それにさえ気づけば、潰されそうになっても慌てる必要などどこにもなかった。彼を潰すことなど出来ない。結局彼の身体に天井が触れた時点で、その動きは止めざるを得ないのだ。

さて悪あがきもここまでだ

結局フローロにサルナークを害する手段がないということさえわかれば、慌てる必要もない。ゆっくりと追い詰め、殺せばいいだけの話だ。

まさか、降りてこないとは思いませんでした

ぽつり、と呟くようにフローロ。

ハ!あんなこれ見よがしな隙に引っかかるわけがないだろう

天井が迫りくる中、一箇所だけ空いていた場所。おそらくはそこに刃のようなものでも仕込んであったのだろう。サルナークが自ら飛び降り突っ込めば、その刃は彼を傷つけうる。

だがわざと隙を見せ行動を誘発するなどというのは戦の常道だ。今まで数々の戦いを生き抜いてきたサルナークは、直感的にそれを見抜いた。

はい。まあ。確かにあれは罠ではあるんですが

困惑したようなフローロの声。同時に、サルナークは妙だなと思った。

床(・)と(・)天(・)井(・)が(・)、(・)元(・)に(・)戻(・)ら(・)な(・)い(・)の(・)だ(・)。

自分から捕まってくれるとは思わなくって

なに?

あらゆるスキルには効果時間がある。

大半は剣術や鑑定のように一瞬か数秒で消えてしまうものだが、ものによっては数分、数時間持つものもあると聞く。だがいずれにせよ、それの効果はやがて失われるものだ。そしてたいてい、その時間は効力の強さや規模に反比例する。

ましてや母なる壁に似たものを作り出すようなスキルが、そう長く持つはずもない。数秒もすれば元に戻るのだろうと構えていたサルナークだが、床も柱も全く消える気配がなかった。

サルナーク。私が使った魔術は信じがたいことですが、柱や床板を生み出すスキルではありません。母なる壁を変形させ、動かすスキルです

フローロの言葉をサルナークが理解するのに、優に数秒を必要とした。

母なる壁はこの地に住まう者にとって、疑問を差し挟む余地などない、絶対的なものだ。いかなる方法を使っても破壊はおろか傷をつけることすら出来ない。ましてやそれを操るスキルなど、考えたこともなかった。

おかしいとは思わなかったのですか?床板を生み出しても、あなたを持ち上げることは出来ません

サルナークの鋼の盾は外部からのあらゆる力を無効化する。ならば当然持ち上げることなど出来るはずがない。だが実際に、サルナークはこうして天井近くまで持ち上げられている。

逆です。あなたが立っている場所以外の部屋全体を、全て低くしたのです

ば馬鹿な!そんな事、出来るはずがない!

それは二重、三重の意味を持った叫びであった。

何人もの奴隷を従え、他者のものを奪い、蹂躙してきたサルナークはお世辞にも善人とは言えないであろう。しかしそんな彼であっても、母なる壁を傷つける事は躊躇われる。実際に試みたところで傷一つつけられないとしてもだ。

その感覚は善悪を超越したもの。彼らにとって母なる壁は世界そのものであり、生まれたときから死ぬときまで一切変わらずに存在する絶対的なものだ。

それを操作できる者がいるなどと考えたくなかったし、出来るとしても実際にやるなど信じられなかったし、実際にやるとしてもこれほどの規模、これほどの量の壁を操作するなど、気がしれなかった。

──だが。彼女が言うことがもし、真実であるというのなら。

これは全て母なる壁だと言うのか!?

サルナークをぐるりと囲んでいる無数の柱と、彼の身長ギリギリの天井。フローロの言葉は、それが時間が経っても消えないばかりか、破壊すら出来ないことを現していた。

え?それ、言わなきゃいけないんですか?わ、わかりました

フローロはどこか戸惑った様子で一人呟き、サルナークを見据える。

その通りです。あなたは、最初から

ごごん、と音を立てて柱の隙間が別の柱で埋まり。

私の胃袋の中、です

フローロのその言葉を最後に、全ての音が遮断された。完全に密閉されたということだ。

母なる壁はそのものが光を放っているために何も見えなくなるということはないが、それ故に脱出する方法が全く無いということがありありと分かってしまう。

毛の逆立つような嫌悪感、抵抗感を押し殺して、サルナークは剣を振るう。だがそれは壁に一筋の傷をつけることも出来ず、逆に刃が欠けた。

おい待て。馬鹿なそんな事があるか?

出ることが、出来ない。その事実はじわじわとサルナークの心に染み込み始めた。それを悟ったかのように、壁が更に彼に向かって迫ってくる。

待てやめろ!よせ!

その先に待つ運命を正確に悟り、サルナークは青ざめた。

彼の鋼の盾は無敵だ。どんな攻撃も通じない。だからどんなに天井や壁が迫ってこようと、彼が押しつぶされる心配はない。

だが同時に、その迫る壁を押し止める方法もない。

壁を押さえれば、その部分の動きは確かに止まる。だが壁はまるで柔らかい粘土のように形を変えて、サルナークが押さえていない部分だけが迫ってくる。

待て待て待て待て!嘘だろう!?まさか、そんな、ことが!

迫る壁はけしてサルナークを潰すことはない。

ただ彼の存在する場所以外を、全て埋め尽くすだけだ。

身体をどう動かそうとその形にぴったり合わせて埋まっていく壁は、まるで精巧なサルナークの形をした型を取るかのよう。とうとう彼は指一本動かせないほどに周囲を埋め尽くされてしまった。

鋼の盾は今この場においては、何の役にも立たなかった。あらゆる攻撃が効かなくても、腹は減る。いや、その前に乾き死ぬかあるいは、息が詰まって死ぬ方が早いかも知れない。

出せ!ここから出せ!

いくら叫んでも声は狭い空洞の中で反響するばかりで、それどころか口の中に侵入してきそうな壁を防ぐためにサルナークはぐっと口を引き結んだ。

壁の中にいる。

ただそれだけで。己が破滅してしまったのだということを、サルナークはようやく悟った。

第2話奪われたものを取り戻しましょう-5

フローロは壁に閉じ込められたサルナークが完全に動かなくなったのを確認して、深く息を吐いた。Olの術には壁を操るだけでなく、その中を覗き見るものまである。

その知識はあまりに膨大で広範なものだったが、フローロは迷うことなくその力を振るうことが出来た。なぜかといえば

(とりあえずこれで決着という所か)

フローロの頭の中に、声ではなく直接意味が響く。それは言語を介さない思考そのもの。彼女の内側に取り付いた、Olの思考であった。

(本当に、何者なのですか、あなたは)

(それはこちらの台詞なのだがな)

結晶化したスキルというものは、それを扱うこと自体は自然と出来るものだ。しかし複数の異なるスキルを組み合わせて自在に操るとなれば、それには訓練と慣れが必要だ。

フローロがOlのスキルを

(魔術だ)

魔術を操ってサルナークを追い詰めることが出来たのは、この声の支援があってのことであった。

ああの陛下

残されたサルナークの奴隷たちのうち、一人がおずおずとフローロに問いかけた。

あたしたちは、これからどうしたら?

その問いに、フローロは返答に詰まる。今の彼女は魔王ではない。最下層の奴隷に過ぎないのだ。奴隷たちを導けるような立場にはなかった。

(お前はそれでいいのか?)

迷う彼女の心の中を見透かして、Olは問いかける。その意思は厳しく問い質すようでもありながら、不思議と楽しげに尋ねているようにも思えた。

(私、は)

いい訳がない。もちろん、それでいいはずなど、あるわけがなかった。ましてやフローロを見つめる魔族たちの前で──

奴隷にまで身をやつした臣民たちの前で、それでいいなどと言えるはずがない。

フローロに注目する奴隷たちの表情は様々だ。だがそこには明るいものは何一つなかった。不安、困惑、怒り、憤り。彼女たちの境遇と、自分の立場を考えれば当然のことだ。

皆さん。今まで、苦労をかけました

だがその表情はかつて幸福に彩られ、笑みに満ち溢れていたはずだ。

私は先代魔王、ストーノの娘。フローロ・サナオ・エウニーセ・オーレリアです

そう思うと自然と、フローロの唇は言葉を紡いでいた。

サルナークはこの柱に封印しました。程なくして死ぬでしょう。そうなれば、あなた達は奴隷の身分から解放されます

奴隷たちがざわめく。それは歓迎ではなく、不信のざわめきだ。

私もまた、奴隷です。この身には何も残されてはいない。私一人では何も出来ません

その気持ちは、フローロには痛いほどわかった。彼女自身がそうだったからだ。

なるべく何にも期待しないように。何にも心を動かさないように。そうして生きてきました

彼女と同じ場所に落とされ、それでもなお我を通そうとする男の姿を見て、フローロは思ったのだ。

でも、それはもう、嫌です。魔族と言うだけで虐げられる暮らしは。奴隷となってあらゆる自由を奪われ、惨めに扱われる暮らしは。何にも期待せず、生きたまま死体となってただ人生を送る一生は、もう嫌です

彼らはフローロのことを信じてはくれないだろう。

私を信じてとは言えません

失敗し、奪われ、破滅したかつての王のことなど。

でも、もう一度だけあなた達自身の力を、信じてほしい

──自分のことすら、信じられないのだから。

わたくし達の力

ぽつりと呟いたのは、ナギアだ。

魔族は魔族と呼ばれている私達には、力があったはずです

それに答えるように、フローロは声を張り上げた。

ナギアさん達尾族は、人よりもよく見える瞳と強靭な下半身があります。羽族には空を舞う翼と軽やかな身体が。牙族にはあらゆるものを切り裂く鋭い爪と牙が。それは奴隷として使役されるためのものではないはずです!

奴隷たちの表情が、僅かに変わる。フローロに集まっていた視線は、互いを見やった。

私は信じたい。自分のことをもう一度信じて──自分の道は、自分で選びたい

それはあるいは、破滅への道なのかも知れない。少なくとも彼らは一度、その道を選んで失敗している。

すぐに決めろとは言いません。一日、ゆっくりと考えて決めて下さい

呆然とする奴隷たちを置いて、フローロは踵を返し、その場を立ち去った。

良かったのか?

部屋を出ると、いつの間に外に出たのかOlがそこに待ち構えていた。

今のお前がそう命じれば、奴らはお前に従ったと思うが

奴隷となったものは、己で物事を決めるという事に不慣れだ。だからこそ、彼らはフローロに今後のことを尋ねた。しかし彼女のやったことは、それを突っぱねるようなものであった。

ええ。今の私には彼らを導く資格も、力もありませんから

そう答えるフローロの表情は、しかしさっぱりとしている。

(力ならここにあるだろう)

フローロの頭の中に潜んだOlの意思がそう尋ねる。確かにOlのこのスキルが

魔術があれば、魔族を解放することも出来るかも知れない。サルナークが最上層を夢見たのも無謀とは言えないだろう。

いいえ。これはお返しします。ナギア

ひ、ひゃいっ!?

突然名前を呼ばれ、ナギアは思わず角の陰から返事をしてしまった。彼女の蛇のような下半身は、自分で立てようと思わなければ全く音を立てずに床を移動することが出来る。足音一つなくついてくる尾族の尾行に気づくことが出来るものは少ない。

私に入れたス魔術を、Olに戻して下さい

よよろしいのですか?

訝しげに問うナギアに、フローロは頷く。確かに彼女の目から見れば、これほどの術をOlに返すというのは勿体ないことのように思えるのだろう。だがうっかり頭の中でスキルと呼ぶ度に訂正され続けるのは正直フローロとしても面倒だった。

(面倒とは何だ、面倒とは)

(それに、その気になればあなたは私を乗っ取ってしまえるのでしょう?)

不満げな意思に尋ねると、ニヤリと笑うような雰囲気が伝わってきた。もしあのときスキルの

魔術の結晶を、フローロではなくサルナークが奪っていたら、そのまま彼の身体を乗っ取ってしまっていたのだろう。

形代を操作する魔術。自身の肉体を操りながら他者の肉体をも操作する程その術に長けたOlの目から見てみれば、わざわざ彼の術を自分の内に入れることなど自殺行為に等しい。

ナギアの手によってフローロの中からOlのスキルが引き抜かれ、元の持ち主へと戻される。

あ、あれっ!?Ol様、腕と足は!?

その際に、サルナークに斬り落とされたはずの手足が元に戻っているのに気づいて、ナギアは驚きに目を見開いた。

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