大きく目を見開いて尋ねてくるフローロに、Olは肩をすくめて答えた。

お前が何と言ってるのかは、全くわからん

第1話新たなダンジョンで目覚めましょう-3

Olは突然めまいを感じ、壁にもたれかかる。その症状に、Olは心当たりがあった。

魔力失調だ。自分のダンジョンから切り離された上に、体内の魔力までもがほとんど抜けてしまっている。わずかとはいえ魔術を使うことによって、体調が悪化したのだろう。

とはいえ、そもそもOlがそんな状態になるのは奇妙なことだった。補給無しで丸一晩マリナと睦み合っていたのだから多少の消耗は不思議ではないが、体調を崩すほどに失っているというのはおかしい。

イドネタ、ウロヴノブ

フローロはOlにそう言いおいて、部屋を出ていく。Olが不調が収まるのをじっと待っていると、ややあってフローロはコップに入った水とパンを持って戻ってきた。

イグナムロヴノブ

そして、それをOlにそっと手渡す。食べろ、ということだろう。Olの不調を空腹であると思ったのか、それとも気休めか。いずれにせよ、食事にはわずかながら魔力が含まれている。Olはありがたくそれを食べようとして、手を止めた。

乾燥しきって、まるで石のように固いパン。明らかに不衛生で、不純物が浮き据えた匂いの漂う水。Olの価値観からすると残飯より酷いその内容に、彼は思わず顔をしかめた。

一旦皿を床に置き、Olはなにかなかったかと懐を探る。幸い、非常食として携帯していたチーズと干し肉が入った袋が見つかった。

Olはそれを小さく削ってコップに注ぎ入れ、熱を呼び覚まして温める。熱だけを呼び出す魔術は制御が難しいが、炎を出す魔術に比べて消費が少なくてすむし、木製のコップも燃やさずにすむ。

そうして作り直したスープに千切ったパンを浸して食べると、ほんの多少ではあるがマシな味になった。出来れば人参と玉葱に胡椒も欲しいところだが、この状況では贅沢な要求だろう。

と、Olが半分ほどを食べたとき、不意にきゅるるるる、と奇妙な音がした。不審に思って聞こえてきた方を見ると、フローロは己の腹を押さえ顔を赤く染めていた。

──ああ

Olは己の考えが及んでいなかったことを恥じる。つまりこの少女は、自分の食べるべき分を分け与えてくれたのだ。

すまなかったな。残りはお前が食べろ

Olは皿とパンをぐいとフローロに押し付ける。フローロは戸惑ったように首を振っていたが、Olが座ったまま壁にもたれかかって聞く耳を持たぬと言わんばかりに腕を組むと、ゆっくりとOlを真似るようにパンをスープに付けて食べ始めた。

アツスグノブ

ぽつり、と呟く彼女の表情が、花のように綻ぶ。そしてそのまま夢中になって食べ始めるフローロを眺めながら、Olは思索にふけった。

一体なぜ自分はこんなところにいるのか。ここは一体どこなのか。なぜ自分の身体から魔力が失われているのか。

フローロに尋ねられれば手っ取り早いのだが、生憎と言葉が通じない。かつて異大陸でユツやザナにやったような手段で言葉を通わせることは不可能ではないが、それには相手と交わる必要がある。

流石に命の恩人を無理矢理犯すような真似は、魔王と恐れられるOlといえどはばかられた。

名を呼ばれOlが我に返ると、フローロは空になった皿を前に両手を合わせ、Olをじっと見つめていた。

ンジョルバパク、ンジャノブ、サヴァヒ、ヴ

気にするな。元はと言えばお前が救った命、お前がよこした食料だ

相変わらず何と言っているかはわからないが、適当に返事をするOl。

イドネタ、ウロヴノブ

彼女は先程聞いたのと同じ言葉を残して、再び部屋を出ていった。恐らく、ここで待てというような意味なのだろう。そうやって少しずつ言葉を覚えていくしか無いわけだ、とOlは嘆息した。

とりあえずオグナサルプラマが罵倒の言葉であることと、ロヴノブがお願いします(プリーズ)に当たる表現であることなど、ある程度の事はわかってきたが、この分ではまともに意思疎通できるようになるにはどれほどかかることか。

フローロは先程よりも長い時間が経った後、戻ってきた。その手には何やら青い石英の結晶のようなものが握られている。

何だ、これは?

イグナム、ロヴノブ

またロヴノブだ。フローロはそう言いながらOlに結晶を手渡し、口を開けて入れるようなジェスチャーをしてみせた。

まさかこれを食え、というのか?

Olが尋ねると、フローロは彼の口を指して同じ言葉を繰り返す。どうやらそのまさからしい。

とはいえ、Olを害するつもりがあるなら寝ている間にそうしているだろう。危害を与えるわけでなくても不利益に転ずる様々な可能性はあったが、考えても仕方がない。意を決して、Olはそれを口に入れた。

硬質な結晶は、しかし口に含むとまるで氷のようにさらりと溶ける。味はしなかった。

私の言葉が、わかりますか、Ol?

しかし次の瞬間彼の耳鼻を打った言葉に、Olはフローロの首を掴んだ。

貴様俺に何をした!

言葉、を覚えて、もらい、ました

首を絞められながら苦しげに、フローロはそう口にする。

耳に聞こえてくる言葉はンジョツロヴ、ァル、シンレリ、ムだ。なのにその意味がOlにははっきりと理解できた。

身(・)体(・)が(・)、(・)作(・)り(・)変(・)え(・)ら(・)れ(・)て(・)い(・)る(・)。

一切の違和感はなかった。痛みもなく、衝撃もなく、体内の魔力も全く正常に流れ続けている。それが、かえって一層不気味であった。

答えろ。お前は

いいかけ、Olはふとあることに気づいた。

お前、この目は、どうした

フローロの左目。黒曜石のような黒い瞳の片方が、焦点を捉えていない。

Olの手から開放され、フローロは文句を言うでもなく、そっと顔を背けた。つい先程までは、こうではなかったはずだ。

Olはフローロの頭に触れ、魔力で彼女の瞳を走査する。あらゆる魔術の中でも、医療魔術は彼の最も得意とするところだ。

何だ、これは

そしてその彼をして、彼女の目は見たことのない状態であった。

フローロの左目は、完全に視力を失っている。にもかかわらず、眼球も神経にも一切の傷がついていない。まるで極めて精巧な模型を入れているかのようであった。

ありえんいや

Ol自身は実際に目にしたことはなかったが、このようなことになる方法は一つだけ知っていた。

悪魔との、取引だ。彼らは血や魔力、魂を好むが、場合によっては能力や肉体の一部を要求することがある。ちょうど、視力を対価にした人間は、この様になるらしいと聞いたことはあった。

お前売ったのか、視力を

一体何のためにか。それは、少し考えればわかることだった。水同然のスープをありがたがって飲むような娘が、人の言葉を覚えられるような石をどうやって手に入れてきたのか。

目は二つありますから

Olがそう悟ったことを、フローロもまた悟ったのだろう。彼女は観念したような笑みを浮かべると、そう答えた。

けれど、あなたに伝える方法は、これしかありませんでした。Ol、料理を作ることが出来るということを、他人に見せてはいけません

そもそもあんなものは、料理と呼べるほどの大仰なものではない。思ってもみない言葉に、Olは目を瞬かせる。

奪われてしまいます

お前のその目と同じようにか

Olが言うと、フローロは瞳を伏せた。

そんな事を伝えるために、お前は目を売ったのか?

仮に料理の技術を奪われたとして、Olはさほど困らない。そこまでの腕前は持っていないし、なくなったとしてもまた磨けばいいだけの話だ。

そんな事、ではありません

だがフローロはきっぱりとそういった。

Ol。あなたは私を助けてくれました。その恩に報いなければなりません。そのスキルがあれば、この底辺から抜け出すこともできるでしょう

底辺?

オウム返しに問うOlに、フローロは頷き、答える。

ここは壁界(ヘキカイ)の底辺、最下層。奪われたものの行き着く場所です

第1話新たなダンジョンで目覚めましょう-4

壁界?

未知の言語を理解できているというのは、極めて不思議な事だった。魂を繋いで意思を疎通するやり方とは随分違う。

壁界という言葉はOlの知る言葉の中には同じニュアンスのない言葉だ。だが同時に、壁という言葉と世界という言葉に近い意味合いを感じる。その二つの言葉自体が、親しいものではないというのにだ。

そもそもここは何なのだ。どこの

ダンジョンだと言いかけ、Olは言いよどんだ。ダンジョン、という言葉に相当する語彙が植え付けられた言語知識の中に存在していない。

それどころか、地下や迷宮という言葉すら。

お前は外のことを知っているか?

代わりに、Olはそう問うた。

どこの外ですか?

突然変わった話題に、フローロは不思議そうにしながらも尋ねる。

最上層より更に上。このような、壁のない場所のことだ

コン、と拳で壁を叩き、Ol。

ここが地下であることは間違いのないことだ。音の反響具合、温度や湿度、空気の動きなどが全てそれを示している。Olがダンジョンの見立てを間違う可能性は、太陽が西から登ってくるよりも低い。

壁のない場所?

だがフローロはOlの言葉にひどくショックを受けたようだった。

そんな場所があるはずありません。壁がなかったら、人はどこに暮せばいいのですか。それに、壁がなければどこまでも行けてしまうではありませんか

これに、Olは頷く。

そうだ、その通りだ。外とは、どこまでも行ける場所のことを言うのだ

そんな場所があるなんて、信じられません

フローロは首を振って、そう答えた。だがそれは、Olとて同じ気持ちであった。

つまりはこういうことだ。今Olは巨大なダンジョンの中にいて、そこに暮らすフローロは、ダンジョンの外の存在を知らないし、想像もできない。

言葉には空だとか太陽、地上といった語彙もなく、壁と世界がイコールでくくられてしまう程に、ダンジョンはあって当たり前のものなのだ。

そんな世界が、ありうるだろうか?

いや、ない。Olは即座にそう判断した。ダンジョンは閉じて独立した空間として維持することが出来ない。

人は獣を食べる。獣は更に小さな獣を食べ、小動物は草を食む。その植物が育つには、水と陽の光が必要なのだ。中には光がなくとも育つ苔のようなものもあるが、そういった種は成長が遅く、更に獣の死骸のような栄養が溶け込んだ土か水を必要とする。

とにかく、外部からの補充最低でも陽の光がなければ、ダンジョンの中身というのは目減りしていく一方なのだ。故にOlのダンジョンでは入り口を複数設け、外部からの侵入を常に許している。

だが少なくとも、フローロがそれを知らずに暮らしていける程には、出口というのは遠いのだろう。それならOlの魔力が失われていることにも説明がつく。

大気中に漂う魔力が極めて希薄なのだ。Olの迷宮のように龍脈の只中にあるようなダンジョンは例外としても。普通は空気中にも多少の魔力が含まれている。だが極端に魔力が枯渇した空間に放り出された結果、Olの体内の魔力は周囲に放出され、消耗してしまったのだろう。

まあ信じられぬなら、信じずとも良い。どの道俺もそこにさしたる興味はない

誰も空を知らぬ世界で、空を目指す物語。

Olでなければ、そんなものが始まったのかもしれない。しかしここにいるのは掛け値なしのダンジョン馬鹿であった。

それに、仮に外に出たとしても、彼が抱える問題が解決するわけではない。

──元の世界に戻れぬという問題は。

Olがこのダンジョンに迷い込み、一体どれほどが経っただろうか。気絶している間の正確な時間はわからないが、体調の具合からしても二刻(約四時間)は経っていると考えるべきだろう。元の世界ではとうに月は沈み、日が昇っているはずだ。

それほどの間Olとの連絡が途絶え、どこに行ったのかもわからないとなれば、ユニスは間違いなく転移で迎えに来るはずだ。来ないということは、来ることが出来ないと考えるべきだろう。

最善は転移自体を試みていないという事で、試したが転移は出来なかったというのがその次に良い。最悪なのは、転移自体は出来たがここに辿り着くことは出来ず、ユニスが時空の狭間にでも閉じ込められるという事態だ。

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