
銀色の、光。
風が、唸る。
先頭の一騎が、爆(・)発(・)し(・)た(・)。
ごぼァッ!
曲刀を構えていた男、その胸部に、突き刺さる銀光。反応など許しもしない、音が響いたあとにはただ結果がついてきた。“大熊(グランドゥルス)“さえも一撃で屠った矢を、その直撃を、人の身でありながら真正面に受けたのだ。革鎧など濡れた紙ほどの役にも立たなかった。
胸骨は一撃で砕け散り、えぐり込む矢に巻き込まれるようにして胸部が内側に破裂する。あまりの威力に身体は仰け反りもしない、胸部を完全に陥没させた男は、背中から臓物と脊髄を撒き散らし、壮絶な死を遂げた。
しかし、それでも無慈悲な矢は止まらない。
たった人一人の命を捧げたところで、“竜鱗通し”が満足できようか。背後の馬の頭部を撃ち抜き、さらにその乗り手をも食い破る。
血飛沫に矢羽を紅く染め上げながら、それでも尚、矢はまっすぐ突き進む。三人目の首を千切り飛ばし、四人目の胴に風穴を開け、最後に五人目の胸に突き立って馬上から吹き飛ばし―ようやくそこで止(・)ま(・)る(・)。
―?
絶句。
たった、一矢。
それの齎(もたら)した結末に。
騎馬の陣形に、ぽっかりと穴が空いていた。
まるで見えない竜の爪にでも薙ぎ払われたかのように。
あるいは雄叫びの形に口を開けたまま、あるいは弓に矢をつがえ、引き絞ろうとする直前で呆けたまま。
誰もが振り返り、吹き荒れた血風を見送るようにして、ただ硬直していた。
その、一瞬。