英霊の能力とは、すなわち神の力の残照のようなものだ。神自体の格の差を差し引いても、神そのものであるマリナの力と、既に滅んだ神の力を更に英霊の数だけ分割したものとでどちらが強いかは明白だ。

だったら、なおさら!

アークを親なし子にするつもりですか?

スピナの一言に、ユニスはたちどころに勢いを失った。

アークユニスとOlの間の子、アルクレインはもうすぐ三歳になる。だいぶ言葉も達者になったが、もしユニスが帰ってこれなかった場合、その理由を説明しても理解できないだろう。

Olにとっては唯一の男児でもある。リルやスピナ、他のダンジョンの面々とて彼を無碍には扱わないだろうが、Olとユニスの庇護がなくなれば、つまらない諍いに巻き込まれないとも言えない。

それでも、と言いかけて、ユニスは握りしめたスピナの拳から血が垂れ落ちているのに気がつき、はっと息を呑んだ。

愛情の絶対量ならユニスとて負ける気はしないが、Olへの忠愛という点においてはスピナに勝るものはいないというのは、誰しも認めるところである。もし犠牲になるのが自分であるなら、スピナは一片の躊躇いもなくそれを実行するだろう。

だが、そのスピナが、ユニスを止めたのだ。それはもちろんユニスへの友情やアークへの愛もあるのだろうが、最も大きな理由はOlを想うがゆえ。Ol自身が、ユニスが危険を犯すことを決して許さないだろうという確信を、誰よりも強く持っているがゆえであった。

大きく息を吐き、全身から力を抜いてユニスは呟く。

大丈夫よ

その肩をぽんと叩き、リル。

Olは絶対生きてる。あいつがそう簡単に死ぬもんですか。それに、Olが死ねばわたしは自動的に魔界に送還される契約だしね

マリナの権能すら届かぬ先で、その契約がどれほど有効なものか。何の保証にもならないとは知りつつも殊更明るい声を出すリルに、ユニスは頷いた。

ぐ、う

ずるずると音を立てながら、壁面に預けたOlの身体が地面へとずり落ちていく。

身体が熱い。視界が霞む。息が苦しい。とても立っていられない。

(一体、何が起きた?)

マリナと別れ、地上の井戸に出るはずであった。そろそろ階段でも作ったほうがいいかもしれない、などと思いながら、しかし実際に辿り着いたのは、見た覚えもないダンジョンの中であった。その上、謎の不調が体中を覆っている。その症状に覚えがあるような気もしたが、激痛と悪寒によって思考もうまくまとまらない。

突然、壁が彼に迫り、ひんやりとした石造りの床が頬にぶつかった。一瞬の後、Olは壁が迫ってきたのではなく、自分が倒れ伏したのだと気づく。だが気づいてもどうにもならなかった。四肢に力は入らず、視界はますます霞んでいく。

目近に見える床石に、Olはふと、雑な仕事だ、などと呑気な事を思った。Olのダンジョンはもっと細かく、しっかりとした石組みをする。

その粗雑な床石を歩く、軽い足音が伝わった気がした。もはや目は見えず、耳とて聞こえない。Olが感じたのは床石のかすかな振動だ。

──

Olはそれでも顔を上げ、何事か口に出す。

しかし何と言ったのかは自分ですらわからぬまま、彼の意識は闇に沈んだ。

第1話新たなダンジョンで目覚めましょう-2

ここは?

次に目を覚ましたとき、Olは覚えのないダンジョンの一室で寝かされていた。壁も床も天井も、ついでに言えばすえたような酷い匂いも、Olの管理するダンジョンとは全く違うもの。

横たわる彼の背には何かの皮のようなものが敷かれていて、石床の硬さと冷たさをほんの僅かでも和らげようという意思が感じられた。もっとも、その努力はほとんど無意味なものだったが。

シギケヴ、ィヴ、ク?

聞き慣れない言葉と声に目を向けると、部屋の入口扉代わりであろう、粗末な布をめくりあげ、黒い髪の少女が入ってきた。

真っ直ぐな黒髪を肩口まで伸ばした、若い少女だ。年の頃は十六、七といったところだろうか。黒曜石のような黒い瞳が、じっとOlを見つめている。だがOlの視線はその瞳の上方彼女の額に向かった。

そこからは小さな角が一本、生えていたからだ。

お前が、助けてくれたのか?

気絶する前に聞こえた足音。それはちょうど彼女くらいの体重のものだった気がする。おそらくこの粗末な敷き布団に寝かせてくれたのも彼女なのだろう。体調は万全ではないものの、倒れる前に比べれば随分マシにはなっていた。

サリデ、ィヴ、ノイク、サイクセ、ニム、サルアデビ、ム

少女は困ったような表情で、そう答える。聞いたこともない奇妙な言語。音節の区切りがOlの知るどの言語ともまるで違う。遠く海を隔てた土地のヤマト語ですら、もう少し理解可能だった。

Ol

Olは己の胸に手を当て、そう、名前を告げる。

オウル

戸惑う少女にもう一度言うと、彼女はその意を察したのか音を真似して呟いた。

手のひらを差し向けるようにして、問う。

フローロ

少女フローロは、わずかに逡巡した後そう答えた。ひとまず、これで互いの名前はわかったと思っていいだろう。

オグナサルプラマルサツセエイク!

その時、部屋の外から苛立った男の声が聞こえてきた。

セズ!

フローロは弾かれるように返事をし部屋を飛び出す。

Ol。エイテ、ィク、アロクナ、ウツセル

その寸前、ちらりとOlを一瞥して何事か言いおいた。おそらくはここにいろとかそんな意味だろう。

ヌノ、ルツスジャム

オグナサルプラムシラフィヴノイク!ジュツノジルラペルプ!

隣の部屋から聞こえてくる男の声は酷い剣幕で、それに対するフローロの声は控えめでありながらはっきりしていた。これは、仕えるものの声だ、とOlは思った。

フローロが怒鳴っている男の妻なのか、娘なのか、使用人なのかはわからない。しかしいずれにしてもフローロは服従を強いられる立場である事は確かなようだ。

Olは壁に張り付くようにして、隣の部屋を覗き込む。そして、娘という線は消えたな、と思った。

怒鳴っているのは、フローロとは似ても似つかない、太った中年男であった。髪の色も目の色もフローロとは違うし、何よりその額には角が生えていない。

ニギズサヴォペニヴ!オグナサルプラム!

男はフローロを何事か叱責し、腕を振り上げる。かと思えばその手に青く輝く鞭のようなものが出現し、男はそれをフローロに向かって振るった。

やめろ

それがフローロの身体を打つ寸前、Olは男の腕を掴み止める。

オルウイテ、ィクサツセオイク!?

男は驚いたように目を見開き、フローロを睨む。

その表情を見ながら、Olはさて、どうしたものかと思い悩んだ。

思わず割って入ってしまったが、状況はわからないことだらけだ。

フローロには鞭で打たれるに足る理由があったのかもしれないし、なかったのかもしれない。この男はフローロにとってどんな相手なのかもわからなければ、この男にどれほどの後ろ盾があるかも。

あまりそうは見えないが、もしこの男が大人物であった場合、下手に敵対すればOlの身を滅ぼすことになる可能性もある。

──ならば。

オヴァルクスイティク、ノカルブナイヴギレ!

何事か喚く男の言葉が、突然途切れる。彼の肥満した身体が、Olの手を離れ空中に浮かび上がったからだ。

サ、サラフィヴノイク!?オイテ、ィクサツセオイク!?

男は慌てた様子でジタバタと暴れるが、無論そんなことで地面に降りられるはずもない。

見えざる迷宮(ラビュリントス)。Olが作り上げた魔術武装であり、極小のダンジョンでもある魔導具、ダンジョンキューブ。その不可視の外装が、男を包み込んで持ち上げていた。

ダンジョンキューブは直接相手を攻撃するような、早く重い動きができるようにはなっていない。しかし大蛇のようにゆっくりと相手を取り巻き、締め付ける事くらいは出来た。そしてその力は、人間の膂力で外せるようなものではない。

オOl、サラフィヴノイク?

フローロが恐る恐る問いかけてくるが、Olはそれを無視し、男を睨みつけて言った。

オグナサルプラム

その言葉にどのような意味があるのかは知らない。だが、罵倒の意味を持っているはずであった。それは先程から男が何度もフローロに投げかけていた言葉だったからだ。

オグナサルプラミ、ム、サツセオイチクゥク!?

案の定、男は顔を真っ赤にして怒鳴る。彼にとってひどく侮辱的な意味だったのだろう。でなければ、人はそれを罵倒として使わない。

セズ

Olはゆっくりとした口調で答えた。これは恐らくはいだ。フローロが返事をした時に使っていた。そのままでは丁寧な受け答えである可能性が高いから、Olは殊更相手を馬鹿にしたような表情で、無礼に聞こえるように言う。

ヌンニグヴェッラム!ニヴソギツロミム!ジョヴァルクッサツセイヴェイ!

怒鳴り文句をつける男の前で、Olは手を掲げ、何かを握るように指先をすぼめるジェスチャーをしてみせた。それと連動させて、男を拘束するダンジョンキューブに圧力をかける。

ぎしり、と両手両足、そして首を締め付けられる感覚に、男は焦りを見せた。

エウルフリロフ!ネルプスラムネヴ!

男は何かを命ずるように怒鳴る。

ウツラフ!ノルヌイティクセク、フローロ!

だがOlが反応せず更に締め付けていくのを悟ると、フローロに向かって怒鳴った。頼るタイミングが随分遅い。ということは妻や娘ではあるまい、とOlは当たりをつける。信頼関係が──それが一方的なものであれ──あるのであれば、人はもっと早く頼る。

Ol!ウツラフ!

フローロがOlの腕に抱きつくようにして止めようとする。だが、ダンジョンキューブは別にOlの腕で動かしているわけではない。Olに止める気がない以上、無駄な行動であった。

ウツラフニグセク

男の語気が急激に弱まり、頼むような響きを帯びる。言葉が違ってもこの手の人間の言うことは同じなのだな、と思いながら、Olは眉を上げて問い返した。

ニグセク?

言葉の意味はわからない。だが、それはまだ懇願ではないことだけはわかる。まだ男は命令している。

サテピ、ミ、セクロヴノブ

男は一瞬屈辱に表情を歪めた後、力なくそう懇願した。Olは満足げに頷き、微かに笑みを漏らす。男の体が僅かに弛緩し、彼が安堵したのがわかった。

フローロ。怪我はないか?

そしてOlはフローロに向き直り、彼女に殊更優しくそう問いかけた。

ウム?ニギ、ネルプロフ、スヴォピ、ヴ、ク?

男が不思議そうな声を上げる。だがOlはそれを無視した。無視しながら、締め付けを更に強くする。

イドネタウ、ロヴノブ!ニギテメヅロヴノブ!サテプノドラピム!サテプノドラピム!

男が叫ぶのは怒りの文句か、それとも命乞いの懇願か。声から想像できるのは後者のような気がしたが、Olは徹底して無視したし、事実として興味もなかった。

Olニミ、プレフ、ロヴノブ?

フローロが控えめに、Olに何か告げる。まあ、男を助けてやれという内容だろう。

セズ!ニミプレフ!

喚く男にOlはもう一度視線を向けて。

うるさい

平坦な声で、ただそう告げた。何の感情も興味も交えない、怒気や苛立ちさえこもっていない、家畜に対して告げるような声色。

Olが自分を救う気などないのだと察した男の顔が、青く染まっていく。そしてそのまま、彼はがくりと項垂れ、動かなくなった。気脈を本格的に封じ、気絶させたのだ。

ニグ、シギトロミ、ヴ、ク?

地面に下ろした男に恐る恐る近づき、フローロは問う。殺したのかといったところだろう。

いいや。殺してはおらん

男にどれだけの後ろ盾があるのか、敵対することの危険度がどれほどなのか、Olにはわからない。だから男を止めるなら方法は一つしかなかった。

恐怖で、徹底的に心を折ることだ。

Olは男の頭に触れ、先程までの記憶を封じた上で気付けをしてやる。激しく咳き込みながら男が起き上がる前に、Olは隣の部屋へと戻った。

オイクシラヴィヴノイク?オグナサル!

頭を振りながら、男はフローロに怒鳴りつけようとして固まる。

アルプ、ニグ、ネト

そして何かを恐れるように辺りをキョロキョロと見回し、フローロに何かを言い残して去っていった。

記憶は消しても、感情は消えはしない。むしろなぜ自分が恐怖を感じるのかわからない分、かえってそれは大きく不気味なものとなって襲いかかる。彼はもうフローロを怒鳴りつけ鞭打つことは出来ないはずだ。その行動が、Olが与えた恐怖と強く結びついているがゆえに。

Olサツセ、イ、ヴイク?

悪いが

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