腰の矢筒のカバーを外しながら、暗闇を見透かそうと目を見開く。炎の明かりの届かぬそこは、常人では知覚の及ばぬ領域。しかし、まばたきほどの間に、ケイの瞳は限界まで瞳孔を開き、即座に環境に適応する。
…………
北側の森には、特に異常は見受けられない。時折コウモリや小動物の影が見えるが、それだけだ。
では翻って、木立の向こう、南側の草原はどうか。
夜風に揺れる茂み。―いや、違う、風のせいではない。
何かが、いる。
その瞬間、首筋に焼け付くような感覚が走った。
ほぼ同時、カヒュン、というかすかな音。
考えるより先に体が動いた。咄嗟に身を伏せる。手を伸ばせば届く距離、風を切る音。かつん、と背後の壁に、一本の矢が当たって跳ね返った。
―何者かに矢で射られた
―なぜ攻撃してきたのか
―数は、方向はどちらか
脳裏を駆け巡る思考。が、それを遮るようにして新たな殺気。
弾かれたようにそちらを見やる。鳴り響く微かな音。手練の一撃か。巧妙な”隠密殺気(ステルスセンス)”。辛うじて感知するも、即座に悟る。
これは自分を狙ったものではない。
殺気の向かう先、その軌道を辿れば―金髪の、少女。
アイリーン、避け―
どすっ、と。肉を打つ、鈍い音。
……え?
その呟きは、さも不思議そうに。きょとん、とした表情で、アイリーンは自分の胸を見下ろした。
右胸に―矢が一本、生えていた。
信じられない、という風に。目を見開いて。
こちらを見る。なにが、と。問いかける視線。
……ぁ
ぐらりと、その身を傾けた少女は、
アイリーンッ!
―糸が切れた人形のように、その場に倒れ伏した。
6. 逃走
ケイの行動は早かった。
クソッ!
毒づきながら、足元の焚き火を蹴り飛ばす。焚き木の炎が散らされ、辺り一面を暗闇が覆い隠した。
アイリーンっ
素早く駆け寄り、抱きかかえ、転がり込むようにして廃墟の石壁の裏に身を隠す。
俗に言う”お姫様抱っこ”の体勢―しかし、肝心のお姫様(ヒロイン)の胸に矢が突き立っているようでは色気もクソもない。腕の中にすっぽりと収まるアイリーンの華奢な体は、驚くほどに軽かった。
しっかりしろ
ささやくようなケイの呼びかけに、アイリーンは答えられない。苦悶に顔を歪ませて、ハァッ、ハァッと浅く短く呼吸を繰り返している。手の平を這う、ぬるりとした血の感触に、ケイは顔を青褪めさせた。
―失敗した。
焚き火の明かりを隠すため、こうして木立に身を潜めていたが―その考えが甘かったということが、最悪の形で示されてしまった。
(ゲームの中でさえ、警戒が必要だったっていうのに……!)
盗賊NPC、火を恐れない夜行性のモンスター、あるいはPK(プレイヤーキラー)。夜に、しかも少人数で不用意に目立つ行為は、ゲーム内ですら危険だった。
ま(・)し(・)て(・)や(・)異(・)世(・)界(・)と(・)も(・)な(・)れ(・)ば(・)。
せめてもう少し、草原側にも目を向けていれば、とケイは己の迂闊さを呪う。アイリーンは『視力強化』の紋章を刻んだケイほどは夜目も効かないし、“受動殺気(パッシブセンス)“にも長けていない。最高レベルの視力、弓という遠距離攻撃の手段、そして殺気に対する感受性。それらを兼ね備えたケイこそが、警戒役を引き受けて然るべきだった。
少なくとも、暢気におしゃべりを楽しんでいる場合ではなかった―
ぐらぐらと視界が揺れるような感覚と共に、自責の念に押し潰されそうになるが、
う……ケ、イ……
腕の中、額に脂汗を浮かせたアイリーンが小さく呻く。それを見て、ぐるぐると渦巻いていたケイの頭の中が、すっと冷えた。
(―今は、どうするかだ)
時間が惜しい。思考を切り替えた。
そっと壁の陰から頭を出して、辺りの様子を窺う。焚き火の光が失われた今、夜の木立は僅かな星明かりに照らされるばかり。それは、ほぼ暗闇に等しい空間であったが―強化されたケイの瞳は、そこに潜むものを鮮やかに映し出した。
(三人、……五人、いや六人。見える範囲でこれか)
草陰にうずもれるように蠢き、徐々に距離を詰めようとする人の影。壁の死角も考慮すると、伏兵があと二、三人はいると見ていい。完全に囲まれていた。
この襲撃者が何者なのか―ということは、この際おいておく。
重要なのは、連携する程度に知性があり、弓矢を保持した人型生物に包囲・攻撃されている、という事実だ。
……Oй……Пoчe……y……
細かい震えを起こしながら、アイリーンがうわ言のように呟く。よく聞き取れず、意味は分からなかった。ぼんやりとした目つき、焦点が合っていない。暗がりで見えないが、顔色も悪そうだった。
喋らなくていい、じっとしてろ
耳元に囁きながら、どうするべきかを考える。
―決断は、早かった。
ミカヅキ、サスケ、来い
呼びかけに、ぶるるっとミカヅキが答える。アイリーンの傷に障らないよう慎重に、しかし素早く、ケイはミカヅキに跨った。
アイリーン、ちょっとの辛抱だ。耐えてくれ
ケイの言葉は届いたのか。アイリーンは小さく何事かを呟きながら、曖昧に頷いた。
行くぞッ!
ミカヅキの横腹を蹴る。果たして褐色の馬は、いななきの声ひとつ洩らさずに、滑るようにして走り出した。
馬だッ
逃げるぞッ!
壁の裏から飛び出したケイたちの姿に、伏せっていた襲撃者たちが立ち上がる。
カヒュカヒュン、と弓の鳴る音。
ケイの顔が強張る。咄嗟に手綱を引き、ミカヅキの進路を横にずらした。
唸りを上げて、一瞬前までケイの胴があった空間を、黒い矢羽が引き裂いていく。
(やってくれるッ!)
少なくとも一人は、腕のいい弓使いがいる。振り返れば、黒い革鎧を装備した男たちが、手に手に武器を振り上げて騒ぎ立てていた。
ケイは手綱を操り、木立の間を縫うようにしてジグザグに不規則機動を取り始める。生い茂る木々が障害物になったこともあり、襲撃者たちの狙いに迷いが生じたらしい。追加で放たれた矢はどれも見当違いの方向へと逸れ、虚しく木の幹に突き刺さる。
見た限りでは、騎乗生物の影もない。―逃げ切れる、とケイは確信した。
そのまま木立を抜け、草原を東に突き進む。
(……さて、となると治療だが、どうしたものか)
ケイは心配げに腕の中の少女を見やった。馬の揺れに耐えるように、苦しげに眉根を寄せるアイリーン。
右胸の矢傷。辛うじて動脈の位置からは逸れているものの、鏃の形状によっては血管が傷ついている可能性もある。少なくとも肺に穴が開いているのは確実だ。このままでは呼吸もままならない。また、これだけの傷を抱えたまま馬に揺られるのは、お世辞にも体に良いとは言えないだろう。
しかし、先に治療するという選択肢はなかった。
確かにポーションを使えば、傷そのものはすぐに完治するかもしれない。だが、先ほどの手の平の傷を治した際の苦しみ方を考えると、これほどの重傷を治療した場合、すぐに復帰するのはおそらく不可能だろう。最悪、痛みで気絶してしまう可能性すらある。
治療中は完全に無防備。その後も、気絶したアイリーンを庇いながら戦う羽目になるかもしれない―そういった諸々を考慮すると、おのずと安全な選択肢は限られていく。
すなわち、逃げる。
周囲の地形は既に把握済みだ。このままミカヅキに駆けさせていれば、追っ手は完全に撒けるはず。ある程度進んでから、アイリーンに治療を施して再び距離を取ってもいい。
もしくは、容体が安定したところでサスケにアイリーンを任せて、ケイが単独で遊撃に回るという手も―
バウッ、バウッ
と、背後から響いた獣の鳴き声に、ケイの思考が妨げられる。
弾かれたように振り返れば、地を這うように駆ける、三つの大きな黒い影。
―“狩猟狼(ハウンドウルフ)”!
黒色のぼさぼさとした毛並み、ぴんと尖った耳に、星明かりの下でも不気味に輝く両眼。首にはめられた革の首輪が、野生ではなく調教(テイム)された個体であることを示す。
ハウンドウルフ。別名、“黒き追跡者(ブラックシーカー)”。
ゲーム内で、攻撃補助用のペットとして、非常に人気の高かったモンスターだ。その凶暴性から調教が難しく、手懐けるのは至難の業とされていたが、一度懐けば従順になり、決して主人を裏切らず、あらゆる局面で有能に立ち回る。
大柄な体躯、それに見合わぬ俊敏さ、底知れぬスタミナに、高い攻撃力。
そして何よりも恐るべきは、その追(・)跡(・)力(・)だ。
狼としての嗅覚をフルに生かし、どこまでも執拗に獲物を追い続ける。馬の駆け足程度の速さならば一晩中でも走り、三十分ほどならば馬の襲歩にすら追随が可能。
例え地の果てまで行こうとも、『臭い』が残っている限り、彼らから逃れる術はない。ハウンドウルフが自ら追跡を止めるのは、主人の笛に呼び戻されたときか、獲物の喉笛を喰い千切ったときだけだ。
そんな、死神の先駆とでもいうべき黒き獣が―三頭。
……こいつは、
厄介だ。ケイは思わず舌打ちした。じりじりと距離を詰めながら、狼の群れがそうするように、散開し追い立ててくるハウンドウルフ。時折、三頭のうちいずれかが足を止めて、夜空に遠吠えを上げている。そうやって『獲物』の位置を知らせるよう、訓練されているのだろう。
一瞬前までは気楽な逃避行だったのが、今や手に汗握る狩猟劇に様変わりだ。しかも、ケイは『狩られる』側―後ろを走るサスケも、怯えの色を見せている。
クソッ、弓さえ使えりゃな……
左腕にアイリーンを抱きかかえたまま、狼たちを睨み、ケイは忌々しげに毒づいた。
平素であれば、弓騎兵のケイにとって、ハウンドウルフは恐るるに足る相手ではない。
馬型の騎乗生物の中で最高性能を誇るバウザーホース(ミカヅキ)を駆り、百発百中の弓の腕前をもってすれば、ハウンドウルフなど足が速いだけの『的』にすぎない。むしろ、図体がデカくて逃げない分、草原の兎より仕留め易いぐらいだ。
が、今はアイリーンで片腕が塞がっている。先ほどから色々と試みているのだが、ぐったりとした彼女を腕無しで支える術がない。ゲームでは常に弓で戦ってきたケイにとって、この状況は想定外と言ってよかった。
仮に、これがゲームであれば、ケイは即座にアイリーンを放り出すだろう。
地面に激突した衝撃で死ぬかも知れないし、もしくはハウンドウルフに食い殺されるかも知れない。しかし、その隙に弓を使えば、一瞬でこの黒い獣どもを殲滅できる。
その後で―生死を問わず―アイリーンを回(・)収(・)し、治療するなり拠点で再受肉(リスポーン)させるなりすればいい。それならば能力低下(デスペナ)も所持品紛失(アイテムロスト)も免れる。なんのデメリットもない。
しかし、それが現実となると―。
(放り出すわけにはいかないよな)
腕の中、馬の揺れに耐えるように眉を寄せるアイリーン。
か弱い少女を捨て置く、ましてや馬から地面に投げ捨てるなどと、そんな鬼畜の所業はやれと言われてもできないだろう。
(ここが DEMONDAL の世界なら、復活も可能かもしれんが……)
ゲームに似(・)て(・)い(・)る(・)だ(・)け(・)の異世界、という可能性もある以上、無茶はできない。ぶっつけ本番で試すには、あまりにもリスクが高すぎた。
ウォン、オンッ!
吠え声。そうやって考えている間にも、ハウンドウルフたちがじりじりと追い上げてきている。
全力で駆けるこの黒き追跡者たちは、瞬間的な足の速さにおいて、今のミカヅキを上回っているのだ。
ゲーム内の馬型の騎乗生物では最高の速度、最高レベルのスタミナ、そして優れた走破性能を誇るバウザーホース―ミカヅキだが、いかんせんこの種族、加重に弱い。パワータイプではなく、スピードタイプなのだ。アイリーンという同乗者が一人増えただけで、最高速がガクンと落ちていた。
おいミカヅキ、根性出せ! お前の速さはこんなものじゃないはずだ!!
無茶言うな、と言わんばかりにミカヅキがちらりとケイを見る。これでも、よく走っている方だ。筋肉の密度が尋常ではないケイは、見かけに比してかなり重い。そこに重量オーバーで同乗者が加わっているのだから、既にいっぱいいっぱいの状態だった。
(……逃げ切るのは無理だな)
分かってはいたが、改めて悟ったケイの目が遠くなる。そもそも、ここで少々加速したところで、ハウンドウルフの追跡は止まらない。先ほどから、アイリーンが腰の帯に差している投げナイフが、ちらちらと目に入る。