光の粒子となって消えてゆく智天使を見届けながら、ミオはほっと息を吐き、ウォルフの頭の上にもたれかかった。彼女を落とさぬよう気を払いながら、ウォルフは城へと目を向ける。
こちらの仕事は終わった。後は、お前の番だ。
そう、胸中で呟いて。
天使が消えた。親父がやったようだな
不死身と共に分娩室を守りきり、ザイトリードは己の出番が来た事を知った。
彼は分娩室へと入ると、ぐったりとしている己が妹に声をかけた。
よく頑張ったな。俺は兄として、お前を誇りに思う。愛しているぞ
お兄様?
ぼんやりとした表情でユニスは彼を呼んだ。
しかしザイトリードは答える事無く、ユニスの息子の下へと足を運んだ。Olとメリザンド。魔王と聖女が力を合わせて英雄の呪いを防いでいるが、その表情には焦燥の色が濃い。
三重紋が示すのは、ただ英雄三人分の力が宿っているという話ではない。それら全てを掛け合わせた、未曾有の強さだ。恐らく今後数百年は英雄は生まれないだろう。それだけ、天は本気なのだ。
それを防げるのは、ザイトリードの力だけ。そして防ぎきれば恐らく彼は力を使いきり、命を落とすだろう。存在そのものが消え、二度と転生も出来ず彼というものはこの世界から消える。だが、それでも悔いはなかった。
過去妹を殺した贖罪ではない。彼女の、そして彼女の息子と認めたくないが、夫の未来を、守る為の戦い。それが、ザイトリードしか出来ぬというのだ。英雄としてこれほどの誉れがあろうか。
魔王よ。貴様には言いたい事が大量にあるが一つだけ、誓え。ユニスとその子を、必ず幸せにすると
言われるまでもない
真っ直ぐに目を見つめ、Olは答えた。何故この男の目の強さを、最初に見抜けなかったのか。ザイトリードは今更のように、そう思った。
ヒルダ。父に伝えてくれ。あなたの息子は最後まで勇敢であったと。そして再び、お前を残していく事を、許してくれ
ザイトリードの妻はにっこりと笑い、首を振っていった。
いやです
まさか拒否されるとは思わなかったザイトリードは言葉を失った。
私の夫は、英雄王も認める男。世界で最高の、英雄です。天如きに、負けはしません
そして、自信を持ってヒルダはそう答えた。
それに。あの子が産まれた日に、不幸を一つ残すおつもりですか?
お義姉様
ヒルダはユニスに微笑みかける。義理とは言え、自分の妹同然に見てきたのだ。ユニスの苦悩を、彼女はよく知っていた。
はっはっは! 胆の据わった姉ちゃんだな!
ザンドかつて不死身と呼ばれた英霊は笑い、ザイトリードと肩を組んだ。
あら、姉ちゃんだなんて。おばさんでいいんですよ
それに控えめに微笑み、ヒルダは答える。
よし、やるぜ世界で最高の英雄さんよ!世界で最古の英霊が手伝ってやる。ぶっつけ本番だが行くぜ!
そう叫び、ザンドはザイトリードの身体に入り込んだ。二つの英霊の魂が、一つの身体の中で交じり合う。
メリー、力の供給は頼んだぜ。やりな、兄さん!
ザイトリードは赤子に手をかざすと、その両の手の平に力を注ぎこんだ。
おおおおおおおおおお!!
ザイトリードは全力で、赤子の英雄を打ち消した。全身に衝撃が走り、身体中がバラバラになりそうな痛みが駆ける。指先から焼けた鉄の棒を打ち込まれたようなその苦しみに、しかしザイトリードは苦悶の声一つあげず能力を使うことに集中した。
全身の皮膚が理力と理力のせめぎあいで崩れ、血が沸き立ち、肉が弾ける。それをザンドは次から次へと再生していった。自分の霊体ならば千に裂かれようと自然に修復されるが、他人の身体となると勝手が違う。
しかも、身体と同時にザイトリードの魂自体も傷付いていく。ザンドはそれを必死で繋ぎとめ、直し、修復した。
それはほんの数秒の出来事だったが、二人にとってはまるで永遠のような長い長い時間に思えた。そして、それを見守る者たちにとっても。
赤子の額から紋章が消え、魔法陣の上でバランスを失い、地に落ちる。それを、Olは優しく抱きとめた。
よぉ生きてるかい、兄さん
よろよろとザイトリードの身体から抜け出し、ザンドは尋ねた。
何とかな
ごほりと血を吐き出し、ザイトリードは答えた。身体の中はぐちゃぐちゃだが、少なくとも死んではない。そして幸いな事に、ここには回復の手だけは十分にあった。
お疲れ様でした、あなた
潤む瞳で、ヒルダはザイトリードを抱きしめ、口付けた。
さあ、ユニス。抱いてやれ
すやすやと寝息を立てる息子を、Olは妻に渡した。ユニスはそっと壊れ物を触るように彼を抱き、目を細めてその顔を見た。
あたしと、Olの赤ちゃん
そして、何よりも愛おしいものを見る瞳で微笑んだ。
髪の色はユニスの血だね。炎みたいに真っ赤
目元と鼻筋はお師匠様に似ています
それを横から覗き込み、リルとスピナも表情をほころばせた。
無事天に勝利した事を喜ぶ声がそこここであがり、空に竜の咆哮が響き渡る。
この子はどんな物語を紡ぐんだろうね
眠る我が子を見つめ、ユニスは呟いた。今なら、亡き母が命を賭してまで自分を生んだ理由がわかる。この子の未来のためなら何も惜しくはない。ユニスはそう思った。
敷かれた道は崩した。後は自分で為すべき事を為すだろう
Olは赤子を撫で、笑みを浮かべた。この騒ぎの中眠っているとは、案外英雄の力などなくてもこの子は大物になるかもしれない。他ならない、父親の様に。
そうだね。あたしと、Olの子供だもん
ユニスは太陽のように輝く笑顔を浮かべ、そう言った。
その胸に、空の様に広がる未来を描きながら。
魔王の始め方完
それでも彼女は微かに笑んで前編
ねえ、わたしの誕生日もお祝いしてよ
お前は何を言ってるんだ
いつもの事ながら唐突な使い魔の申し出に、邪悪なる魔王は呆れた口調でそう返した。
えー、だって、ユニスは毎年皆でお祝いしてるでしょ? スピナだって、こっそり祝ってるじゃない。わたしだけ何にもないのは不公平だと思うの
別に、祝うという程の事はしていないが
気付いていたのか、と内心Olは呻く。
スピナの誕生日というのは、彼女がそれまでの名を捨て魔術師となった日の事。即ち、Olと初めてであった日の事でもある。
あまり賑やかしい場を好まない彼女はユニスの様に祝いの席を設ける事はなかったが、何とはなしに、師弟で酒を酌み交わし、そのまま睦事に移るのが倣いとなっていた。
別にわたしだって、国を挙げて大々的にお祝いしてなんて言ってるわけじゃないの。ご主人様からちょっと、誕生日おめでとう、とか、いつもありがとう、とか、愛してるよ、とか言ってもらえればって思っただけで
さらりと誕生日に関係のない要望を混ぜるな
Olが指摘すると、リルはふいと目を背ける。絹糸のように垂れる髪の隙間から、赤く染まったうなじが見えた。
照れるくらいなら言うんじゃない
なによぅ
まあ、そのくらいなら吝かではないがそもそもお前の誕生日っていつなんだ
改めて問われ、リルは答えに窮した。自分が生まれた日の事など全く覚えていない。そもそも暦という概念のない魔界においては、季節すら定かではなかった。
あーじゃあ、あれだ。ラズが死んだ日。それならある意味、わたしの誕生日じゃない?
お前という奴はいくら何でもそれは縁起が悪すぎるだろ
悪魔だもん、しょうがないじゃない
どっちにしろ、細かい日付までは覚えとらん。何十年前の話だと思ってるんだ。春頃だったというのを辛うじて覚えてるくらいだ
んー、じゃあ、あれだ。初めてOlにあった日は?
それなら覚えてるがだいたい、9か月後だな
えー
何の不満があるんだ
遠いよ! 遠すぎるよ! じゃあ、明後日とかにしよう
短すぎるわ。第一、お前と何の関係も無かろう
うー
頬を膨らませ、リルは唸る。
たかだか9か月くらい待っていろ。別にお前にとっては長いも短いもあるまい
そのOlの言葉が、リルの感情を逆なでした。
もういい
ふわりと宙に飛び上がると、彼女は部屋を出て行ってしまう。
残された時間は少ないのにリルは、Olの部屋を出て溜め息をついた。
彼女がOlの傍にいられるのは、さほど長くはない。
多く見積もっても、後たった数百年ほどだ。
どんなに魔術を駆使しても、肉体を若く保っても、人の魂というのには寿命がある。悪魔とて無限に生きられるわけでもないが、持つ時間は人より遥かに長い。リル自身はまだ百にも満たないが、少なくとも数千年は生きる事が出来るらしい。
そんな事を考えながら歩いていると、その生き証人とでもいうべき存在が目に映った。炎のような赤い体に、太くたくましい四本の腕。山羊の様にねじくれた角を持つそれは、数千年を生きたと豪語する悪魔、ローガンであった。
ローガ
その背に声をかけようとして、リルは躊躇った。表情は見えないが、ローガンの身体が今までになく緊張しているのが分かる。かつて、英霊と戦った時でさえ見なかった程の迫力を滾らせ、ローガンは魔力を漲らせていた。
行くぜ!
低く唸るような声色は真剣そのもの。
うおおおおおおお!
裂帛の気合いと共に、ローガンはその腕を伸ばし
そして、その先にいた幼い少女の肩に、ちょんと触れた。その瞬間、彼女に秘められた呪いがその凶悪な牙を剥く。
我が生涯に、一片の悔いなし!
強大な魔力の奔流に、ローガンの身体はあっという間に灰と化した。
何やってんの
ローガンが、レティシア触ろうとして死んじゃった
傍らで見ていたマリーに訊ねると、彼女は淡々と灰を集めながらそう答えた。レティシアというのは、今年五歳になったOlの八番目の娘だ。彼女は何が起こったのかわからず、きょとんとしている。
ローガン、どこいっちゃったの?
ちょっとおうちに帰っただけだよー
もう、戻ってこないの?
じわり、とレティシアの瞳に涙が浮かんだ。
そんなことないよ、すぐ戻ってくるって
でも
彼女の視線はマリーの手の中の灰に注がれていた。まだ幼いとはいえ、魔王の庇護のもと高いレベルの教育を受けているのだ。既に生き死にを理解するくらいの力はあった。灰になって生きていられるものなどいないし、実際ローガンは死んでしまっている。
ただ、そこから容易く蘇られるのが悪魔という存在だ。彼らの本体は魔界に存在していて、こちらの世界にやってくるのはその現身に過ぎない。召喚し直せばまた何度でも蘇る事が出来るからこそ、ローガンも簡単に己が身を滅ぼしたのだ。
とはいえ、ローガン程の悪魔を再召喚するのもなかなか手間がかかる。普通に呼ぼうとするなら、相当時間をかけて準備しなければならない。
もう、しょうがないなあ
リルはため息をついてレティシアの頭を撫でると、跪いて彼女に目線を合わせた。
レティ、安心して。わたしがすぐ連れて戻ってきてあげるから
ほんとう?
もー、リル、あんまり甘やかしちゃだめだよー
瞳を輝かせるレティシアと、灰になったローガン。その両方への意味を込めて、マリーはそう言った。
あんただって昔、ローガンが死んだと思って大泣きしたじゃないの
うっ
ニヤニヤと笑いながら指摘してやると、マリーはばつが悪そうに口を噤んだ。
ま、とりあえずあの馬鹿連れ戻してくるね
リルは地面に手早く魔法陣を描くと、そこに魔力を通して中に入り込む。魔界との道を繋ぐだけでなく、逆流防止の魔法陣だ。下手に道を開いて、悪魔が大挙してやってきても困る。
10分くらいしたら呼んでね。マリー、出来るよね?
うん、わかった
マリーも簡単な魔術はOlから習っている。悪魔の召喚は本来なら細心の注意を持って熟練の魔術師がやらなければ危険なものだが、その当の悪魔が全面的に協力するのなら見習いレベルの彼女でも問題はない。
じゃ、行ってくるね
リルはまるで水の中に潜るかのように、闇の中にとぷんと身体を沈ませた。
っふぅ
久方ぶりの実体に戻り、リルは身体をこきこきと動かす。
魔界は、人間が住む世界に比べて酷く殺風景な世界だ。というのも、この世界には悪魔以外の生き物というのが存在しない。物は常にそのままであり続け、変化しない。倦怠の中で悪魔達は日々を無為に過ごし、たまに人間に呼ばれては魔力や魂を得るのだ。
んーっと、こっちか
ローガンの力は強いので、すぐにわかる。翼をぱたぱたとはためかせて向かうと、大きな赤い悪魔はすぐに見つかった。
おう。わざわざ迎えにきたのか
あんたのせいでレティが泣き始めちゃったの
おっと、そりゃあ悪いことをしたなぁ!
嬉しそうね、あんた
満面の笑みで声を弾ませるローガンに、リルはげんなりとする。