リルがこんなに厚着してるところなんて初めて見たもんね

悪魔は暑さ寒さには強いから、別にいつもの格好でもいいんだけどね

やめて下さい。見ているこっちの方が寒いです

からかうようなユニスの言葉にリルがそう答えると、スピナが身体を震わせながら言った。青く晴れ渡った空からは雪も風もなく燦々と日光が降り注いでいるというのに、凍てつく寒さは体の芯を突き刺すかのよう。

隣にあると言うのに灼熱の太陽が大地を焼く砂の国とは正反対。それが、この氷の国、ヒムロであった。

室内なら多少はマシだから、安心して頂戴

ザナが言いながら、城をぐるりと囲む堀へと手をかざす。すると途端に堀を埋めていた水が凍りついて、氷の橋が出来上がった。

姫様!

橋を渡って城の中に入るとすぐさま、武装した兵士の一団が駆けつけてザナを出迎えた。

姫様、よくぞお戻りになられました

あなた達も、よくあたしの留守中城を守ってくれたわね

ザナはにこやかに臣下たちに声をかけていく。それは月の女神を降ろしている時の丁寧な口調とも、Olに相対している時の乱暴な物言いとも違う。それが彼女本来の姿なのだろう、とOlは感じた。

そしておかえりなさいませ。イヴ様

兵士団はOlにというよりその後ろに隠れるようにして身を縮めるイェルダーヴに向かって、恭しく礼をした。

イヴ?

その子の本当の名前よ。イェルダーヴというのは、あいつがつけた名前だから

Olの疑問の声に答えたのは本人ではなく、その姉のザナだ。

本当の、名前?

それどころかイェルダーヴ自身が、不思議そうにしていた。

覚えてないのも無理はないわ。あなたが連れ去られたのは、もう十年も前のことだから

そしてその十年の間、首輪によって自由意志を封じられ、人形のように扱われてきたのだ。己の名すら忘れてしまっても無理はなかった。

イヴ様を取り戻して頂いたこの度の御恩、万言を費やしても足りませぬ。誠に、ありがとうございます

そして彼らはOlに向き直ると、膝をついて頭を垂れた。ユニスが自然な動作で、Olの横に半歩あゆみでる。

ザナよ。お前の配下は面白い連中だな

くく、と喉の奥で笑いを漏らしながら、Olは言ってやった。

でしょう?主と一緒で育ちが悪いもんでね

何、俺も元はといえば貧民の出だ。吹けば飛ぶような小国といえど、卑下することはない

Olはわざと挑発するように嘲ったが、跪く男たちから放たれる強烈な殺意には何の変化もなかった。国を侮辱されても気にも留めない彼らが怒りを抱いているのは、ザナを穢され傷物にされたからだろう。

ユニスが警戒するほどの明確な殺意を隠しもせずに放っておきながら、しかしこれ以上ない礼節を持って恭順の姿勢を取る。面従腹背というのも馬鹿馬鹿しい程の、あからさまな態度であった。

さあ、こんなところで立ち話もなんだし、応接間へいきましょう。おもてなしするわ。暖かいお茶で、身体を温めましょう。毒はいくつ入れる?

入れるな。別に効きはしないが味を損なう

実によく似た主従だ、とOlはもう一度笑った。

本当に氷でできてるのね

なのに全然寒くないのは不思議だね

しげしげと壁を眺めながら感心したように吐息を漏らすリル。分厚い外套を脱ぎ捨てながら、ユニスは首を傾げた。

壁に触れればひやりとした感触はするが、それ以上の冷気を放つわけでもない。部屋の中には煌々と火が焚かれていて毛皮のコートを着ていては暑いくらいだと言うのに、溶けるような様子もない。

氷というより、不透明なガラスで出来ていると言われた方がまだ納得できそうだが、ガラスでは重みに耐えきれず粉々に砕けてしまうだろう。尋常な氷ではないことは確かであった。

まあベッドまで氷じゃなくて良かったよね

ぎしりと軋みをあげる寝台に寝転がり、ユニス。

あまり質は高くないようですが

その音に、スピナは神経質そうに眉をひそめた。

確かに、精一杯の贅を凝らしているのはわかるが、供された食事も部屋にある調度品も、Olのダンジョンのものに比べると一段どころか何段も劣るものであった。

雪と氷以外に何もない貧困の国、というザナの言葉は真実であるのだろう。

ソフィアのことが心配?

一人言葉もなくぼんやりとベッドの縁に座り込むマリーに、リルは声をかけた。

うんちょっとね

お師匠様が一緒なのですから、何も心配するような事は無いと思いますが

頷くマリーに、スピナがただ事実を告げるかのように言った。

Olとソフィアは国家間のあれこれを決めるということで、ザナと共に部屋に篭りっきりだ。

まあ心配になるのはわかるけどね。あたしたちはあたしたちで、やるべきことしないと

ユニスの言葉にコクリと頷き、マリーは準備を始めるのだった。

こんなところか

凄まじい速度で走らせていたペンを止め、Olは羊皮紙をピンと指で弾く。

そこには一刻半(約三時間)にも及ぶ会議の末に決まった取り決めが、びっしりと書かれていた。

そら、起きろ

ふぁっ!ね、寝てないよ!?

ぽんとソフィアの背中を叩くと、愛娘はびくりと身体を震わせて目をぱちぱちと瞬かせた。完全に意識を失っていたのは間違いないが、そのことをとやかく言うつもりもない。代わりにOlは手にしていた書面を彼女に渡した。

お前も一応確認しておけ。意味はわからずとも良い今のところはな

言われるがままに、ソフィアは紙面に視線を走らせる。細かな字を追っていると再びまぶたが重く垂れ下がってきたが、その度にOlがソフィアの背に回した手に力を込めて彼女の眠りを阻害した。

そら、お前もだ

その間にOlは全く同じ内容の写しをもう一部作り上げて、対面に座るザナに手渡す。

ねえ、今何も見ずに写してたけど、あんたまさかこれ全部暗記してるの?

俺が作った内容なのだ、当たり前だろう

あっさりと返すOlに、ザナは辟易とした。文面が同じというだけならともかく、改行位置や細かな筆跡まで、まるで左右反転しない鏡にでも映したかのようにソフィアが眺めているものとそっくり同じだったからだ。

まあいいけどね

ザナはちらりと羊皮紙を一瞥すると、さっさとサインを記してOlに手渡す。

もう確認できたのか?なかなかやるではないか

そんなわけないでしょ

ザナの手とOlの指先の間で渡された書類が、ピシリと凍りついた。

凍てつく氷はそのままOlの腕を一瞬にして伝っていき、その肩から胸元までを覆い尽くす。

どういうつもりだ

反射的にOlが放った魔術の光がそこで氷の侵食を食い止めたが、その時には既に彼の半身は凍りついていた。しかも、氷の侵食はなおもじわじわと進んでいく。

どういうつもりも、何も

ザナは笑った。今回国交を結ぶにあたって、彼女とOlとの魂の接続は既に切断されている。その内心を聞き取ることはもはやできなくなっていた。

何度も言ったでしょ、あたし。あんたを、殺してやるって

確かにそれは、ザナがまるで口癖のように言っていたことだった。だがOlがそれを警戒していたかと言えば、否である。

彼女は何度もそれを実行に移せる状態にいながらそうすることは一度もなかったし何より、口先や心の中でそう悪態をついたとしても、その心がOlに対する殺意にまみれる事はついぞなかったからだ。

Olであれば、本当に相手を殺すつもりなら殺すなどといちいち脅さない。告げるよりも先に実行に移すべきだからだ。

だが、とOlは完全に動かなくなった左腕を見やる。ここまでするからには、冗談というわけでもないのだろう。ソフィアは無事なのも、わざわざ書類が出来上がるのを待っていたのも、その条文を持ってソフィアのダンジョンを利用するためだ。Olさえいなければ、内容などどうにでもなる。

となれば、Olが取れる選択肢は一つしか無い。

Olが僅かに動く右腕で石の塊を投げ渡し、叫んだ。

行け!

第14話臆病者を焚き付けましょう-2

えっ、えっ

Olの声に急き立てられるかのように、ソフィアは部屋を飛び出す。

捕らえて!

え、え、ええー!?

そこにザナの命令が飛んで、兵士たちが彼女に向かって殺到した。その胸にOlから投げ渡された石と読んでいる途中だった書類を抱きかかえ、ソフィアは四方八方から伸ばされる男たちの腕をなんとか掻い潜る。

ちょ待っ、てっ!

小さく小回りの効く身体を活かして何とか逃げ回るが、ダンジョンを離れたソフィアはただの少女でしかない。成長に伴って自分のダンジョンから離れて行動する能力は身につけたものの、神としての権能は自分の領域でしか使えなかった。

出来るならこの氷の城自体を自分のダンジョンとして掌握してしまいたいところなのだが、それも叶わない。建築物を己のものとするには、自分のダンジョンが隣接していなければならないのだ。

例えばソフィアのダンジョンから地中にトンネルを掘ってこの城の最下部と接続し、そこから占領してしまうようなことなら出来る。だがそんなトンネルの用意などなければ、最下部に辿り着くことさえできそうもなかった。

ソフィアは屈強な兵士たちに隙なく取り囲まれて、逃げ道を失う。

あっ、これ

飛びかかってくる男たちを前に、ソフィアは不意に気がついた。

彼女が呟くと同時に、兵士たちは突然吹き飛ばされ、地面を転がる。

な何が起こった!?

僅かに後方に位置していたために難を逃れた小隊長は、目の前の光景に目をむいた。地面を転がり呻き声をあげる部下たちを吹き飛ばしたのは、年端もいかないその少女であることは疑う余地もない。

だがしかし、その方法が全くわからなかった。少女は腕を振るうわけでも、何か呪文を唱えたりしたわけでもない。彼らの主、氷の女王ザナとて超高速の術の発動には極小ではあるが詠唱が伴っている。だがソフィアにはそのような兆候は全く見られなかった。

その上、どんな方法で攻撃されたかすらわからないのだ。風が巻き起こるわけでもなければ光が瞬くわけでもなく、ただ兵士たちは地面を転がっていた。

ならば、攻撃されるより早く気絶させるしかない。最短距離を最速で突き出した兵隊長の槍は、しかし目に見えない硬質な何かに遮られてソフィアの身体に届くことはない。

が、彼はその瞬間、兵士たちを打ち倒したその方法に気づく。

わかっ

叫ぼうとしたその瞬間、彼の意識は途絶えた。

ごめんなさい、あの、どいてくださーい!

兵士たちが物々しい様子で密集する廊下に、どこか場違いな少女の声が響いていた。

やめてぇー、どいてー!お願い、邪魔しないでぇー!

悲鳴のようなその言葉があがる度に兵士たちは吹き飛ばされ、地面を転がっていく。

業を煮やした兵士の一人が弓を構え、ソフィアの背後から狙い撃つ。

わあっ!?

ソフィアが悲鳴を上げたのは、その矢が彼女の遥か手前で跳ね返って、地面に転がった後のことだった。それはつまり、彼女の死角をついて認識外から攻撃しても防がれるということである。

巨人だ!

兵士の一人が叫んだ。

目に見えない巨人が、奴を守っていると思え!

ソフィアの一撃は、鍛え上げられた兵士が一撃で行動不能になってしまうほどに強く重い。風を操っているのでは、こうは行かないはずだ。無色透明の巨人などとは不条理にも程があるが、そうとわかれば手のうちようもあった。

兵士たちは僅かな目配せをして、前後左右、四方向から一斉にソフィアに襲いかかる。

そして、同時に皆吹き飛ばされた。

巨人は、二体以上いる!

その絶望的な情報は、すぐさま共有される。

下がってろ!

法衣に身を包んだ兵が前に出て、印を組みながら呪文を唱える。その手のひらからは猛烈な冷気が吹き出して、ソフィアの周囲を包み込んだ。

えっ、えっ、何!?

流れ落ちる水滴さえそのままの形で凍りつかせる冷気に包まれながらもソフィアは変わらず元気な声をあげたが、効果はあった。空気中に存在する僅かな水分が細かな氷の粒子となって、ソフィアを包み込むそれの姿を浮かび上がらせたのだ。

なんだ、これは

そしてその形容しがたい姿に、兵士たちは一様に言葉を失った。想像していたのは、盾か鎧で武装した武器を持たない巨人の姿。

だが実際に浮かび上がったのは、まるでイソギンチャクのように無数の触手を伸ばす、奇妙な怪物であった。それがソフィアをすっぽりと覆い尽くしている。これでは、どの方向からどのタイミングで攻撃しても無意味であるわけだった。

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